君を乗せて


 
 梅雨が明けるのを待っていたかのように始まった夏休み、少年探偵団の面々は毎日のように阿笠邸に集合していた。本当なら一日中地下室で解毒剤の研究をしていたいところだが、自分が出て行かないと明らかにがっかりする歩美を見ては無視して地下室に篭ることはできないし、賑やかな子供達の様子を嬉しそうに眺めている阿笠博士を見ていると彼らを無下に追い返すこともできない。解毒剤完成への義務感と焦燥感を無理矢理押し込め、灰原哀は結局毎日彼らに付き合っているのだった。


 「サイクリングに行こうよ」
 その日、歩美は阿笠邸に入るなりリビングでゲームをしていた元太と光彦に話しかけた。
 「歩美、お父さんと練習してやっと補助輪を外せるようになったから昨日新しい自転車を買ってもらったんだ。だから自転車でお出かけしたい」
 「サイクリングですか、いいですね。自転車だったらいつもより遠くまで行けますし」
 「そうだなあ、遠くの町の旨い店が見付けられるかもしれねえなあ」
 歩美の勧誘を元太と光彦が断るはずがなく、二人は二つ返事で同意する。二人の賛成にさらにテンションがあがった子供達がすっかりサイクリングの話で盛り上がっているのを横目で見ると、哀は会話に入ることを拒否するように彼らから離れて一人読書を始めた。
 「博士ー、眼鏡の調子見てくれー」
 そこへチャイムも鳴らさずに入って来たのは江戸川コナンだった。コナンは勝手知ったるとばかりにズカズカとリビングまで来て、何やら目を輝かせて盛り上がる三人に気付くと嫌な予感がしたのか、クルリと背を向けようとしたが、時すでに遅し。
 「あー、コナン君だ!」
 嬉しそうな歩美の声には逃げることもできず、ぎこちない笑顔を返す。
 「コナン君、サイクリングに行こうよ!」
 無邪気に自分を誘う歩美と自分に面白くなさそうな視線を送る元太と光彦を見て、なんとなく寸前までの雰囲気をコナンは察したが、ついつい本音が口をつく。
 「サイクリングなんて暑くねーか?」
 「歩美ちゃんがせっかく新しい自転車を買ってもらったんですよ。だいたい夏なんですから暑くて当たり前です」
 「そうだぞコナン。冬だったら寒いじゃねーか」
 「ねえ、コナン君、お願い」
 理不尽な攻撃と歩美の無敵の笑顔にコナンはタジタジとなりながら何とか味方を探そうと視線を彷徨わせたが、博士は出かけているらしく、哀もこの騒ぎには我関せずとカウンターキッチンのスツールに腰かけ、何やら分厚い本を読んでいて助けてくれそうもない。
 「分かったよ。行けばいいんだろ?」
 コナンの諦観のこもった返事を聞くと、三人は楽しそうに再び計画を練り始めた。

 「あーあ、なんでこの暑いのにサイクリングなんてしなきゃいけねえんだよ」
 横に人の気配を感じて哀が顔を上げると、恨みがましい目をしたコナンがいた。
 「博士もいねーんなら探偵事務所で本でも読んでれば良かったな」
 「あなたがチャイムも鳴らさずに勝手に入って来るんだから仕方ないじゃない」
 ぼやくコナンに苦笑しながらアイスコーヒーを前に置いてやる。
 「なんか夏休みに入ってからずっとあいつらのペースに巻き込まれてる気がするぜ……」
 「まあ、約束してしまった以上、しっかり彼らに付き合ってあげることね」
 うんざりしたようにアイスコーヒーを飲んでいたコナンがジト目を哀に向ける。自分だけが巻き込まれたのが面白くないのだろう。
 「何だよ、おめーは行かねーのか?」
 「それこそこんな真夏にサイクリングなんてごめんよ。それに自転車なんて持ってないし、乗ったことないし……」
 「もしかしておめー、自転車乗れねーのか?」
 コナンの驚いたような口調に哀はちょっとムッとした口調で返した。
 「そうよ。悪い?」
 「悪かねえけど……その…おめーが自転車に乗れねえってちょっと意外だったから」
 思いがけなく強い口調にしどろもどろに言い訳をするコナンに哀は小さく溜息をつき、
 「だってほとんど外に出ることもなかったから自転車なんて必要じゃなかったし。それに教わる機会なんてなかったもの」
 小さく答えると話を切るように視線を窓の外に向けた。
 だが実はそれは事実ではない。本当は一度だけ自転車に乗ることを教わる機会があったのだ。その機会を逃してしまった今、哀はもう一度自転車に乗る気にはなれなかった。


