決意の先に 



 太陽の残滓が世界をほのかに照らし出す部活を終えた帰り道。幼馴染の江戸川コナンには『太陽のロスタイム』の一言で片付けられてしまうが、一日のおまけのようなこの時間帯が吉田歩美は昔から好きだった。
 隣を歩く小嶋元太を見上げると、「暑っちいな〜」と呟きながらアイスキャンデーを頬張っている。が、そんな文句とは裏腹にその左手は歩美の右手をしっかり握りしめていた。ほんの一ケ月前、まだ幼馴染という関係に過ぎなかった時には離れていた数センチの距離が自然と詰められている事についつい顔が綻んでしまう。
 「腹減った、何か食いてえ〜!」
 買い食いしようとする元太を引っ張って商店街を抜け、米花町2丁目に建つ親友、灰原哀の自宅へ向かう。お腹が一杯だった事もあり、5時限目の数学は見事に熟睡だった。以前から次の定期試験の山場だと噂されていた箇所だけに放置する訳にも行かない。哀のクラスは確か先週末に同じ授業があったはずだ。とりあえずノートを借りて分からなければ教えてもらえばいい。
 (哀の方が先生より分かりやすく教えてくれるしねv)
 心中の言い訳にクスッと笑ったその時、奇妙な形をした白亜の建物の前に目当ての人物が立っている姿が映った。
 「あ……」
 名前を呼ぼうとした瞬間、哀のいつもと違う様子に思わず足が止まった。ポストから取り出したと思われる封筒を見つめるその眉間には深いしわが寄っている。普段あまり感情を表に出さない彼女の尋常でない様子に歩美は「哀…?」と我知らず親友の名を呼んでいた。
 「歩美……」
 ハッとしたようにこちらに顔を向けながらさりげなく手にしている封筒を背後に隠そうとする姿に「どうかしたの?」と眉をひそめる。
 「別に……何でもないわ」
 「嘘、だったらその封筒は何?」
 「ただのダイレクトメールよ。歩美には関係ないわ」
 親友の頑なな態度に苛立ち、更に言葉を重ねようとした瞬間、「よぉ、オメーらも今帰りか?」というコナンの呑気な声が聞こえて来た。
 「江戸川君……」
 「なぁ灰原、ちょっと博士ン家寄っていいか?ちょうど美味い珈琲が飲みたいと思ってたんだ」
 「私、あなた専属のバリスタじゃないんだけど?」
 「ケチな事言うなよ。昨日ロスの母さんから旨そうなチョコが送られて来た事だしさ」
 コナンの強引な誘いに哀が「……ですって。せっかくだから歩美達もお呼ばれして行ったら?」と呆れたように肩をすくめた。
 「チョコって……ひょっとして時々コナンの家にある外国製の旨いヤツか?歩美、遠慮なく頂いてこーぜ!」
 「元太君ったら……」
 チョコレートと聞いて元太が黙っているはずがない。哀の様子を少し伺いたいと思っていた歩美にとっては願ったり叶ったりの展開だった。
 「んじゃオレ、チョコ持って来っからよ」
 「はいはい……それじゃ歩美と小嶋君は一足先に上がってくれる?」
 「おう!」
 「お邪魔しま〜す!」
 何気なく哀の顔を覗き込むとその顔色はやはり普段とは少し違うものだったが、歩美はあえて気付かないふりをして阿笠邸の門をくぐった。


 幼い頃から慣れ親しんだ阿笠邸のリビングで珈琲とチョコレートを楽しみながらも、歩美は先ほど目撃した哀の穏やかでない様子が気にかかって仕方なかった。同時にこういう時、彼女が簡単に口を割らない事は長い付き合いでよく分かっている。何かを隠している事は明らかだったが、自分達に余計な心配をかけまいと一人で悩みを抱え込んでいるのだろう。
 (親友なんだもん、困ってる時くらい頼ってくれてもいいのに……)
 そんな自分の考えは間違っているのだろうか……?
 「おい、歩美、オメーはどうすんだ?」
 「え…?何の話?」
 不意に名前を呼ばれ、自分でも気付かないうちに手元のカップへと落としていた視線を上げるとコナンが訝しそうな顔でこちらを見つめていた。
 「『今夜は博士が留守でオレ達だけだし、良かったら晩飯食ってかねーか?』って元太と話してたんだ。あ、勿論元太は即決だったけどな」
 「そ、そうなんだ……でも急に人数増えて大丈夫なの?」
 「ええ、せっかく良いお肉があったからローストビーフにするつもりで塊で買ってあったの。二人分くらい増えても全く問題ないわ」
 「そういう事なら甘えちゃおうかな?だったら家に連絡入れておかないと……」
 携帯を取り出したその時、今夜阿笠がいない事実に歩美はハッとなった。
 「ね、ねえ哀、甘えついでに今夜泊めてくれないかな?明日は部活も休みだし」
 「え…?」
 「今の今まで忘れてたんだけど……実は今日、ここへ寄ったのは数学のノートを貸してもらいたかったからなんだ。5時限目、爆睡しちゃって……お泊りすれば分からない所もゆっくり教えてもらえるし。ね?」
 「それは……」
 言い淀む哀に対し「そうしろよ、二人とも」とコナンが頷く。
 「ローストビーフか……鰻重と並ぶオレの好物だな!」
 「オメーは少しは遠慮しろ!」
 コナンの突っ込みに元太が照れたように頭を掻く。幼い頃から何度も見た光景ではあるが、大柄な元太が背中を丸めて小さくなっている姿に歩美はプッと吹き出した。


