『花冷え』という言葉が相応しい夜なのにどこか暖かく感じられるのは二人の吐息が原因だろうか……?
新一は組み敷いた志保の真っ白な胸に落ちた汗をそっと唇で拭った。



眠る君の横顔に微笑みを



華奢な腕がシーツの上に滑り落ちる音に新一は深々と味わっていた唇を名残惜しそうに離した。志保の瞳に浮かぶ熱情の余韻を含んだ雫が月の光を受けて煌めき、新一の中にある雄の本能を刺激する。解放したばかりの唇に再び口付けると新一はそのまま志保の隣に横たわった。投げ出した左腕に彼女の重みを感じると反対の腕でその頬に優しく触れる。
「満月なのね、今夜……」
ぼんやりとした声に窓の外に目をやると綺麗な円形の月が中天に差し掛かろうとしていた。
「知ってる?満月の日は殺人が多いのよ。今夜も突然目暮警部に呼び出されたりして……」
「バーロー、ただの俗説だろ?大体警部の呼び出しなんか今夜は無視に決まってんじゃん」
「根っからの探偵である貴方が事件と聞いて無視できるとは思えないけど?」
「確かに事件を放っておくのは性分じゃねーけど……こんな月が綺麗な夜は不埒な泥棒がオレの大切な宝石を盗みに来るかもしれねーからな。ちゃんと閉じ込めておかねーと」
そんな台詞と共に志保の瞳を覗き込むと、真っ赤になった顔を隠すように新一の腕に顔を埋めてしまった。こんな時、不意に見せる志保の無防備な仕草に
(……こういう可愛さは反則だって分かってんのかね、コイツ)
と苦笑しつつ、自分の心拍数の上昇と下心を誤魔化すように腕の中で「……気障」とくぐもった声で呟く彼女の薄紅色に染まった項に頬を寄せた。


新一が腕の力を緩めると赤みがかった綺麗な茶髪がモゾリと動いて緑柱石の瞳が見上げて来た。
「そういえば昔、お姉ちゃんと月を見に行った事があるの」
最近、志保はこんな風に新一の腕の中でポツリポツリと色んな話をするようになった。姉との思い出や二度目の子供時代の話が中心だったが、ごく稀に組織にいた頃の話も交じっていた。
「明美さんと?」
「ええ。『春にお月見?』って訝しむ私に『志保、お月見は秋だけじゃないのよ』って。『いづれとも わかれざりけり 春の夜は 月こそ花の にほひなりけれ』って。お姉ちゃん、和泉式部が好きだったから……」
囁くような志保の声に新一は続きを促すようにゆっくりと髪を梳いた。
「『ここに桜なんかないよ?』って首を傾げる私にお姉ちゃんったら『子供の志保には分からないわね』なんて笑うのよ?」
遠い思い出を追うように窓の向こうに視線を送る。その視線の先に光る美しい月は当時も仲睦まじい姉妹を照らしていたのだろう……そんな思いを馳せつつ新一は志保の声に耳を傾けていた。
「それでね…その時、お姉ちゃんが……」
次第に睡魔に誘われたのだろう、しばらくすると新一の腕の中で志保は規則正しい寝息を立て始めた。理知的な光を宿す瞳が閉じられ、あどけなさすら感じさせるその寝顔に安堵の笑みを漏らすと、新一は志保の身体にしっかりと布団を掛け、自らも深い眠りに落ちていった。



組織を壊滅させ、解毒剤で元の身体を取り戻した新一と志保はそれから間もなく恋人と呼ばれる関係になった。とはいえどこか一線を画すような付き合いしかしない志保との距離に不安を覚えた新一が渋る彼女を根気よく説き伏せ、工藤邸で一緒に暮らし始める事ができたのは付き合い始めてから二度目の冬を迎える頃だった。
そしてそれから数週間……
「またか……」
窓から差し込む光に目を覚まし、隣にあるはずの温もりに手を伸ばしてもそこには冷たい敷布の感触しか残っていなかった。昨夜脱ぎ散らかした夜着はきちんと片付けられており、枕元には着替えが準備されている。すっかり習慣となってしまった動作とその結果に我知らず自嘲の笑みが零れた。
一緒に暮らし始めて数週間、その間志保が新一の腕の中で目を覚ます事はなかった。夜、部屋に誘うと共にベッドに入るし、新一の腕に抱かれる事を嫌がっている訳ではない……と思う。しかしどれだけ強くかき抱いて眠りに就いても翌朝彼女の姿は腕の中になかった。
ベッドを抜け出した彼女をそっと追いかけた事もある。一人リビングでソファの上に膝を抱くようにうずくまり窓の外を見つめている志保に新一が思わず声を掛けると、彼女は一瞬驚いたように身体をビクッと震わせたが、「ちょっと早く目が覚めただけだから……」と曖昧な答えを返すだけだった。そのあまりに儚い姿に、それ以降追いかける事も問い詰める事もできなくなってしまった。
(いっそ意識をなくすぐらい抱いてしまおうか……)
そんな黒い感情を振り払うように思いっ切り頭を振ると、新一は用意されていた着替えを身につけ、キッチンへ向かった。


