食い入るように見入っていたディスプレイから目を離し、大きく身体を伸ばすとオフィスチェアの背もたれが不満そうな音を出す。画面に並ぶのは世間一般の多くの人達にとっては不可解な、しかし志保にとっては大きな意味がある数字と記号の羅列。一見すると失敗を意味するその実験結果を見た時、背筋にゾクリとする感覚が走った。その僅かな違和感が何か重大な発見を示す事をこれまでの経験が彼女に確信させる。
 昨夜そんな話を新一にしたところ、どうやらそれは彼が事件を推理する時の感覚に近いらしい。
 「『化学者の勘』に『探偵の勘』…ってか?やっぱ似たもの夫婦だな、オレ達」
 嬉しそうに言う姿が何だか照れ臭くて「推理フェチのあなたと一緒にしないで」と、可愛くない言葉を返してしまった。
 「本当、気障なんだから……」
 机の上に置かれたフォトスタンドの中の新一をそっと人差し指で撫でる。白いタキシードをそつなく着こなしている新一の隣に立つ礼服姿の阿笠に「まあまあ」となだめられたような気がして志保は思わず苦笑した。背景に写っている新芽が美しい百日紅が今は綺麗な花を咲かせている。
 新一と結婚して約4ヶ月――
 「幸せすぎて不安になるなんて……おかしいわよね」
 クスッと笑うと志保は工藤邸の庭に咲き誇る白い花に視線を投げた。


 
居場所


 「哀君、話があるんじゃが……」
 養親である阿笠にそう声をかけられたのは黒の組織を壊滅させた事後処理が済み、ようやく落ち着きを取り戻したある午後の事だった。阿笠と一緒に暮らすようになってもう随分経つが、改まって「話がある」と言われる事は珍しい。
 珈琲を入れ、向かい合って座る二人の間に言葉では言い表せない緊張感が漂う。しばし逡巡している様子の阿笠だったが、哀に「どうしたの?」と水を向けられるとようやく話を切り出した。
 「その……あまりこういう事に口を出すのはどうかと思うんじゃが……ここのところ君が新一君を避けておるような気がして仕方なくてのう……」
 「……」
 曖昧に俯いたのは肯定の証だ。正確に言うと5日前から哀は新一を避けていた。
 ――オメーが好きだ。オレが18になったら結婚してくれ
 この5日間、何度も何度も耳の奥で繰り返される新一の声。その答えを哀は未だに出せずにいた。