 探偵団が泊まる際には男子は工藤邸、女子は阿笠邸というのがいつの頃からか暗黙のルールになっていた。
 慣れた仕草で哀の部屋へ来客用の寝具を運び込むと歩美は食欲を誘ういい匂いに導かれてキッチンへ向かった。
 「哀、何か手伝おうか?」
 「いいわよ、ゆっくりしてて」
 「お客じゃないんだから。それにお料理上手な哀の手際を横で見てるだけでいい花嫁修業になるし。ね?」
 「歩美ったら……それじゃサラダの用意をお願い」
 「うん」
 いつもながら鮮やかな手際で調理を進める哀の横に立つと野菜を盛りつけて行く。他愛ない会話をしながらも準備は順調に進み、30分後にはすぐにでも食べられる状態になった。
 「遅いね、元太君達……ベッドメイキングなんてそんなに時間かからないと思うんだけど……何やってんだろ?」
 「どうせゲームに夢中になってるんでしょ?全く子供なんだから……」
 肩をすくめる哀に歩美は少し逡巡した後、「さっきの事なんだけど……」と思い切って切り出した。
 「あの封筒は何だったの?哀、何か変な事に巻き込まれて困ってるんじゃない?」
 「あれは……ただのダイレクトメールだって言ったじゃない」
 「嘘!ちょっとやそっとの事じゃ動じない哀があんな表情するなんておかしいもん!いつもの哀じゃないって事くらい分かるよ!私、哀の親友だもん!」
 素っ気ない親友の態度が悔しくてつい大きな声が出た。
 「哀が悩みや不安を簡単に口にできない性格だって事も、私に迷惑かけまいとしてるんだって事も分かってるよ!でも私、哀の力になりたいの!」
 瞳の端からポロポロと大粒の涙がこぼれる。小さい頃から興奮すると泣いてしまう自分が嫌で、直そうとしてはいるのだが、どうやらこの小さなコンプレックスを克服するにはまだ時間がかかりそうだ。
 「ごめんなさい、貴女に心配かけるつもりはなかったの……」
 ポケットから白いコットンのハンカチを取り出し、目尻を拭ってくれる哀に歩美は首を横に振った。その様子を見ていた哀は諦めたように小さく息をつくと
 「全部話すわ。でも一つだけ約束して欲しいの」
 「約束…?」
 「江戸川君には言わないでくれる?」
 思いがけない哀の言葉に歩美は驚きのあまり大きな目を更に大きく見開いた。
 「でも……コナン君は哀の……」
 「お願い、江戸川君には言わないで。彼にこんな事で責任感じさせたくないから」
 決然とした表情で呟く哀にどうやら譲れない条件である事を悟らされる。
 「……分かった」
 コナンに話せないのは辛いが、哀を一人苦しめておく訳には行かない。最悪、元太と光彦の力を借りるという選択肢だって残されている。
 歩美はそう自分に言い聞かせると目元に残っていた涙を掌で拭った。


