樹林帯を抜けると視界が大きく広がった。目を細めて山頂を見やれば曲がりくねった登山道がはっきり見える。目指す頂へと吹きぬける風が汗ばんだ肌に心地良い。
 (志保とも一度ぐらい一緒に山に登りたかったな……)
 風に乗って高く舞い上がる鳥に眩しそうな視線を投げると、明美は再び山道を歩き出した。


 決意

 
 まだ山肌に雪が残る茅ヶ岳へ明美がやって来たのは、十億円強奪計画の実行を明日に控えた春の初めの事だった。決行直前の山行に組織はいい顔をしなかったが、気持ちを落ち着かせるためだと強く主張する彼女に渋々黙認したようで、誰かが尾行している気配は感じられなかった。
 一年に数回、日帰り程度ではあったが明美が登山を楽しむようになったのは大学時代のゼミの担当教授、広田正巳の影響だった。一人で静かな山道を歩きながら懐かしい記憶を辿ったり、志保と二人、自由に生きる姿を思い描いたりするのはとても楽しかった。そして何より組織の監視の目がなく、本当の意味で一人になれる事が嬉しかった。  
 そして今日――
 どうしても一人になりたくて明美はこの山を訪れた。大自然の中で自分と向き合った後、『彼』に伝えたい言葉があったから……


 冬の名残の澄んだ空気と快晴の空は頂上からの眺望を期待させるに充分だったが、オフシーズンのせいか明美の他に登山者の姿はほとんど無かった。広く踏み固められた緩やかな山道を登って行くと少しずつ息が上がり始める。
 今日の山行きを電話で告げた時の「登山なんて何が面白いの?」という妹、志保の呆れた声を思い出し、明美は小さな笑いを零した。最後には「気をつけて」とだけ言って電話を切った志保だが、鋭い妹の事、いつもと違う姉の様子に気付いているに違いない。何も聞かれなかった事に安堵しつつ、志保がそんな自分の態度を指摘しなかったのは彼女にも隠し事があるからかと思うと胸が締め付けられた。
 そんな妹の事情を明美が知ったのは数日前の電話がきっかけだった。
 

 その電話はいつもとは明らかに様子が違っていた。
 「志保?珍しいわね、あなたから電話をくれるなんて……」
 「ちょっとお姉ちゃんの声が聞きたくなってね……」
 「志保がそんな可愛い事言うなんて……明日は雨かしら?」
 「失礼ね。切るわよ」
 電話の向こうでふて腐れる妹の姿が浮かび、明美は思わず苦笑した。
 「最近おかしな天気が続くわね。風邪も流行ってるみたいだし……」
 「ええ、お姉ちゃんの周りでもインフルエンザで何人か休んでるわ。志保、あなたも気をつけなさいよ。どうせ研究に没頭してろくに寝てないんでしょ?」
 「必要最低限の睡眠ぐらい取ってるわよ。本当、お姉ちゃんは心配性なんだから。それより……どう?最近……」
 「組織の監視は相変わらずだけど何とかやってるわ。そうそう、金曜日の話なんだけど……」
 しばし明美の日頃の出来事や失敗談など取り留めの無い話題に花を咲かせていた二人だったが、ふいに志保が「普通に暮らしてたら…私もお姉ちゃんみたいになれたのかな……?」と小さく呟いた。
 「志保…?」
 「あ……ううん、何でもないわ。ちょっと想像しただけ。それで?広田教授の仮装パーティーはどうだったの?」
 「え?あ、うん、それがね……」
 こんな時、自分がいくら問いただしても志保は絶対に答えない……妹の性格は充分承知で、明美は調子を合わせ会話を続けた。


 通話を終えた後も明美はソファに座ったまま受話器をぎゅっと握り締め、一歩も動けずにいた。普段、決して自分に弱音を吐かない妹が零した一言が漣のように心を揺らす。
 (組織で何かあったのかしら……?)
 明美は目を閉じて深く息を吸うとある番号に電話をかけた。数コールの後、耳元から聞こえた声は持ち主の眼光のように一瞬で背筋に汗が流れるような冷たいものだった。
 「何の用だ?」
 揶揄するような笑みを含む口調に怒りがこみ上げるが、何とか自分を抑えると言葉を続ける。
 「ジン、志保に何かしたんじゃないでしょうね?」
 「『シェリー』と言ってもらおうか。奴はお前とは違う。れっきとしたコードネームを持つ組織のエリートだ」
 ジンの言葉を無視するように明美は「私の妹に何をしたの?」と、更に強い口調で同じ質問を繰り返した。
 「何も聞いてねえのか?さっきまで電話で散々喋ってたくせに……」
 「よくもそんな事をぬけぬけと言えるものね。どうせ盗聴してたんでしょ?」
 押し殺した口調に明美の忍耐が限界に近付いていると察したのだろう。
 「……そういやぁ研究中の薬で何人かバラしたって言ったら凄い剣幕で食ってかかって来やがったぜ?なかなか人体実験をしようとしねえから俺が代わりに使ってやったってえのに……全く恩知らずな女だ」
 「なっ…!?」
 「あんまり五月蠅いから『姉貴で実験してやる』と脅してやったらようやく黙りやがったがな。毒薬を作った張本人が何を言うかと思えば……奴の手はもう俺と同じ血みどろなのに……なあ?」
 「まさか……志保にその台詞を……」
 明美は怒りのあまり眩暈さえ感じるのを懸命に耐えた。
 「『いつまでも姉と同じ一般人のつもりでいるんじゃねえぞ』とも言ってやったぜ?」
 「……」
 絶望感に打ちひしがれたであろう妹を思い、言葉を失った明美にジンが突然口調を変えた。
 「フンッ、心苦しいならお前も奴と同じところまで堕ちてやったらどうだ?上手くいけば姉妹ともども自由にしてやらない事もない」
 「……どういう事?」
 信用できる提案だとはとても思えなかったが、気が付けば震える声で口が言葉を紡いでいた。
 そして――
 切り出された悪魔の囁きに明美は頷いた。