 自転車の乗り方というのは大抵の場合、例えば両親や兄弟、友達といった身近な人に教えてもらって習得するものだ。それは志保がいたアメリカでも変わらない。あの頃の志保の生活範囲に自転車を教えてくれるような人は居なかったし、自転車で共に出かけるような友達もいなかった。が、一度だけ日本から自分に会いに来てくれた姉の明美が志保をサイクリングに誘ったことがあった。どこからか手に入れてきた赤い子供用の自転車を持って来て自転車の練習をしよう、と。

 春先の花が綺麗に咲いた公園の中、練習中に何度も転ぶうちに志保はすっかり嫌になってしまった。
 「もうやだ。自転車なんて乗れなくてもいい」
 「そんなこと言わないで。だいぶ上手になったから、もうすぐ乗れるようになるわよ」
 手を引いて起こしながら志保の顔を覗き込む明美はなだめる様な笑顔を見せる。
 「無理だよ。だってさっきから何回もこけて足も手も痛いもん。それに自転車なんて車輪が二つだもん。こけるようにできてるんだよ」
 志保がませた口調で言うが、こんなにふくれた顔では全く説得力がないと明美は思った。
 「そんなことないわよ。自転車はね、自分の力で進んでる間は倒れないのよ。目的に向かって前に進んでる間は絶対に倒れないの。そういうところがお姉ちゃんは大好き。だから諦めないで練習しよう、ね?」
 まっすぐに志保の目を覗き込んで明美が言うその言葉には自転車についてだけでない、別の意味が含まれているように感じて、志保は小さく頷き、再び自転車にまたがった。
 そして練習することしばし。しかし、やはり何度やっても上手くできなくて再び自転車の練習が嫌になり始めた時、志保の何気ない一言がきっかけだった。
 「お姉ちゃんは誰に自転車を教えてもらったの?」
 「お父さんよ」
 その言葉を明美は少し寂しそうに笑いながら答えた。
 「お父さん…?お姉ちゃんもお父さんとこうやって自転車の練習したの?」
 「そうよ。公園でお父さんと一緒に練習したわ。お母さんも横で見ててくれてね。お姉ちゃんも何回も転んだけど、お父さんとお母さんがずっと応援してくれて乗れるようになったのよ」
 そう言う明美はどこか懐かしそうな嬉しそうな顔で、志保はなんだか面白くなくなった。
 「もういい。練習止めた」
 「えっ?」
 自転車を降りて帰ろうとする志保を明美は驚いて追いかけた。
 「どうして?もう少しで乗れるようになるから頑張ろう」
 「ううん、もういい。だってお姉ちゃんには応援してくれる人がいたけど、志保にはいないもん」
 拗ねたような口調で言う志保の言葉に明美は思わず絶句した。
 「……ごめんね志保。そういうつもりで言ったんじゃないの。志保にはお姉ちゃんしかいないのに寂しがらせちゃったね」
 志保の小さな体を抱きしめながら泣きそうな顔で謝る明美を見て志保は後悔した。本当は明美が羨ましくて拗ねたわけではなく、明美の楽しい思い出の中に自分が居なかったことが悔しかっただけなのだ。志保には最初からずっと明美しか居なかったから明美にもそうであって欲しかったという、そんな子供の独占欲。だが幼い志保はその感情を持て余して素直になれない。
 「どうせ乗れないからもういい」
 「乗れるわよ。志保はお姉ちゃんよりずっと上手だから」
 「だって自転車に乗っても行く所なんてないもん」
 「自転車に乗れるようになったらお姉ちゃんとサイクリングに行こうよ」
 拗ねた口調で言い続ける志保に明美が必死で笑顔を作りながらそう言った。
 「お姉ちゃんと二人で…?」
 「そう。家族でサイクリングっていうのをお姉ちゃん、一度したかったの。家族で遠い町へ行ってお弁当を食べるの。みんなで食べないとお弁当は美味しくないでしょ?お姉ちゃんの家族は志保だけだから志保が一緒に行ってくれないとダメなの」
 涙を浮かべて一生懸命話す明美の言葉に志保は小さな手で明美の涙を拭いながら頷いた。
 「でも、お姉ちゃんのこんな顔じゃ今日はもう無理だね」
 「志保だって泣いてるじゃない。うん、また明日練習しよう」
 二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
 しかし、次の日、急に志保が新たな教育施設に連れて行かれることになり、その後結局、二人で自転車の練習をする機会は無かった。