 解毒剤が完成し、元の身体を取り戻した新一は今までの時間を取り戻すかのように再び高校生探偵として活躍していた。その一方、何故か毛利蘭に告白しようとはせず、曖昧な関係を続けているようだ。相変わらずはっきりしない新一の態度に呆れつつも自分には関係ない事で、哀は哀で解毒剤を飲む準備に入っていた。
 そんなある日、いつになく真剣な表情で新一が阿笠邸へ哀を訪ねて来た。
 「灰原、オメー解毒剤いつ飲むつもりだ?」
 「来週……終業式が終わったら飲むつもりよ。学年が変わる前に転校という形が自然でしょう?」
 机の上に置かれた探偵団5人で撮った写真に目をやると、外国で暮らす両親の元へ行く事になったと告げた時の子供達の涙が胸を刺した。数ヶ月前、惜しみながらも笑顔でコナンを送り出した後の彼らの落ち込みぶりを知っているだけに尚更だ。それでもこのまま『灰原哀』でいる訳にはいかなかった。幼児化はAPTX4869の副作用にすぎず、解毒剤で毒素を消し去ってしまわなければ安定した今の状態がいつ急変してもおかしくないのだ。
 ふと新一を見上げれば一足先に消えた『江戸川コナン』を懐かしむように机の上を見つめている。探偵団の子供達に囲まれながら同じ視線で過ごした日々がもう随分遠い。
 しばしの間、地下室を支配する沈黙に身を委ねていた哀だったが、気が付くといつの間にか新一が床に置かれた段ボールを避け、彼女の前に腰を下ろしていた。紺碧の瞳と緑柱石の瞳が絡み合う。
 「何か用なの?」
 真っ直ぐな視線を受け止め切れず話を促したのは哀の方だった。
 「オメー……解毒剤を飲んだ後どうするつもりだ?」
 「あなたには関係ないでしょ?そんな事よりせっかく取り戻した高校生活を楽しみなさいよ」
 想定済みの質問に用意していた言葉を返す。
 (遠回りさせてしまった時間はどうしようもないけど……私がいなくなれば全て元通りになるから……)
 突き放すような口調は内心の呟きを悟られないため。これが彼にできる最後の事ならせめて何も言わずに出て行きたかった。
 「まさか出て行くつもりじゃねーよな?」
 「だから工藤君には関係ないでしょ。元の身体に戻ったらもう同級生でも何でもないのよ?」
 苛立ちを込めて顔を上げると傷付いたような顔をした新一がいた。
 「そうだよな……オレにはオメーの人生に口を出す権利なんてねーし……」
 日頃の彼にはそぐわない自虐的な声。どこか不安そうな表情。
 「分かっているなら私の事は放っておいてくれない?組織が崩壊して解毒剤も完成した以上、私がここに留まらなくちゃいけない理由はないんだし。あなたはあなたの生活を送ればいいんだから」
 「オメーがここにいる理由はオレが作る。だから出て行くなんて言うな」
 意を決するように哀を正面から見つめる紺碧の瞳が再び力を取り戻していた。
 「どうしてそんなに私の事を気にするの?相棒だから?」
 「……」
 「『灰原哀』は『江戸川コナン』の相棒だったかもしれないけれど今のあなたは工藤新一なのよ。私だってもうすぐ宮野志保に戻るの。もうあの頃とは違うわ」
 「そんな理由じゃねえよ」
 「じゃあ何よ?『灰原哀』ならともかく『宮野志保』がここにいる理由なんてあるはずがないわ。バカな事言わないで」 
 出て行くと決心するまで自分がどれだけ迷ったか分かってもらえるはずもなく、また理解して欲しくもない。胸を抉られるような苦しみが言葉に変わって次から次へと溢れ出す。睨みつけるような哀の視線を新一は正面から受け止め、「理由ならあるさ」ときっぱりとした口調で言い切った。
 「オメーが好きだ。オレの傍にいて欲しい」
 あまりに突然の告白。紺碧の瞳に映る自分の顔が固まっているのを哀はどこか他人事のように見つめていた。
 「蘭にも好きな女ができたとはっきり告げた。だから出て行くなんて言うな。これから先のオレの時間にオメーがいないなんて絶対嫌だ」
 「……」
 言葉の意味を上手く処理できず、黙って聞いている事しかできない哀に更に思いがけない新一の言葉が続いた。
 「もう一度言う。オメーが好きだ。オレが18になったら結婚してくれ。オレがオメーの居場所になる」
 涙で歪んだ視界の向こうで照れたように笑う新一の姿に哀は思わず視線を落とした。
 「そんな事……できないわ……ただでさえあなたの時間を奪ったのに……結婚なんて……」
 「オレの事嫌いか?」
 「好きとか嫌いとか……それ以前の問題よ。許されないわ、そんな事……」
 「『許されない』って誰に?大体、オレはオメーに何も奪われてなんかねーよ」
 最後はただ首を横に振るだけの哀に新一は解毒剤を飲む前に返事をすると約束させて阿笠邸を後にした。


 「なるほど、新一君がのう……」
 全てを聞き終わると阿笠は大きく息をつき、珈琲カップを手に取った。つられて哀も一口飲む。すっかり冷めてしまった珈琲のほろ苦さだけが口の中に残った。
 「それで……哀君はどうしたいんじゃ?」
 「分からないの……」
 「哀君は新一君の事が好きなんじゃろ?」
 「ええ……好きよ。彼が好きだから……失った時間を取り戻して幸せになって欲しいから……そのためにこの家を出る決心をしたの。だって私が消えれば全てが元通り……組織も『江戸川コナン』もなかった事になるのよ?」
 「なかった事にはならんじゃろ?少なくとも新一君にとっては忘れたくても忘れられない日々じゃと思うが……」
 「彼にとってはそうかもしれないわ。でも彼女にとっては元通りでしょ?」
 「『彼女』って……蘭君の事か?」
 「工藤君、彼女に『好きな女ができた』なんて言ったみたいだけど……私がいなくなれば一時の気の迷いだと気付くでしょう。大体、あれだけ『蘭が蘭が』って騒いでた彼に突然『好きだ』なんて言われても信じられないわよ」
 困ったように微笑む哀に阿笠はしばし口を噤んでいたが、やがて静かに珈琲カップをテーブルの上に置いた。
 「のう、哀君……新一君の言葉を信じてみてはどうじゃ?」
 「え…?」
 「実は新一君に哀君が解毒剤を飲んだらこの家を出て行くつもりなのかもしれんと告げたのはわしなんじゃよ」
 「どうして…!?」
 「このまま君を黙って出て行かせていいとはわしにはとても思えなくての」
 「博士……」
 阿笠の真っ白な眉毛が困ったようにクシャリと歪む。
 「新一君はそんなのは駄目だと言った。君がこの町からいなくなるなんて絶対許さないと珍しく怒りを露わにしておったよ」
 「逃げるな」――新一から何度も言われた言葉が耳に蘇る。確かに今また自分は新一から逃げようとしているのかもしれない。そう思うと膝の上で握った手にギュッと力がこもる。
 「だからわしは新一君に言ったんじゃ。『お前に哀君を止める権利があるのか』とな」
 思わぬ言葉に驚いて見上げた阿笠は普段の穏和な彼からは想像できない話を聞かせてくれた。