 「十日くらい前から毎日ポストに入るようになって……」
 そんな言葉とともに哀が机の引き出しから取り出したのは先ほど阿笠邸の前で彼女が手にしていた物と同じ封筒だった。おそらく直接投函されたのだろう、住所は書かれておらず、ただ表に大きな赤い字で『灰原哀へ』と記されている。哀に促され、最初に来たという封筒から手紙を取り出すと、そこにはコナンへの想いと哀への憎しみが綴られていた。執拗に『江戸川君はお前に騙されている』と繰り返される文面に虫酸が走る。
 「江戸川君は人気があるし、こういう手紙やメールをもらうのは慣れてるんだけど……」
 怒りで手紙を持つ手が震える歩美とは対照的に哀は苦笑いとともに肩をすくめている。
 確かに帝丹高校サッカー部のエースにして『工藤新一』の再来と誉れ高い名探偵であり、その上ルックスも整ったコナンは帝丹高校内外から幅広く人気があったし、暴走したファンが学校まで押しかけて来る事も一再ではなかった。歩美自身、コナンと幼馴染だというだけで仲を取り持って欲しいと頼まれた経験もある。しかし、哀との交際をオープンにしているコナンがミーハーなファンは勿論、いかなる誘いや告白も頑として受け付けない事は周知の事実であったし、そのパートナーである哀も『帝丹高校のクールビューティー』と評される程の存在で、まさにお似合いのカップルとして有名だった。そんな状況でこんな感情をぶつけて来る者が現れるとは一体誰が想像できただろう……?
 「こんな物、哀に送り付ける暇があるなら玉砕覚悟でコナン君に告ればいいのに……!」
 「歩美、世の中はあなたみたいに建設的な人ばかりじゃないのよ?」
 「それは……でも、信じたくない事は信じないなんてただの自己中じゃん!」
 歩美の言葉に哀は「そうかもね」と呟くと他の封筒を見せてくれた。どれも同じようなドス黒い文面が繰り返されているが、『邪魔者は消えるべき』『江戸川君を自由にしてあげる』等々回数を重ねるごとに内容がエスカレートしている。
 「そして……これが今日の分」
 そんな言葉とともに手渡された手紙には『江戸川君に近付く女は皆排除する』と明らかに哀への殺意が綴られており、歩美は背中に冷たいものが流れたような気がした。
 「……何これ!コナン君と哀の過去を何一つ知らない人間が好き勝手言っちゃって……!あったま来た!こんなの許せない!絶対捕まえてやるんだから……!」
 「ちょっと歩美、落ち着いて。お願いだから危ない真似はしないで」
 「でも……!」
 「心配しないで。私なりに考えてあるから」
 怒りに我知らず立ち上がってしまった自分に顔を赤らめると歩美は座っていたクッションに腰を降ろした。そんな歩美に哀は悪戯っ子のような笑みを浮かべるとある計画を話してくれる。
 「――分かった、でも……上手く行くかなあ?」
 「一応、博士の自信作だし大丈夫でしょ?」
 「それはそうと……哀、やっぱりコナン君には言わないの?」
 「さっきも言ったでしょ?こんな事で彼に責任感じさせたくないって。それに……」
 「それに?」
 「これから先、彼の傍にいれば何度でもあり得る事だもの。これくらいの事は自分で解決したいの」
 迷いなくそう言い切る哀の表情にはコナンの傍で生きる決意が表れていて、それはとても凛として美しいものだった。
 「分かった、約束するよ。でも……もしまたこんな事があったら私にはちゃんと相談して。ね?」
 「歩美……」
 はにかんだような笑顔で小さく首を縦に振る親友に歩美はニッコリ微笑んだ。


 賑やかな夕食を終え、四人でサッカーを見たりゲームをしたりしていると壁に掛けられた阿笠特製のからくり時計が23時を告げた。
 「もうこんな時間か……それじゃオレ達はそろそろあっちへ行くからよ」
 「推理小説ばっかり読んでないでちゃんと寝なさいよ?」
 「オメーら二人だけで旨いモン食ったら承知しねえぞ!」
 「元太君と違いますよーだ!」
 哀と歩美の突っ込みにコナンと元太は互いに顔を見合わせると「んじゃな」と阿笠邸を後にした。
 二人を見送ると玄関に鍵をかけ、交代で入浴するとベッドに入る。が、親友との気の置けない会話は夜が更けても終わる事はなく、いつしか深夜を迎えていた。
 「それでね、元太君が……」
 歩美が身を乗り出そうとしたその時、枕元にあった小さな機械が激しく振動した。急いでモニターを起動すると髪の長い女の姿がいくつも映っている。手には何やら壜のような物が握られており、阿笠邸の門をこじ開けると一階の窓へ近寄ろうとしていた。
 哀に耳打ちされ、歩美はベッドを抜け出すと静かに二階の窓際へ向かった。計画では今頃哀が警察に通報しているはずである。歩美は息を殺すと先ほど設置しておいた犯人確保用の仕掛けにそっと手を伸ばした。早鐘を鳴らす心臓を落ち着かせるように大きく息を吸い、スイッチを入れようとしたその時――
 「――そこまでだ」
 突然、隣の庭から一条の眩しい光が阿笠邸の一階を照らし出した。白い光の中に浮かぶ眼鏡をかけた人物のシルエットに歩美は驚いて目を瞬かせる。一方、一階の窓際まで迫っていた女は慌てたように掌で顔を隠すと阿笠邸から逃げ出そうとした。
 「あ…!逃げちゃう……!」
 思わず声を上げた瞬間、門の前に大柄な人影が立ちはだかったかと思うとサッと女の手を捻り、あっさり身動きできない状態にしてしまった。
 「……そういえばオメー、最近服部に逮捕術を習ってるんだってな」
 コナンと元太の会話に歩美は慌てて玄関から外に出た。視線の先には同じように呆然としている哀の姿があった。
 「これでもう変な手紙は来ねーよ」
 コナンがゆっくりと哀に近付くと安心させるようにその手をそっと握りしめる。
 「貴方……知ってたの?」
 「バーロー、オレは探偵だぜ?オメーに何かあって気付かねーはずがねーだろ?それに……」
 「それに……?」
 「守ってやるって約束したしな」
 「江戸川君……」
 瞳を覗き込まれ、哀は小さく頷くとコナンの手をそっと握り返した。そんな二人の様子を微笑ましく見守っていた歩美だったが、「なぁ、コイツどうすんだよ?」という元太の困ったような声に現実へと引き戻される。
 「哀、警察に連絡は?」
 「あ……」
 「……さすがのオメーもオレ達の姿に驚いて電話するのを忘れちまったみてえだな」
 黙って頬を赤らめる親友の肩をポンッと叩くと歩美はポケットから携帯を取り出し、110番をコールした。
 