 「えー、哀ちゃんサイクリング行かないの?」
 歩美の声に意識を引き戻され、振り返るといつの間にかコナンも加わって探偵団の仲間達が地図を広げてサイクリングの相談をしているようだった。
 「そんなこと言わないで行きましょうよ、灰原さん」
 「そうだぜ、灰原。少年探偵団は全員参加だぞ!」
 「歩美、哀ちゃんと一緒に行きたい!」
 取り囲んで口々に勧誘してくる子供達にも哀は頑として首を縦に振らない。
 「灰原は自転車持ってないからパスなんだってさ」
 先ほどの罪滅ぼしのつもりか、見かねたコナンが説明をしてくれる。
 「自転車なら僕の姉さんが昔乗っていたのがあります」
 是非それを使ってください、と光彦が言葉を続けようとするのを哀が
 「私、自転車乗れないから、いいわ」
 話を打ち切るように振り向くと、「地下室にいるから」と言い残し、さっさとリビングを出て行った。


 数度のノックに返事を返すと、ためらいがちに開かれたドアの前にコナンが立っていた。
 「あの子達は帰ったの?」
 「ああ」
 コナンが真後ろのソファーに腰掛ける気配がして、哀はクルリと椅子を回転させた。どうせ先ほどの自分の態度を咎めに来たのだろうが、座ったまま何も言おうとしないコナンに苛立って口を開いたのは哀だった。
 「何?言いたいことがあるならはっきり言って頂戴」
 「……さっきのサイクリングの話なんだけどさ、オレが言ったことを気にしてるんならオレが教えてやるし、一緒に行かねえか?」
 「さっきは嫌がってたのにどうしたの?ずいぶん積極的じゃない」
 てっきり咎められると思っていただけに、全く予想外のコナンの言葉に驚いている哀に眉をしかめたコナンは決まりが悪そうに横を向いた。
 「あいつらも気にしてたし、どうせ行くならみんなで行った方がいいだろ?それにできないことをできないままにしておくのは良くねえぞ」
 「あら、探偵は止めて学級委員にでもなったのかしら」
 いつものように揶揄するような哀の口調にコナンはついカッとなって大きな声を出した。
 「さっき部屋を出て行く時、おめーがあんな顔するからオレはっ…!」
 「えっ…?」
 気付かれていたのか、という驚きとともにコナンを見つめれば、コナンは「しまった」というような真っ赤な顔で視線を泳がせた。それを見て哀も思わず顔を赤くする。しばらく気まずい雰囲気が二人の間を漂った。
 「……歩美も落ち込んでたぞ」
 息を抜いてソファーに背中を沈めたコナンが呟いた。
 「また自転車のことでケンカしちゃったわね」
 顔を上げてコナンを見ると哀は寂しそうに微笑んだ。

 「工藤君は自転車、誰に教わったの?」
 「ああ、ハワイで親父に」
 「そう。吉田さんもお父さんに教わったって言ってたわね」
 コナンは何も言わず哀の次の言葉を待った。
 「小さい頃…ちょうどあの子達と同じくらいの年だったかしら、姉とサイクリングをするために自転車の練習をしたことがあったの。その時に父に自転車を教えてもらった話をする姉に私が拗ねてケンカになって……その後、姉と自転車の練習をすることも無くて、結局私は今でも自転車に乗ったことが無いままなの」
 壁の向こうを見るような目で足をブラブラさせながら話す哀はいつもの大人びた様子よりずっと幼く見えた。
 「姉とケンカをしたのは後にも先にもその時だけだったわ」
 懐かしいような、悲しいような声だった。
 遠い日の、本当なら今では笑い話になるような姉妹の思い出話ですらどこか自分を責めるような哀の言葉にコナンは何も言えなかった。彼女が自分自身を許せるために何か言いたい言葉があるはずなのに、自分が何を言っても哀を追い詰めてしまうような気がした。
 哀が自分自身を責めるのは、倒れることが無いように自分を支えるためだということに気付いたのはいつのことだったか。彼女はいつも何かを課して自分を追い込んでいる。そしてそのことにどれほど傷ついても、誰にも頼らず自分の力で立とうとする。そんな彼女の強さにいつの間にかコナンは目を奪われていた。そして同時に哀をそんな張り詰めた危うさから解放したいと思った。
 だが、コナンが哀を解放しようとすることを哀は認めないだろう。誰よりもコナンに許されることを彼女は恐れている、それが分かるくらいには彼女の側に居るつもりだ。「友人」という理由では手を伸ばすことを許してもらえない、自分達の関係を「相棒」だと定義すれば、パートナーの義務として彼女を支えることを認めてくれるだろうか。
 