 「権利って何だよ!?アイツがここから出て行く必要なんてねーじゃねーか!大体何でそんな大事な事をオレに相談もせず勝手に決めちまうんだよ!?」
 「それこそ何故あの子がお前に相談などせねばならんのじゃ?」
 「オレ達は相棒だぜ!この場所でこれまで通りの関係を続けて行けばいいじゃねーか!」
 「じゃったら聞くがお前は哀君に何をしたというんじゃ。『工藤新一』を取り戻してから事件ばかり追いかけ回していたお前が不眠不休で解毒剤を作ってくれた彼女に何をしたというんじゃ。悪いがわしはあの子の父親代わりとしてお前があの子を『相棒』などと呼ぶ事に断固抗議するぞ!」
 「抗議って……大袈裟だな、博士」
 「大体、君は蘭君の事が好きなんじゃろう?哀君がどこに行こうが関係あるまい」
 「それは……」
 「もし哀君に解毒剤を飲んだ後もここにいて欲しいと願うならその理由と自分に何ができるか考える事じゃ。でなければお前があの子の決断に口を挟む事など絶対に認めん!」


 「そんな事があったの……」
 「我ながら随分勝手な事を言ってしまったと反省しておるんじゃが……」
 「私の事を心配してくれたんでしょ?ありがとう、博士」
 小さくなる阿笠に慌てて首を振る。
 「新一君の言葉は彼なりに必死に考えた結果なのではないかの?信じてやったらどうじゃ?」
 「でも…研究所の事もあるし……せっかく博士が斡旋してくれた就職先なのに……」
 「心配無用じゃ。実はこの家を分室にするプロジェクトも立ち上げておっての、ここで仕事に従事しても何の問題もないんじゃよ」
 得意げに指を振る阿笠に哀は唖然として言葉も出ない。
 「わしも哀君には出て行って欲しくないからのう。君の気が変わればいつでも引き留められるよう準備はしてあったんじゃ。娘の希望を叶えてやるのが親の楽しみというが……本当じゃのう」
 「博士……」
 「とにかく新一君と納得するまで話し合う事じゃ。その上で哀君が出て行くと決めたなら引き止めはせんよ」
 いつもと変わらない微笑みに哀は黙って頷いた。


 食欲をそそる香りに誘われてキッチンを覗くとエプロン姿の志保が出迎えてくれた。結婚して一緒に暮らし始めて数ヶ月、ようやく互いにぎこちなさを感じなくなって来た。
 「おいおい、仕事大丈夫なのか?」
 手がけている研究が山場のはずなのに食卓には予想外に手の込んだ料理が並んでいる。
 「あと一歩のところまで来ているんだけどちょっと煮詰まってて……だから気分転換もかねて、ね」
 「もうできるから着替えてきたら?」という言葉に二階へ向かう。煮詰まっていると言いながらも楽しそうな志保は厳しい顔で解毒剤を研究していた時とは別人のようだ。彼女の罪悪感につけ込んで解毒剤の研究を急かしていた事を改めて感じ、阿笠に指摘されるまで気付かなかった自分の身勝手さに胸が苦しくなる。同時に出て行くと知らされ、初めて彼女への気持ちを自覚した自分の鈍感さにも呆れる他なかった。
 それでも今、志保は新一の傍で笑ってくれている。 
 「なあ、オレはお前の居場所に相応しい人間になれてるか…?」
 箪笥の上に置かれたフォトスタンドに視線を投げるとウエディングドレス姿の志保に話しかける。
 「オレの居場所もここだよ」
 小さく呟くと新一は志保が待つキッチンへと戻って行った。



あとがき



 澪様のリクエストで「結婚後の新志で家族もの」です。プロポーズがメインな気もしますが結婚後の回想という事で。
 この二人の場合ハッピーエンドまでは紆余曲折があると思います。それでも少しずつ幸せを積み上げていくような関係であってもらいたいです。
 遅くなりましたがリクエストありがとうございました。