He’s still green


 「怒られても知らないわよ?」
ふいにかけられた声に顔を上げると哀が黙って窓の向こうを指し示した。追いかけるように視線を向けると阿笠邸の庭木が暴風に煽られ、身悶えするように揺れている。今朝の予報では「関東地方には大きな影響はないでしょう」と伝えられていたはずの台風がどうやらその進路を一変したようだ。買ったばかりの推理小説に没頭していて暴風が窓に吹き付ける音も大雨が屋根を叩き付ける音もコナンの耳には全く入っていなかった。
 「ゲームしてたら遅くなっちゃってさ、今夜はこのまま博士の家に泊めてもらうから心配しないで」
昼過ぎから阿笠と哀に帰宅を促される度、本に集中したいがために聞き流していた罪悪感もあり、電話口の『だから台風の日に出かけちゃダメって言ったじゃない!』という蘭の声を「ごめんね、蘭姉ちゃん」と普段にも増して子供っぽい声で封じる。半ば強引に通話を切り、「フウ」と息をついたその時、物言いたげな顔で向かいのソファに腰掛けている哀と目が合った。
 「……何だよ?」
 「彼女の傍にいてあげなくていいの?こんな台風の夜に」
 「バーロー、ガキが一人いたところで何の役にもたたねーよ」
 苛立ちとともに吐き出した言葉に哀が一瞬だけ複雑な表情を浮かべるが、
 「確かに……小学生の身体じゃこの嵐の中は帰れないわよね」
 小さく肩をすくめると視線を逸らしてしまう。
 「野を分けるほどの風だから『野分』――昔の人は上手い事言うものね」
 感情を含まない声で呟く哀にコナンも黙って窓の外を見つめた。


 それから程なく鳴り出した雷に危険を感じたのか阿笠が研究室から出て来た。
 「せっかく良い感じに進んでおったのに……」
 恨めし気に窓の外を見つめて独り言を呟く阿笠も哀が珈琲を運んで来ると芳ばしい香りに目を細め、今夜泊めて欲しいというコナンの申し出を快く了承してくれた。
 「あれだけ哀君とわしが何度も帰った方がいいと言ってやったのに……」
 「仕方ねーだろ?楽しみにしてた左文字シリーズの新刊だったんだからよぉ……」
 「全く……お前というやつは昔から目の前の事に夢中になると何も見えんのじゃからのう」
 呆れた言葉を吐きつつテーブルの上に置かれたデザート皿のクッキーを掴もうとする阿笠だったが、一瞬の差で哀の方が早かった。「三枚目。これ以上はダメよ、博士」という鋭い指摘と共に皿ごと取り上げる。
 「今夜は博士も研究はお預けでしょうし、早目に夕食にしましょうか?」
 がっかりしたように肩を落とす阿笠とさっさとキッチンへ向かう哀の後姿は外の荒れた天候が嘘のようにこの家のいつもの風景ではあったが、コナンの心に何かが引っ掛かった。
 「なぁ博士、灰原のヤツ……」
 「相変わらずわしから甘い物を遠ざけるスピードは半端なくてのう……」
 「……あんまりふざけてるとさっきこっそり隠したクッキー取り上げるぞ?」
 「じょ、冗談じゃ……で?哀君がどうかしたかの?」
 「今日のアイツ、なんとなく様子がおかしい気がして……何かあったのか?」
 「急に台風が近付いて忙しそうに動いておったからのう、疲れたんじゃよ」
 何でもない事のように呟く阿笠の態度に釈然としないものを感じながらも、コナンは黙ってキッチンに視線を送った。


 食卓を囲む頃には雨も風も更にその激しさを増し、とても外に出られる状況ではなくなっていた。
 コナンが阿笠邸に泊まる時、哀は子供の姿になってしまった彼の口には縁がなくなってしまったメニューを作ってくれる。今夜も「この天気じゃ凝った物はできなわよ」と言いながら用意してくれたのは香辛料の効いたエスニックカレーだった。普段は味わえない大人の辛さにスプーンが進む。付け合せのジンジャーピクルスも夏バテ気味の身体には嬉しかった。
 「美味かった〜!」
 満腹になった腹をさすっていると「小嶋君じゃないんだから」と苦笑いとともに冷えたマサラチャイが差し出された。ミルクの甘さと香辛料の風味が絶妙に口の中に広がる。
 哀のこのさりげない気遣いと阿笠と哀の前では無理に小学生を演じる事なく過ごせる解放感に最近コナンはすっかり阿笠邸に入り浸っていた。以前は学校帰りから夕食前までの短い時間だったのが、滞在時間は次第に長くなり、特に用事がなければ土曜の朝から日曜の夜まで居座る事さえあった。そういう意味で新刊を手にしたばかりのコナンにとって今夜の台風は願ったり叶ったりな進路を取ってくれたと言える。この分だと今夜のうちに二度読みもできそうだ。
 そんな勝手な事を考えながらチラリと隣でグラスを傾けている哀に視線を向けると大きな瞳で怪訝そうに見つめ返される。下心を誤魔化すように「なあ、もう一杯飲ませてくれよ」と差し出したグラスを「飲み過ぎよ」とピシャリと返され、それを見た阿笠がさっきの仕返しだと言わんばかりに大笑いしている。外の台風が嘘のような居心地の良さがコナンには嬉しかった。


