The code name



 無機質な建物の中を兵士のように訓練された律動的な足音が支配する。真っ黒なスーツで身を固めた足音の主――ジンは廊下の突き当たりへと辿り着いた時、サングラス越しに映る真っ白な壁の眩しさに思わず顔をしかめた。
 剥き出しのコンクリートに埋め込まれた鉄の扉を開けると広くて殺風景な部屋が現れる。中央の粗末な木製のテーブルには彼と同じく全身黒をまとった人間が数人。酒精を纏ったような濁った目で携帯を弄んだり酒を煽ったりしている。が、ジンの姿を認めるやそのほとんどがそそくさと部屋を出て行ってしまった。
 そんな周囲の反応を気にする様子もなく一番手前の椅子へと無造作に腰を降ろし、ポケットから煙草を取り出してライターで火を点けるジンの元へタイミングを見計らっていたかのように筋肉質で大柄な男が「あ、兄貴……」と遠慮がちに近付いて来た。
 「どうした、ウォッカ」
 顔を向ける事なく発せられる不躾な問いかけにウォッカと呼ばれた男が緊張したように背筋を伸ばす。長年自分に仕えているだけあり機嫌が悪い事を敏感に察したようだ。
 「その……ベルモットが兄貴の事探してやしたぜ」
 「あの女ならさっきからそこにいるが?」
 「へ…?」
 間抜けな反応を返すウォッカを無視すると次の瞬間、ジンの手が翻りどこからともなく現れたナイフがヒュッと風を切る。虚空に飛んだと思われたそれが床に刺さる音にウォッカが振り向くと後方のテーブルでグラスを手に一人の男が不敵な笑みを浮かべていた。
 「お、お前…?」
 「そんなところで何をしている、ベルモット」
 不気味な笑みを浮かべ沈黙を守っていた男はジンが再びナイフを投擲しようとすると観念したように立ち上がり、顔を覆っているマスクをビリッと一気に剥ぎ取った。
 「随分と殺気立ってるじゃない。何かあったの?」
 「お前には関係ない事だ」
 「そうかしら?だったら……」
 試すような視線で手にしていたグラスを自分に差し出すベルモットにジンは舌打ちすると彼女を睨んだ。独特の柑橘系の芳香が漂うその酒はボンベイ・サファイア――ヴィクトリア朝時代の製法を復活させた優雅なハーブの風味が世界中で好まれるプレミアム・ロンドン・ドライ・ジンの逸品。彼が普段決して口にしない自らのコードネームを冠した酒である。
 「あ、兄貴……」
 銀針のような髪の隙間から覗く鋭い眼光にオロオロするウォッカに対し睨まれた本人は平然とジンの横に腰を下ろした。
 「言ったはずだ。お前には関係ないと」
 「フフ……相変わらずの秘密主義ね」
 「秘密主義だと?反吐が出るぜ。どの口が言いやがる」
 刺すような視線でベルモットを一瞥するとジンは目の前に置かれたグラスを呷った。その様子に意味ありげな視線を投げるベルモットだったが、黙って肩を竦めると自らのグラスにも酒を注ぐ。こちらも彼女のコードネームを冠する酒――ドライベルモットの元祖と言われるノイリー・プラットだった。机の上に壜を静かに置くとベルモットが同じ色の瞳で妖艶に微笑む。
 「I suppose it's a bit too early for a martini……マティーニにはちょっと早過ぎる時間ね」
 「瞳の色まで簡単に変える女が笑わせるな」
 レイモンドチャンドラーの名作『長いお別れ』のあまりにも有名なワンシーンをもじった問いかけを苦々そうな口調で返すジンにベルモットが愉快そうにグラスを掲げる。姿を変えて別人に成りすました男と親友の真相を明らかにした探偵――自分達とはあまりに不似合いな関係が可笑しくてジンはフンと小さく鼻を鳴らすとグラスに注がれた酒を口に運んだ。


 互いに沈黙を守ったまま何度グラスを空にした頃だろうか。
 「それより……貴方に聞きたい事があるんだけど」
 ベルモットが細く煙草の煙を吐き出すと興味深そうな視線をジンに向けた。
 「最近、例の小娘に妙に御執心らしいじゃない?」
 「……」
 アイスピックのような鋭い視線をさらりと受け流すとベルモットは更に言葉を続ける。
 「子供のくせにコードネームまで与えられたとか……貴方、そういう趣味があったの?」
 「餓鬼に興味はない。コードネームの件はあの方が決めた事だ」
 切り捨てるように言うジンにベルモットは小さく肩を竦めると「そう……」とだけ呟きグラスを手に取った。
 「確かに……餓鬼にしては大した玉だったがな」
 弄んでいた手の中のグラスを一気に呷り、残忍に笑うジンの脳裏に今や『シェリー』と呼ばれる少女にコードネームの件を告げに行った時の事が蘇った。