 コナンにこれ以上話をする気はないのか、
 「今日はちょっとその時のことを思い出しちゃったの。吉田さんには悪いことしたわ」
 「今度謝っておくから」、そう言うと哀はストンと椅子から下り、扉を開けてコナンに出て行くよう促した。
 背後で扉が閉まる音を聞いてコナンは小さく息を吐いた。


 それから数日間、博士が留守だということもあり少年探偵団が阿笠邸に集まることは無かった。哀はサイクリングの話が少し気まずかったこともあり内心ホッとしながらも、やはりどこか落ち着かない日々を過ごしていた。
 その日、哀は博士が頼んでいた酒が届いたという連絡を受けて元太の自宅である小嶋酒店を訪れた。
 午後1時を少し回ったばかりのせいか、かなり暑い。元来、暑いのが得意ではないのだが、今日は数日振りに博士が帰って来るということで、せっかくだから楽しみにしていた酒を飲ませてやりたいと思い、入荷を告げる電話を受けてすぐに家を出たのだ。
 自動ドアが開き、店内に入った瞬間、冷たい空気にホッと息を吐く。店の奥にいる元太の母に声をかけ、商品を受け取ろうとすると元太の母は困ったような顔をした。
 「ごめんよ、哀ちゃん。子供にお酒を売っちゃいけないのよ」
 その言葉に仕方が無いと頷きながら内心舌打ちする。確かにたとえお使いであっても未成年にアルコールを販売するのは酒屋としての責任が問われるのだろう。元の体ならば元々大人びて見えたこともあり、未成年であっても外見的に誤魔化せただろうが、さすがにこの体では無理である。
 残念だが帰ろうした時、自動ドアが開く音がして元太が慌てて店に入って来た。
 「ま、待てよ、灰原!」
 汗をかきながら入って来た元太に哀は驚いて目を大きく見開いた。
 「それ、オレが今から配達してやるよ!」
 「えっ…?」
 さらに驚いて哀が聞き返すと、後ろから元太の母が嬉しそうな声を出した。
 「それがいい。元太が哀ちゃんと一緒に持って行けば配達だから大丈夫」
 「でも、それじゃ小嶋君に悪いですから……」
 慌てて哀が断ろうとすると、元太の母は元太の頭を乱暴に撫でながら
 「いいよ。夏休みなんだからたまには店の手伝いもしてもらわなきゃ困るからね。それに阿笠さんにはいつもこの子達がお世話になってるからそれくらいさせておくれよ」
 と笑った。
 「そうだぞ、灰原。オレが配達してやるって言ってるんだから全然悪くないぞ」
 ふんぞり反っていう元太が母親に「お客さんに偉そうに言うんじゃないよ」とペチッと叩かれるのを見て哀は思わず笑みをこぼし、元太の申し出を受けることにした。

 準備をして来ると言って店を出た元太に呼ばれて外に出ると、元太が自転車の前のカゴに酒を入れ、後ろの荷台に座布団を敷いているところだった。
 荷台に座るように言われたが、さすがに二人乗りはまずいだろうと元太の母を見ると、
 「ホントは二人乗りはいけないんだけど、この暑さの中、また哀ちゃんを歩いて返すのは気の毒だからねえ。元太、今日だけだよ」
と苦笑した。「分かってるよ」と元気よく答える元太に促され、ためらいながらも座布団の上に腰掛ける。
 
