犬も食わない!?



 「博士、いるか〜?」
 「遅かったやないか工藤、こっち入り」
 その日、阿笠邸で新一を出迎えたのは家主の発明家でもクールな美人化学者でもなく、『西の名探偵』と称される色黒の同業者だった。
 「んだよ服部、オメーまたこっち来てんのか?」
 「おかんに頼まれた野暮用でな。あ、爺さんならホームセンターで工具を買うて来る言うて出掛けたで」
 「……そういえば今度の週末、元太達をキャンプに連れて行くって張り切ってたな」
 独り言のように呟きながら我が物顔で冷蔵庫を開け、缶コーヒーを二本取り出すと新一は平次の正面のソファに腰を降ろした。手にしていた缶コーヒーのうち一本を差し出す。
 「缶コーヒー…?」
 「嫌なら飲まなくてもいいんだぜ?」
 「あの姉さん、今日は留守なんか?……がっかりやなぁ、いっつも美味いコーヒー淹れてくれはんのに」
 「贅沢言うんじゃねーよ。オレだってここ数日、アイツのコーヒーとは縁がねーんだから……」
 面白くなさそうにジロリと睨む新一に状況を悟ったのだろう、平次がにんまりとした笑みを浮かべると「工藤、お前、また姉さんにいらん事言うて怒らせたんか?」とからかうような視線を向けた。
「なんでオレがアイツを怒らせた事になるんだよ?」
 「姉さんが工藤を怒らせる?ないない、そんな事。地球がひっくり返ってもないわ」
 「……」
 きっぱり言い切る悪友に新一は苦虫を噛み潰したような表情になると缶コーヒーを一気に飲み干した。


 「なあ、服部……アイツ、オレの事どう思ってんだろうな」
 しばらく最近遭遇した事件の話をしていた新一と平次だったが、不意に声のトーンを落とし、何やら落ち込んだように呟く親友に平次は「あん?」と眉をしかめた。
 「だから……志保にとってオレはどういう存在だと思うか聞いてんだよ」
 「どういうも何も……お前ら、付き合ってるんちゃうんか?」
 「まぁな。けど……最近、アイツの気持ちが分かんねーっていうか……」
 「恋人のお前が分からへんのにオレに分かる訳ないやろ?」
 「だよな……」
 「あんま気にせんでもええんとちゃうんか?あの姉さん、元々あんまり感情表に出すタイプやないし……それとも何か?姉さんから『別れたい』とか決定的な台詞突き付けられたんか?」
 「んな訳ねーだろ!」
 反射的に強い口調で反論する新一だったが、再び溜息をつくと数日前の出来事を話し始めた。


 組織を崩壊させ、互いの想いを確認し、世間一般的に『恋人』と呼ばれる関係になった新一と志保だったが、新一の大学進学と同時に二人揃って多忙な日々に追われるようになった。大学生になり、本格的に探偵活動を始めるようになった新一と薬学系の研究所でいくつものプロジェクトを同時進行で抱える立場になった志保の時間は自然にすれ違うようになってしまった。
 そんな二人の都合が付いたのは志保の研究が初歩で躓いた事によるまさに偶然の賜物だった。
 「映画が終わったら買い物でもしようぜ」
 二ヶ月ぶりのデートという事もあり、張り切って用意した映画館のカップルシートのチケットを手に嬉しそうに言う新一に志保は「無理しちゃって……」と微笑んだ。時間が読めない職に就いている自分があえて豪華な指定席を買ったのは、先月志保が用意してくれた展覧会のチケットが事件で無駄になってしまった罪滅ぼしの気持ちもあったが、今日は何があっても彼女との時間を優先するという決意表明のようなものでもあった。
 すれ違うカップルの仲睦ましい様子に新一が黙って志保の手を取ると少しだけ温度の低い手にそっと握り返される。
 (これくらいでドキッとしちまうなんて……我ながら情けねえな)
 志保のからかうような苦笑いにどうやら自分の顔が真っ赤に染まっているらしいと気付かされる。
 「ホラ、急がねーと始まっちまうぞ!」
 照れ隠しのように呟くと新一は穏やかな陽光に包まれた街を少しだけ早足で映画館へ向かった。
 チケットを発券し、ドリンクを片手にそろそろ座席に着こうかとしたその時、その存在を主張するかのようにポケットの携帯が振動した。嫌な予感に眉を顰めながら画面を確かめると馴染みの警視庁捜査一課の刑事の名前が表示されている。今日は無視を決め込もうと電源をオフにしようとする新一だったが、「私が持つわ」とドリンクを受け取る志保に促され通話ボタンを押した。
 「工藤君?大変な事件が起こってしまって……悪いけど君の力を貸してくれないかな?」
 「高木刑事……すみません、今日は用事があると昨日お会いした時に言いませんでしたっけ?」
 「あ、ああ……勿論覚えていたんだけど……でも君しか頼れないんだ。殺人予告の手紙が来てるんだけどボクらじゃもうお手上げで……」
 「殺人予告…?」
 「予告時間まではあと三時間あるんだけどね、犯人から送られて来た暗号がさっぱり解けなくて……」
 「暗号……」
 『殺人予告』『暗号』と来れば探偵として黙っていられない。
 (クソッ!二ヶ月ぶりのデートだっていうのに……!)
 目の前の事件と志保との時間、どちらも選べずにイライラと髪を掻き毟る新一の背後から「行ってらっしゃい、工藤君」という冷静な声が掛けられた。
 「志保……?」
 「ペアシートは一人で優雅に占領させて頂くわ」
 「……」
 「ホラ、早く」
 「あ、ああ……」
自分の手からスルリとチケットを抜き取る志保に新一は「悪ぃ」とだけ呟くと映画館を飛び出した。