 捕らえた女はふてくされた顔でリビングのソファに座り込んでいたが、コナンが部屋へ入って来ると「江戸川君…!」と嬉しそうな声を上げた。
 「江戸川君、あなたは騙されてるの。あなたに相応しいのはそんな愛想の悪い女じゃないわ。私ならもっとあなたに優しくしてあげ……」
 「……ウルセーよ」
 狂気を帯びた声音で話し続ける女をコナンは冷たい声で遮った。
 「オレにとって大切で必要な女は灰原だけだ。アンタの意見なんて聞きたくもねえよ。もしコイツに何かしてみろ、完全犯罪で葬ってやるからな!」
 コナンの迫力に女が「ヒッ…!」と恐怖のあまり身体を震わせる。
 遠くからサイレンの音が聞こえて来たのはそれから間もなくの事だった。

 
 「じゃあコナン君は最初から全部知ってたの?」
 「まぁな。今夜は元太も泊まってくれた事だし、絶対片を付けてやろうと思ってたんだ」
 警察が犯人の女を連行して行くと四人は再び阿笠邸のリビングに集まっていた。張りつめていた空気が珈琲のまろやかな香りで少しずつ解されて行く。
 「本当に助かったわ。小嶋君、ありがとう」
 「礼なんかいいって事よ。警察官志望のオレにとってはいい訓練になったくらいだぜ?そんな事より……灰原、このクッキー美味いな!」
 「はいはい、今日ばかりは逆らえないわね」
 「警察官よりお相撲さんになった方がいいんじゃない?」
 哀から受け取ったクッキーを嬉しそうに頬張る元太の底なし胃袋に苦笑する歩美だったが、意を決したように手にしていた珈琲カップをテーブルの上に置くと「それより……」とコナンを真剣な表情で見つめた。
 「コナン君、哀を責めないでね。哀には哀の考えがあってコナン君には黙ってたんだから」
 大きなお世話だという事くらい分かっている。しかし「これくらいの事は自分で解決したい」と言った哀の気持ちを思うと黙ってはいられなかった。
 「心配すんなって。コイツの考えてる事くらいお見通しさ」
 「ちょっと江戸川君、勝手な事言わないでくれる?『考えてる事くらいお見通し』ですって?上等じゃない、だったら当ててみなさいよ」
 「そうだな……『どんな事があっても貴方の傍に居たい』……か?」
 「バ、バカね、貴方は私が居ないと駄目だから傍に居てあげるんじゃない……!」
 真っ赤になってプイッと顔を背ける哀に元太が笑い声を上げる。一昔前からは考えられない穏やかな空気に歩美はこれからも絆を深めていくだろう自分達の未来を思った。



 あとがき



 サイト8周年記念リクエストで「バカね。アナタは私が居ないと駄目だから傍に居てあげるのよ(←ツンデレ風味にコナンに)」 
 当サイトでは報われなかったり哀ちゃんに一本取られたり……なパターンが多いコナン君ですが、今回はとにかく「カッコいい江戸川君を書きたい!」という事でチャレンジしてみました。でもこれが苦戦することしきりで……(苦笑) 果たしてカッコイイ江戸川君になっているでしょうか?
 最後になりましたが、リクエストありがとうございました。