 十億円強奪――
 それがジンが明美に課した姉妹を組織から抜けさせる条件だった。それまで平凡に暮らして来た明美にとって簡単に手を出せるような犯罪ではなかったが、もはや志保を一時たりともあの組織に置いておく事などできなかった。自由を掴むためには他の誰の力もあてにできないという事は3年前、『ライ』と呼ばれた一人の男の消失で嫌というほど思い知らせれていたから。
 明美が『諸星大』という青年と出会ったのは二十歳、ちょうど志保が『シェリー』というコードネームを与えられた頃だった。コードネームという一定の地位を与えられる事で志保がある程度安全を保障される立場になった事に小さく安堵はしたものの、同時にますます組織に絡め取られていく妹に何もしてやれない事に焦りを感じ始めていた時期でもある。そんな事情もあり、当時交際していた『諸星大』と名乗る青年がFBIの捜査官だと知った時は複雑な心境だった。組織が重要視する『シェリー』に近付く目的で彼が自分に接近して来たという事実は耐え難い悲しみではあったが、一方、彼の存在は志保を組織から助け出す切り札になるかもしれないという微かな希望を明美に抱かせた。組織で徐々に頭角を現し、『ライ』と呼ばれ始めた男と付き合っていた約2年間、明美は日に日に大きくなる彼への想いと志保と共に組織から脱出できるかもしれないという希望に揺れ続けた。
 しかし、結局『ライ』の潜入は失敗、彼は組織から去り、残された明美にはより強い監視の目が絶えず付き纏った。そして『ライ』との関係で明美を粛清しようとする動きがある事を脅迫の材料に、志保は軟禁に近い状態での研究を強いられていた。わずか15歳の、本当なら一番輝かしい生活を送っているはずの妹が文句も言わないどころか、捨てられた形の自分を気遣う姿に明美はただ涙を堪える事しかできなかった。


 思考を中断し、顔を上げて息を整えると木立の間から山頂が見えた。もう少し行くと生涯山を愛した紀行作家終焉の碑があるはずだ。最後まで登り続けた大好きな山で死んだ時、彼はどんな気持ちだったのだろう……?
 文字通りゆっくりと一歩ずつ踏みしめ、大きな岩が重なる山道を登る。「小さな実験結果を積み上げる研究は山登りに似ている」――いつだったか志保が言っていた事を思い出す。「ろくに散歩もしないくせに」と笑いながら返したが、実は同じ言葉を志保と同じく化学者だった母からも聞いた事があった。
 (志保にも教えてあげた方が良かったかしら……?)
 「私にはお姉ちゃんがいればそれでいいの」と、あまり両親の事を知ろうとしない妹に母の話はほとんどしなかった。明美にとって母の最後の記憶は亡くなる少し前に数本のカセットテープを託された時のものだった。テープを持った明美を抱き締め、志保の事をくれぐれも頼むと言った母の声は今でも耳から離れない。
 母に託されたテープは数日前に都内の一軒家、志保が生まれる前に親子三人で最後に出かけた場所に隠して来た。計画が失敗しても組織が志保に手をかける事はないだろう。テープさえ無事ならいつか志保の手に渡るかもしれない……そう思って家族の思い出の場所を選んだのだ。
 準備は完全に整った。後は明日の十億円強奪計画の実行を待つばかりである。


 気が付けば最後の登り坂に掛かっていた。少々息は乱れているが、あと少しと思い切ってペースを上げる。今日の天気なら山頂からは見事な景色が見られるだろう。そこで一本メールを打つつもりだ。組織の犯罪者となってしまう自分とはもう永遠に交わる事はないであろう『彼』に最後に素直な気持ちを。
 最後の一文はもう決めてある。


 ――もしも組織から抜ける事ができたら今度は本当に彼氏として付き合ってくれますか? 


 山頂の三角点を踏みしめた明美の前に360度の大パノラマが広がった。



あとがき



2009年「宮野の日」企画参加作品です。
コミックス2巻の十億円強奪事件前日という設定で、初めて明美さん視点で書いた作品になります。明美さんが山に登っているのは18巻の大学教授殺人事件で広田ゼミの旅行が登山の写真だったから。もちろん私の趣味でもあるのですが(笑)