花籠返盃



 赤と黄色に塗り分けられた特急車両がキーッという金属音を立てて淀屋橋駅のホームに停車する。開いたドアから待ちかねたように早足で下車する乗客達を見送ると、志保はゆっくりと腰を上げた。
 出張で訪れた京都の大学近くの始発駅から終点のこの駅まではたった一時間の寄り道に過ぎない。それなのに乗る電車の時刻を連絡するだけのメールを何度も打ち直したり、電車の中で広げた文庫本の内容が全く頭に入って来なかったりと、自分でも呆れる程らしくない行動を繰り返していた。もしかしたら東京へ来る時の平次もこんな感じなのだろうか……そんな疑問が志保の頭をかすめた。
 ホーム中程のエスカレーターを素通りして前方にある階段へ向かう。落ち着かない気分のまま自動的に彼のところへ運ばれるのは嫌だった。人気のない静かな階段を登るとコツコツという硬質な足跡がやけに大きく聞こえる。
 長い階段を登り切って顔を上げると、改札の向こうに目当ての人を見付けて志保は小さく微笑んだ。向こうもこちらに気付いたのだろう、嬉しそうに大きく手を振っている。後ろに被ったトレードマークの白い帽子にライトイエローのシャツを着た平次の周囲が一瞬華やいで見えたような気がして志保は思わず目を瞬かせた。
 (バカね、派手なシャツ着てるからに決まってるじゃない……)
 そう思いながらも彼が自分の前では決して黒い服を着ようとしない事くらいとっくに気付いている。階段の上で立ち止まってしまった志保を訝しく思ったのか、平次が手を振りながらこちらへ近付いて来た。
 (ま、明るい色の方が彼には似合うわよね……)
 納得するように肩をすくめると志保は改札へと足を進めた。


 「ほい、チョコレート」
 満面の笑みと共に可愛らしい包みを差し出され、志保はキョトンと平次を見つめた。
 日曜日とはいうものの、受験シーズン真っただ中。何かと口実を付けては阿笠邸を訪ねる現役受験生に少々疑問を持たないではないが、不意打ちのように現れるこの陽気な関西人にいつの間にか志保はすっかり慣れてしまっていた。それでも一応言うべき事は言っておかねば……と、来訪の理由を尋ねた彼女に待ってましたと言わんばかりに平次が取り出したのは淡いブルーのリボンでラッピングされた丸い箱だった。
 ニッと笑って渡そうとするのを無言で押し止め、志保は目を閉じて小さく一度深呼吸する。
 「どうして私があなたからチョコレートを貰わなくちゃいけないの?」
 「せやって今日は2月14日やし……って知らん?」
 「バレンタインデーくらい知ってるわよ。あんまり莫迦にしないでくれる?」
 実際、今朝阿笠に渡したチョコも午前中に訪れた少年探偵団の子供達に配ったチョコも志保が昨夜からキッチンに籠って作ったものだった。
 「良かったー。ねーちゃんがバレンタイン知らんのにチョコ持って来たら何やオレ空気読んでへんヤツみたいやん」
 大袈裟にホッとした顔をした平次に
 「……ちゅーわけで逆チョコや」
 と、眼前に包みを置かれても志保の方は全くの予想外の出来事にどうしていいか分からない。男性から女性にチョコレートをプレゼントする『逆チョコ』というものが昨年あたりから流行り出している事は知っているし、そもそも長い間アメリカで暮らしていた志保にとっては女性がチョコレートを送るという日本のバレンタインデーの方が未だに奇異に感じる。
 『義理チョコ』や『友チョコ』なるものが横行するこの時代、単純に受け取ってしまえばいいのかもしれない。しかし、このチョコレートを受け取る事には特別な意味がある予感がしたからのこその躊躇。阿笠邸にフラリと現れる平次やそれを受け入れ始めている自分の気持ちを全く考えた事がないと言えば嘘になるが、だからといって急に真剣に考えられるものでもない。そして何より平次に渡すチョコレートを用意していない事に動揺する自分自身に志保は戸惑っていた。
 チョコレートに視線を向けたまま固まってしまった志保を平次が不安そうに覗き込む。
 「小さかった時も疲れたらホットチョコ飲んどったみたいやったから嫌いとちゃうと思ってたんやけど……もしかしてアカンかったか?」
 その言葉に顔を上げて志保はまじまじと平次を見つめた。今よりずっと小さい身体で『灰原哀』という名前で生活していた一年と少し前、あの頃の自分はAPTX4869の解毒剤と組織の事ばかり考えていて他には何も見えていなかったのに。それなのに……
 (彼はあの頃から私を見ていたの……?)
 そう思うと平次が差し出してくれたチョコレートが素直に嬉しかった。しかし、だからこそ中途半端な気持ちで受け取る事はできない。このチョコレートに平次が込めた気持ちがあるなら余計に。同時に今の自分には彼の気持ちを受け取るだけの余裕があるとはとても思えなかった。
 不安と迷いを含んだ志保の揺らいだ視線を受け、平次は普段の饒舌な彼らしくなくしばらく言葉を探している様子だったが、やがて意を決したのか小さく咳払いすると真っ直ぐな視線を彼女に向けた。
 「オレはいつもねーちゃんに『オレの好きでしてる事やから』って言うてるけど……このチョコレートにはやっぱり返事が欲しいねん」
 そこで一度言葉を切って平次は一つ息を吐いた。
 「オレ、東都大受けるねん。受かったら春からこっちで暮らす事になるねんけど……そしたら今みたいに口実作らんでもねーちゃんに会いに来れるようになっていたいんや」 
 常にストレートな彼にしてはずいぶん婉曲な表現。それは人と本音で接する事に慣れていない志保への平次の精一杯の気遣いだという事は志保にも分かる。彼が自分の戸惑いを正確に理解してくれた事も。それでもどこかピントのずれた言葉で一生懸命話を続ける平次の姿に志保は思わず吹き出してしまった。
 「ちょっ、笑わんでも…!」
 うまく決め損ね、ガックリと肩を落とす平次だったが、困ったように笑う志保のその予想外の可愛らしさに言葉を飲んだ。
 「ねえ、合格発表はいつなの?」
 ようやく笑いが収まった志保がテーブルの上に置かれた包みに静かに手をのばす。
 「3月10日や」
 「そう……だったらちょうどいいわ。私、3月14日まで京都に出張なの。あなたが合格してたらこのチョコレートの返事を届けに行くわ」
 「ホ、ホンマか!?ほな14日に京都でな!」
 上擦った平次の声に志保はゆっくりと首を振った。
 「大阪で会いましょ。返事は私があなたに会いに行って言うべきだと思うから」
 「分かった。待ってる」
 嬉しそうに満面の笑みで頷く平次に
 「ただし合格してたらよ」
 志保はいたずらっ子の様にウインクするとリボンの端を指でクルクル弄んだ。


 自動改札を通って平次の元へゆっくり進む。チョコのお返しに用意したのはライトブラウンのキーホルダーだった。そしてもう一つ。
 (彼はどんな顔するかしら……?)
 志保はポケットに入れた阿笠邸の合い鍵をそっと撫でた。



あとがき



 平志シリーズ第四弾です。ジリジリするようなスピードで距離を縮めていた二人ですが、平次の「サクラサク」通知と一緒にようやく春を迎えました(平志を書き始めた頃から志保さんが動くのは平次に応える時という事だけは決めていました)
 とりあえず平次の粘り勝ちと言う事でシリーズとしては一区切りですが、二人の新しい関係はここからスタートです。