そして更に数日が経った。
荒い息と共に背中に回されていた志保の腕から力が抜けるのを感じると、新一はそのまま彼女を強く抱き込んだ。
「苦しいわ……」
囲われた腕から抜け出そうと身をよじる志保に腕の力を更に強める。
「ちょっと…!放して!工藤君、いい加減……!」
「放したらオメーはこの部屋を出て行っちまうじゃねーか……」
抗議の声を封じるような新一の掠れた声に志保の身体がビクッと震える。
「なあ、もしかしてオレと一緒に居るのが嫌なのか?オレの傍にいるのはオメーにとってそんなに負担なのか?」
自分でも分かるほど沈んだ声音に志保がフルフルと首を横に振る。その仕草に新一は抱き締めていた手を少しだけ弛めた。
「情けねーよな……どれだけ頭を捻ってもオメーがどうしたらオレの横で眠れるくらい安心できるのか、オレには全然分からねーんだからさ……」
「何が『平成のホームズ』だよ……」という自虐の言葉に志保は更に強く首を振った。
「眠れないならオレが出て行くから……オメーはちゃんとベッドで寝ろ」
そんな言葉と共に志保の頭をそっと撫で、身体を起こそうとした瞬間、「待って!工藤君!」と強い力で腕を掴まれた。志保の思いがけない行動に瞠目する新一だったが、「そのままじゃ冷えちゃうから……」と微笑む彼女に手を引かれ、毛布の中に再び潜り込んだ。
二人向かい合うような形で横たわると志保がゆっくりと語り始める。
「違うの……貴方の腕の中が安心できない訳じゃないの。逆に安心できるからこそ貴方の腕の中で眠るのが怖いの……」
震えながらも決して離そうとしない白い手を新一もしっかりと握り返した。
「子供の頃……組織に命じられてアメリカで英才教育を受けさせられている私の所に姉が何度か泊りに来てくれたの。特別に何かする訳じゃなかったけど……お姉ちゃんと一緒に居るだけで楽しかった。色んな話をして一緒にご飯を食べて……そんな他愛のない普通の姉妹のような事ができるだけで幸せだったの。もちろん、夜は一緒に眠ったわ。お姉ちゃんとこんな風に同じ布団で……幼い私はお姉ちゃんの声を聞いているだけで安心してすぐに眠ってしまったんだけど……でも、起きたらいつもお姉ちゃんはいなくて……」
言葉を探しながら懸命に自分の心中を伝えようとする志保の頬を新一は何度も指で撫でた。
「当時の私は将来APTXの開発を受け継ぐための学習プログラムをこなしていたんだけど、お姉ちゃんが居る事でスケジュールが乱れたんでしょうね。どうやら組織に無理やり夜の内に帰されていたみたいなの。その事に気付いてから私はお姉ちゃんと一緒に眠るのを避けるようになったわ。だって……目が覚めたら誰もいない朝なんて嫌じゃない?」
「志保……」
「でも……今の私は貴方に当時の私と同じ孤独感を与えていたのね……」
「ごめんなさい」と泣きそうに眉根を歪ませる志保を新一は強く抱きしめた。
「バーロー、オレはオメーを置いてどこにもいかねーよ。これから何度だって一緒に朝を迎えてやる。その代わり……」
ニヤッと笑って言葉を切る新一に志保が首を傾げる。
「朝まで絶対離さねーからな!」
耳元に唇を寄せてそう呟くと彼女の瞳から零れた水滴が新一の胸を熱く濡らした。


フワフワと胸をくすぐられる感触に新一は目を覚ました。まだ覚醒し切っていない頭を下に向けるとカーテンの隙間から漏れる陽光に透けた薄茶色の髪が胸にモゾモゾと押し付けられている。
清々しくはあるが冷たさを含んだ朝の空気に肩口まで布団を引き上げ、包み込むように抱きしめると志保は少しだけ身じろぎ、そのまま身体を預けて来た。普段は見せないその甘えた姿に愛おしさが募り、顔を隠すように広がる柔らかい髪にそっと掌を滑らせる。
(昨夜はちょっと無理させ過ぎたかな……)
未だ腕の中で静かな寝息を立てている志保に反省しつつも湧き上がる幸福感に自然に顔が綻ぶ。この穏やかな寝顔を守る事を改めて誓うと新一は志保の額にそっと唇を寄せた。



あとがき



2016年に出た灰原哀&宮野志保アンソロジー『朝ちゅん〜LoveMeThroughTheNight』に寄稿させて頂いたテキストです。とはいえR18?というくらいぬるま湯ですが……
途中に出てくる和歌についてはどの程度書いたらいいのか悩み、相方と色々相談しながら書いた覚えがあります。和泉式部の歌は私の中で思いっ切りのいい激情家なイメージだったりするので明美さんを象徴するものとして選んだのですが、読者様には好意的に受け取って頂けたようで嬉しかったです。