 暴風雨で窓が軋む音にコナンは読んでいた本から顔を上げた。
 「この雷ではパソコンも使えんし……もう寝るとするかのう」
 「それじゃ今夜は私も早目に休ませてもらうわ」
 阿笠と哀が揃って早々にリビングを後にする事になり、コナンは半ば追い立てられるように彼の部屋と化しつつある客間へと移動していた。どうやら天気の回復は明日の明け方になるようで、とりあえずベッドに入ってはみたものの、いつもより一時間以上早くてはそうそう眠れるものではない。ベッドサイドのランプで読書を始めるとすっかり夢中になり、恒例の二度読みを終えた頃には益々目が冴えてしまっていた。時計を見ると午前1時を過ぎようとしている。とはいえ知的興奮に刺激された頭脳はなかなか眠りに誘われてくれそうにない。
 (クソッ、寝付けね〜……)
 何度か寝返りを繰り返しながら眠れない夜、退屈しのぎに付き合ってくれる哀が今夜は早々に布団に入ってしまった事を思い出す。
 (それにしてもアイツがあんなに早く寝るなんて……風邪でもひいたのか?)
 いつも睡眠不足な様子の彼女が早く床に就くのは喜ばしい事ではあるが、眠れない夜のもどかしさに辟易しているのもまた事実だった。
 「水でも飲んで来るか……」
 溜息とともにベッドから身体を起こすとコナンは静かに客間を後にした。キッチンへと向かう途中、何気なく阿笠と哀のベッドが並ぶ部屋の前で足を止める。もしかしたら夜型を自称する哀が目を覚ましているのではないか……そんな期待を胸に部屋をそっと覗くコナンだったが、驚きのあまり思わず声を上げそうになった。気持ち良さそうな寝息を立てている阿笠の隣のベッドは空で、それどころか夜具はきちんと整えられ使用された形跡もない。
 (アイツ一体どこに……?)
 ベッドの反対側にあるキッチンやその奥に広がるリビングを覗いても哀の気配はない。窓の外に目をやると今まさに暴風圏内に入っているのか嵐が吹き荒れていてとても外に出たとは考えにくかった。
 (となると……地下か?)
 足音を忍ばせ暗い階段を下り、地下の研究室のドアをノックすると「博士…?」という声が聞こえコナンはホッと息をついた。
 「や、その……」
 返って来た声の主に驚いたのだろう、少々乱暴にドアが開けられたかと思うと「工藤君?」と哀が目を丸くしている。
 「どうしたの?こんな時間に……」
 「それはこっちの台詞だ。こんな時間に一人で何やってんだよ?」
 「何って……決まってるじゃない。解毒剤の研究よ」
 「バーロー、こんな雷の激しい夜にオメーがパソコンなんて使うはずねーだろーが」
 「入るぜ」と半ば哀を押しのけるように部屋へ入ると真ん中に据えられたソファの上にブランケット一枚と読みかけの文庫本が置かれ、案の定電子機器の電源は一つも入っていなかった。地下室の小さな灯りでも哀の表情が強ばるのが分かる。
 「今夜は早目に寝るんじゃなかったのかよ?」
 「そう思ってたんだけど……なかなか寝つけなかったから本でも読もうと思ってこの部屋へ来たのよ。悪い?」
 「探偵なめんなよ。オメーのベッドが今夜一度も使われてねえ事くらい見れば分かるさ。何かあったんじゃねーか?」
 「別に……何もないわよ」
 「そんな真っ青な顔で言っても説得力ねーよ」
 コナンの指摘に哀が慌てて顔を背ける。
 「調子悪いなら悪いって言えよ。それならオレも無理に泊まったりしなかったぜ?」
 「気にして頂かなくても体調は問題ないわ。今夜は賑やかで博士も楽しそうだったし、私も……貴方が居る夜は嫌いじゃないから」
 口調は素っ気ないが優しさを含んだ声色に表情が綻んだコナンが「だったら上で一緒に珈琲でも飲もうぜ。実はオレも眠れなくてさ」と手を引いて誘うが、哀は部屋から出ようとしないどころかクルリと背を向けてしまった。
 「灰原…?」
 「ごめんなさい……今夜はここに居たいの」
 「つれない事言うなよ。オメーだってこんな部屋に一人でいるより……」
 「悪いけど珈琲なら一人で飲んでちょうだい。インスタントの買い置きもあるから……」
 「なんでこの部屋にそんなに拘るんだよ?何か理由があるんだろ?」
 「……」
 「何とか言えよ!」
 頑なに拒む哀の様子に苛立ち、その肩に手をかけ振り向かせようとした瞬間、
 「お願いだから一人にして!!」
 絞り出すような声とともにコナンは部屋から追い出されてしまった。
 「おい!灰原!!」
 扉を叩いて名前を呼んでももはや何の返事もない。コナンは溜息をつくと階段を上がり、薄暗いキッチンへ向かった。