 小学一年生離れした体格から鈍重そうに見えるが、実は運動神経の良い元太の自転車の運転はしっかりしたもので、安心して乗っていられた。人の多い道を避けて提無津川の堤防を走っていると川から吹いてくる風が気持ちいい。
 「なあ、灰原」
 一生懸命こぎながら元太が哀に呼びかける。
 「自転車、いいだろ?」
 「……小嶋君、もしかして私を自転車に乗せたいから配達してくれたの?」
 哀が低い声で返しても元太は気にすることなく話を続ける。
 「だっておめーがサイクリングに行ってくれなきゃ困るからな」
 「どうして困るのよ。もしかして吉田さんに良い所を見せたいのかしら?」
 少し不機嫌になった哀が意地悪そうに言っても元太は全然気にしていないようだった。
 「はあ、なんで歩美が出てくんだ?探偵団でサイクリングに行くんだぞ。みんなで遠い町へ行って弁当食うって決めたんだ。みんなで食わないと弁当は旨くないんだぞ。おめーだって探偵団なんだから一緒に行かないとダメなんだからな」
 元太が息を荒くしながら語る言葉を聞いて哀は固まった。
 元太の言葉に遠い日の明美の言葉が重なる。
 『みんなで食べないとお弁当は美味しくないでしょ。志保が一緒に行ってくれないとダメなの』
 知らないうちに元太の服を掴んでいる手に力が入っていた。
 「私…自転車乗れないから」
 強く掴みすぎて元太の服が皴になっているのに気付き、少し力を抜いた。
 「練習すればすぐに乗れるようになるぜ。オレ達も応援してやっからよ」
 「小嶋君が教えてくれるんじゃないの?」
 すっかり元太が教えてくれるものと思っていた哀が不思議そうに尋ねても元太は笑って教えてくれなかった。

 阿笠邸の門前に自転車をつけて哀が荷台から下りるのを確認すると、元太は酒瓶をもって勝手にどんどん入っていく。みんな誰の家だと思ってるのかしら、これも工藤君の悪影響だ、とぼやきながら急いで元太の後を追う。ところが元太は玄関に向かわず、そのまま庭の方に向って行ってしまった。
 「ちょっと小嶋君、どこに行くの?それはこっちよ」
 哀が声をかけても振り向こうともしないので仕方なく元太の後を追う。
 「小嶋君、いい加減に……」
 立ち止まった元太に息を荒くして哀が苦情を言おうと顔を上げた時だった。阿笠邸の庭に赤い子供用の自転車が止まっている。その自転車は少し古びてはいたが、あの日、明美が持って来た物に良く似ていた。
 「これは僕の姉さんの自転車です。古くてすいませんけど」
 後ろから申し訳なさそうな光彦の声がした。
 「自転車に乗れるようになったら歩美達とサイクリングに行こうよ」
 歩美の笑顔にまた明美の声が重なる。
 『自転車に乗れるようになったらお姉ちゃんとサイクリングに行こうよ』
 「あなた達、どうして…?」
 三人並んでニコニコ話しかけてくる子供達の姿に哀は状況が理解できず、戸惑ったような声を出すしかない。
 「元太君がね、どうしてもみんなでサイクリングに行きたいから哀ちゃんが自転車の練習をする方法を考えようって言ったんだよ」
 「それで昨日から四人で相談したんです。でも、美味しいお弁当を食べたいからっていう理由が元太君らしいでしょう?」
 「母ちゃんがいつも言ってるんだよ。『ご飯が美味しいのはみんなで揃って食べるからだよ』って。灰原が来ないとせっかくの弁当が台無しじゃんか」
 当然のようにニコニコ笑ってそう答える元太に哀も思わず笑みを浮かべた。あの日、姉は普通の姉妹のようなことがしたくて、そして普通の子供のような体験をさせたくて自分をサイクリングに誘ったのだろう。普通の体験を楽しい思い出として作りたくて。
 元太は純粋に美味しい弁当を食べるために自分を誘ってくれたのだろう。本当に普通の小学校一年生の優しさだ。慰めや哀れみからではないその感情に哀は少し素直になれそうな気がした。自分は同級生達の楽しい思い出に参加して果たして許されるだろうか…?
 赤い自転車と子供達を交互に見て、哀は小さく頷いた。満面の笑みとともに三人が歓声をあげたその時、
 「おお、間に合ったか!」
 聞きなれた声がしたかと思うと光彦の後ろに大きなお腹が見えた。
 「博士?今日は夜になるんじゃなかったの?」
 「そのつもりだったんじゃが、せっかく哀君が自転車の練習をすると聞いて早く帰って来たんじゃ。哀君に自転車を教えるのはわしの役目じゃからのう」
 張り切って腕をまくる仕草をする博士。その後ろにはコナンが立っている。
 「あなたが博士に連絡したのね」
 「おめーに自転車を教えるのはオレ達じゃなくて博士の仕事だと思ったからな」
 元太とは対照的にぶっきらぼうに言う姿は彼が自分にだけ見せる宮野志保と同じ世代の工藤新一の姿だ。それが何だか可笑しくて哀は思わず笑ってしまった。
  