 「……で?警視庁へ向かったっちゅう訳か。何日か前にニュースになっとったあの事件やな?」
 「ああ。事件は無事に解決できたし、志保からは『映画、予想より面白かったわ』ってメールが来てたんだけどよ……」
 「せやったらどうして姉さんの気持ちが分からん事になるんや?探偵としてのお前をよう分かってくれてるやないか」
 平次の問いに新一は子供のように唇を尖らせると
 「んな事分かってるよ。けど……二ヶ月ぶりのデートだったんだぜ?オレはすっげー楽しみにしてたのにあっさり送り出すとか……さすがに冷たくねえか?つーかアイツはそこまで楽しみにしてた訳じゃねーかと思うと自分がピエロみてえで面白くねえっつーか……」
 ブツブツと文句を垂れる新一にすっかり呆れ果て「アホか」とバッサリ切り捨てようとした平次だったが、寸での所で思い止まった。ここまで凹んでいる親友の姿を見る事は滅多にない。いつも不遜なまでに傲岸な工藤新一の珍しい姿に心の中でニヤリと笑うと真面目な声音を取り繕った。
 「あ〜、確かにお前の不満も尤もや。滅多にない二人の時間や、そら大事にして欲しいわな。事情が分かっとったとしてもそこで引き留めて欲しいっていうんが男心ってもんや」
 「だよな。もうちょっとオレに甘えて欲しいっていうか……アイツが元々クールな女だって事くらい分かってっけど……一応オレはアイツの『彼氏』なんだからよぉ……」
 「そやそら。うん、そしたらお前らもう別れ」
 「だろ?……え……?」
 キョトンとする新一に平次はゆっくりと噛んで含めるように繰り返した。
 「せやから工藤、あの姉さんとはさっさと別れたらええんや」
 「な、何言ってんだよ?服部、オメーだってオレ達の事応援してくれたじゃねーか」
 「そら……本来やったらお前が別れる言うたらオレは止める立場や。せやけどそんだけ合わへんのやったら一緒におっても互いにしんどいだけやろ?お前らをずっと見守って来たオレだからこそハッキリ言わせてもらうんや」
 したり顔で頷く親友にしばし言葉を失った様子の新一だったが、「……なんでだよ?」と搾り出すように呟いた。
 「なんで別れるなんて話になるんだよ?大体、オレと志保のどこが合わねーっていうんだよ?」
 「オレも探偵やから分かるけどな、一緒におる時事件やいうて呼び出されるんは後ろ髪引かれるもんや。姉さんはそんなお前の気持ちに全く無頓着なんやろ?つまりお前らは合わへんって事や。あの姉さん、冷たいとこあるしな」
 「バーロー!志保は冷たいんじゃねーよ!オレが気にしないように振る舞ってくれてるだけじゃねーか……!」
 「けどお前は姉さんのそういう態度が気に食わんのやろ?」
 「べ…別に気に食わない訳じゃ……アイツはいつもオレのためを思ってわざと素っ気ないフリしてんだよ!」
 「『アイツはそこまで楽しみにしてた訳じゃねーかと思うと自分がピエロみてえで面白くねえ』って言うてたやないか」
 「アイツだって楽しみにしてたに決まっんだろ!?デートの時、スッゲーお洒落してたんだぞ!」
 「ほぉ……せやけど工藤、お前さっき『姉さんの気持ちが分からん』って……」
 「お生憎だな、志保はオレの事が好きだって二人きりの時はいつも言ってくれてんだよ!」
 「でも甘えてくれへんねやろ?」
 「バーロー、アイツがオレの腕の中にいる時どれだけ甘えて来ると思ってんだ?」
 得意気に言う新一に平次は意味ありげな笑みを浮かべると「……って言うてるけどどうなん?」と彼の肩越しに呼び掛けた。
 「へ…?」
 間抜けな声を上げ、振り返った新一の目に映ったのは顔を真っ赤に染めた志保の姿だった。
 「ほんま愛されとるなあ、姉さん。心配せんでも工藤はアンタにベタ惚れやで」
 からかうような視線を向ける平次に志保はバツが悪そうに俯いてしまう。
 「し、志保……?い…いつから……?」
 「『志保は冷たいんじゃねーよ!』の辺りからやな。まぁあんだけ大きな声で喋ってたら地下室まで響いてもしゃあないと思うで?」
 「服部、オメーまさかわざと…!?」
 「……さ〜て、オレはそろそろ行くわ。せやけど工藤、さっきの言葉、もういっぺん姉さんに直接言うたりや」
 それだけ言うと平次は新一の肩を叩き、さっさと阿笠邸を後にしてしまった。


 玄関を出て大きな伸びをすると阿笠邸の庭先でチューリップの花が春風に揺れている。
 『私と付き合う事が工藤君の負担になっているんじゃないかと思う事があって……』
 阿笠邸を訪れた自分にコーヒーを淹れながらそう呟いた志保の肩越しに見えた時は頼りなげに見えたものだが、今は暖かい空気に包まれて幸せそうに見えた。
 「……夫婦喧嘩は犬も食わんってやつやなぁ」
 小さく肩を竦めると平次は幼馴染が待つ大阪へ急いだ。



あとがき



 サイト八周年記念リクエスト『落語の厩火事でコメディ』というお題で書かせて頂きました。
 私が落語好きという事もあって最初から担当に決まっていたのですが、登場人物の設定に苦戦しました。落語の大筋ではなく冒頭のおかみさんと甚兵衛のドタバタを主題に書いたのですが、男女が逆になっているのは私が志保さん贔屓だからです(笑)
 大好きな落語をテーマに書かせて頂きとても楽しかったです。リク主様には心からお礼申し上げます。