 哀には買い置きのインスタントがあると言われたものの、どうせ眠れないし時間はたっぷりある。
 「たまにはオレも本格的に淹れてみるか…!」
 良い香りに誘われ哀が地下室から出て来るかもしれない……そんな思いもあってコナンは棚からミルと豆を取り出した。苦労しながらようやく淹れた褐色の液体に口をつけるも哀の味には遠く及ばない。脳裏に浮かぶ哀の拒絶するような態度が珈琲の味を更に苦いものにしていた。
 地下室に続く階段をぼんやりと見ているとふいに「新一」と穏やかな声がした。
 「博士…?夜中に目を覚ますなんて珍しいな」
 「珈琲の良い香りに誘われての。ワシにも一杯くれんか?」
 「いつも灰原の珈琲飲んでる博士の口に合うとはとても思えねえけど……」
 阿笠は渡されたカップの珈琲を口にすると「確かにそうじゃの」と小さな苦笑いを浮かべた。
 「……哀君は地下室じゃな?」
 ポツリと確認するように呟く阿笠にコナンはその大きな瞳を更に大きく見開いた。
 「博士……知ってたのか?」
 阿笠は小さく頷くと叩きつけるような激しい雨音のする窓を見つめた。
 「あの子はのう、雨の夜はいつも地下室で過ごしておるんじゃよ」
 「雨の夜…?」
 「地下室は雨音が聞こえんじゃろ?」
 「どういう事だよ?」
 怪訝そうな表情を見せるコナンに阿笠は少しの間答えを逡巡していたが、「夜……雨音を聞いているとここに来た時の事を思い出すんだそうじゃ」と呟いた。
 「ここに来た時って……死ぬつもりであの薬を飲んだっていう……」
 「そんな夜は眠りたくないと言って地下室で一晩中起きておるんじゃよ」
 「眠りたくないって……何で?」
 「夢を見るそうじゃ。APTX4869を飲んで子供の姿になりダストシュートに飛び込む夢や、ここを目指して雨の街を彷徨う夢だと言っておった。雨の夜は何度もうなされて目が覚めて……それが嫌なんじゃろう」
 「今夜は研究で気を紛らわす事もできんしのう……」と阿笠は地下室の方を見つめながら深く溜息をついた。 
 「じゃあ『早目に休ませてもらう』なんて言ったのは……」
 「一晩中起きておる事をわしらに悟られまいと気を遣ったんじゃろう」
 そう肩をすくめる阿笠にコナンの身体が小さく震えた。
 「オレ……灰原がそんな事になってたなんて全然知らなかった……オレを頼って逃げて来たのに……」
 これまで一体哀の何を見ていたのか。本来なら哀を支えるべきなのに逆に彼女の優しさに甘えるばかりだった自分の幼さが悔しかった。
 「それでいいんじゃよ。哀君はわしらに知られたくなかったんじゃから」
 「……」
 「おそらく自分のそういう姿を誰にも見せたくないんじゃろう。あの子は意地っ張りじゃから……」
 困った様に笑う阿笠にコナンは彼があえて哀の行動に気付かないふりをしている事を知り、その大らかさに彼女がどれほど救われているか改めて気付かされる。そして同様にコナン自身も――
 「オレ……本当に甘えてばっかのガキだったんだな……」
 「ハッハッハッ、新一が殊勝な大人にでもなったら気味が悪くて仕方ないわい。哀君はここに来て君や歩美君達と過ごす事で充分救われておるんじゃないかの。君は今のまま哀君を支えてやってくれればいいんじゃよ。だから今夜はこのまま哀君をそっとしておいてくれんか?」
 そう言って穏やかな視線を向ける阿笠にコナンは「ああ」と頷いた。


 いつの間にか外の暴風雨が少しずつ穏やかになって来たようだ。朝になれば台風一過の晴天に恵まれるだろう。何事もなかったように笑って迎えるのが哀にとって一番に違いない。
 そう決意するとコナンは哀が籠る地下室への階段を静かに見つめた。



あとがき



 APTX4869を飲んで雨の中を彷徨った事を哀ちゃんはどう思っているんだろう……という事は以前から考えていました。そんな時、ふと「哀ちゃんは雨の夜は地下室に閉じこもっていてコナンはそれを知らない」という設定を呟いてみたところ、とても反応を頂いた事から出来た話です。
 工藤新一が江戸川コナンになった事で、そして哀ちゃんという存在を知った事で、見えた事も学んだ事も本当に沢山あると思います。それを活かし、いつかは素敵な大人の男に成長して欲しいものです。