 研究機器や薬品棚で埋もれる部屋に足を踏み入れたジンの目に映ったのはまだ少女と呼ぶにふさわしい女だった。整った顔立ちと見た目にそぐわない醒めた瞳が印象的である。
 ジンとその後ろで待機するウォッカの気配に気付いたのか少女は読みかけの本を机の上に投げ出し、彼の鋭い視線を興味なさそうに受け流した。
 「明日からお前にコードネームが与えられる」
 「そう……」
 「知っているとは思うがコードネームを持つ者は組織内で大きな権限が与えられる。組織とあの方への忠誠を決して忘れるな」
 「分かっているわ」
 大した事でもないと言いたげな少女の態度にジンの視線が険しくなる。
 「それで?明日何時にあの部屋へ行けばいいのかしら?」
 「なんだと?」
 「コードネームはあの方の手から直々に渡されるんでしょ?だったら取りに行かなくちゃいけないじゃない」
 「餓鬼がいい度胸だな。コードネームの恐ろしさが分かってねえようだ……」
 ジンの威圧的な視線をまともに受け止めると少女は冷ややかな笑みを浮かべた。
 「コードネームがあろうとなかろうと化学者の私がする事に変わりはないわ。組織のために例の薬を完成させる事」
 「そうでしょ?」とシニカルに返す少女にジンは無言で近寄るとその白い頤に手をかけ、強引に上を向けさせた。痛みに顔を歪めながらも少女は怯む事なく強い視線で睨み返して来る。
 「い、いけません兄貴…!」
 コードネーム保持者同士の私闘は禁じられている。慌てて止めに入ろうとするウォッカだったが、彼が止めるより早くジンが少女から手を放した。
 「いい目をするじゃねーか……いつかその冷たいサファイヤが恐怖に震える瞬間を見てみたいものだな」
 咳き込む少女にジンが獲物を追い詰める時のような酷薄な笑みを浮かべる。その様子にウォッカの喉がゴクリと音を立てた。
 「明朝9時、あの方の部屋へ行け。その時からお前は『シェリー』だ。立会人はオレが務める。つまりお前はオレの管理下に入るという事だ」
 「分かったわ」
 ジンは先程まで彼女が読んでいた本のタイトルに目に止めると皮肉な笑みを浮かべた。 
 「リットン・ストレイチー『ヴィクトリア女王』……か。化学がもたらした絶頂期と言えば聞こえはいいが切り裂きジャックにブラヴォー事件、イギリス中が殺人に熱狂した時代か……」
 「その化学技術で精製されたジンがようやく認められた時代でもあるわね」
 少女はジンを無視するようにさっさと椅子に腰を下ろすと再び本を開いた。その様子を不愉快そうに一瞥し、部屋を後にするジンだったが、その胸に最後まで自分のプレッシャーから逃げる事のなかった深い青玉の瞳が印象深く残った。


 「あの餓鬼……コードネームを受け取って部屋を出た時この俺に何て言いやがったと思う?」
 グラスにボンベイ・サファイアと氷を入れてカラリと音を立てながら面白そうに問うジンにベルモットは「さあ?」と肩を竦めた。
 「『I will be good』だとよ」
 「……それはまた言ってくれるものね」
 一瞬、虚を突かれたような顔をしながらも面白そうに微笑むベルモットにウォッカが「あ、あの……そいつはどういう意味なんで?」と遠慮がちに口を開く。
 ジンにジロッと一瞥され、思わずたじろぐウォッカにベルモットが「その台詞はね」と愉快そうに紅唇を開いた。
 「イギリスのヴィクトリア女王が自分が女王になると知った時言ったといわれている言葉よ。自分の運命を告げられた少女がたった一言……『I will be good』ってね」
 「……って事はあの餓鬼……」
 「ああ。どうやら大人しく俺に使われる気はねえようだな」
 氷のように冷たい眼光を閃かせるとジンはグラスを乱暴に置き椅子から立ち上がった。扉の側まで歩いて行くと急に立ち止まり、振り向きざま銃のトリガーを引く。次の瞬間、テーブルに置かれていたボンベイ・サファイアの青玉色の壜が砕け散り、残っていた酒が零れ出した。銃弾は正確にヴィクトリア女王の顔を模したラベルを打ち抜いている。
 「楽しみだぜ、シェリー……貴様の瞳が濡れる時を見るのがな」
 不敵な笑みを残し部屋を後にするジンをウォッカが慌てて追いかけて行く。その様子を謎めいた微笑みで見送るベルモットの横で壜の欠片がキラリと光った。



あとがき



 ずっと書きたかった志保さん組織時代のお話です。最近の原作はともかく、やはり組織には硝煙とアルコールと煙草が似合うハードボイルドであって欲しいという願望を込めました。
 作中に出て来るジンとベルモットは実在の銘柄です。壜の色とラベルにヴィクトリア女王と思われる女性の肖像画が描かれている事で有名だった事から今回の作品に登場させました。また、ノイリー・プラットはボンベイ・サファイアに釣り合うランクのベルモットでは最も有名な銘柄という事で選びました。
 どちらもメジャーな銘柄なので本格的なバーのマティーニはこの二つによって作られていると思われます。