 「哀君、準備はOKじゃよ」
 博士の声が聞こえる。口々に自分を応援する探偵団に微笑んでハンドルを握った。一瞬、空を仰ぐ。
 『お姉ちゃん、私もお父さんみたいな博士と自転車の練習をするわ。応援はお姉ちゃんの時よりずっと賑やかだから、今度はお姉ちゃんが悔しくなっちゃうかしら?……フフッ、本当は喜んでくれるわよね』
 前を見てゆっくりとペダルに乗せた足を動かす。博士が後ろを支えてくれている。頬に当たる風が心地良かった。


 「疲れたろ?」
 ソファーに座ってぼんやりしている哀に声をかけ、コナンがコーヒーの入ったカップを彼女の前に置いた。今、阿笠邸に居るのはコナンと哀の二人だけだ。あの後、夕方まで練習し、無事自転車に乗れるようになった哀をお祝いすると言って探偵団の面々は夕食後まで騒いで博士に車で送ってもらうことになったのである。
 「そうね、慣れないことをしたから明日は筋肉痛かしら」
 苦笑する哀に「博士みてー」と失礼なことを言いつつ隣に腰を下ろした。二人はしばらく黙ってカップを傾けていたが、コナンが唐突に 
 「オメーって自転車に似てるよな」
 と言った。怪訝そうな顔をする哀にニッと笑って続ける。
 「自転車は自分の力で前に向かって進んでる限りは倒れねえだろ?目的に向かってる間は絶対に倒れようとしないところなんかオメーによく似てるよ。そういうとこ、オレはいいと思うぜ。あいつらも博士もそう思ってるさ」
 てっきり「キザだ」と返されると思っていたコナンは、その言葉を聞いて固まってしまったように動かない哀に怪訝な顔をした。
 「……前にお姉ちゃんも同じことを言っていたわ。自力で進んでいる間は……目的地に向かっている間は倒れない自転車が大好きだ、って」
 震える声でゆっくりと話す哀の頭をコナンは何も言わず優しく撫でた。

 
 それから数日たった少年探偵団のサイクリング当日。
何故だか当然のように集合場所となった阿笠邸に一足早く着いたコナンは哀の淹れてくれたコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
 「そろそろ彼らが来る頃ね」
 キッチンから出て来た哀が言うと、コナンが新聞を畳んでテーブルの上に置き、哀の顔を見て、
 「言っとくけど、おめー、もう元太の自転車の後ろに乗るんじゃねえぞ」
 「そうね。二人乗りは危ないし、私にはもう自分の自転車があるから」
 答える哀にクルリと背を向けたコナンが
 「次におめーを自転車の後ろに乗せるのはオレだからな。覚えとけよ!」
 と怒ったような口調で言うと、さっさと玄関を出て行ってしまった。
 後に残った哀が呆然としてコナンが出て行った方向を見ていると、入れ替わりに入って来た博士が不思議そうに
 「おや、新一も真っ赤な顔をしておったが…哀君まで赤い顔をしてどうしたんじゃ?」
 「し、知らないわよ!もうっ!」
 焦ったように顔を背け、キッチンへ駆けて行く。部屋に一人置いていかれた阿笠は「はて…?」と、玄関とキッチンを交互に見つめて首を傾げた。



あとがき



これをきっかけに第2創作人としての話が始まったサイトにとって記念すべき作品です。
少年探偵団の中ではあまり接点が無い元太と哀の交流が書きたかったのですが、どうも狙いを外したような感じもします。まあ、博士、明美さん、少年探偵団と出したいものをすべて出せたので私としては結構満足しています。とはいえ「元太と哀」というのはもう一度リベンジしてみたい題材ではあります。
ちなみに裏タイトルは「ハワイで親父に」ですw