虹の彼方に



 突然の雨に家路を急いでいた新一は屋敷の中から慌てて夕刊を取りに顔を出す隣人の姿に思わず足を止めた。
 「よぉ、博士」
 「お帰り、新一君」
 いつもと変わらぬ穏やかな笑顔に新一は当たり前のように阿笠邸の玄関へと方向を変えた。
 傘を差していたにも拘らず顔や肩を派手に濡らしてしまっている様子を見かねたのか、阿笠が洗いたてのタオルを手渡して来る。「サンキュ」と顔を拭こうとした瞬間、つい眼鏡を外そうとしてしまう自分に新一は思わず苦笑いを浮かべた。
 「せっかく傘を持っておったのに……濡れんように気を付けたらどうじゃ?」
 元の高校生の姿を取り戻したにも関わらず未だに子供扱いする阿笠をうんざりとした顔でやり過ごしていた新一は玄関先にある小さな靴に眉根を寄せた。 
 「博士、灰原は?」
 「ああ、哀君ならさっき帰って来て風呂に入っておるよ。随分濡れておったんでの」
 「アイツ……傘持ってなかったのかよ?」
 「小学校を出る時は降ってなかったそうで置いて来てしまったらしい。しっかり者の哀君にしては珍し……ん?どうしたんじゃ?」
 リビングへ促す阿笠を無視するように新一は不機嫌そうな顔でなおも玄関から動こうとしない。
 「何でもね……ハックションッ!!」
 「おいおい、大丈夫かね?早く身体を温めるんじゃ」
 阿笠に追い立てられ、新一は渋々といった表情でリビングへ入って行った。


 暑さが残る時季ではあるが、いきなりの大雨で思ったより身体が冷えてしまったのだろう。阿笠が用意してくれた暖かい珈琲を無言で受け取ると、新一はあっという間に胃の中へ流し込んでしまった。機嫌が悪い時は話しかけても無駄な事くらい百も承知なのか、阿笠は黙って肩をすくめると自分の分の珈琲を手にパソコンデスクの前に座り、キーボードを操作し始めた。
 元々新一は喜怒哀楽のはっきりしたタイプである。その明晰な頭脳とそつの無い行動で子供っぽい面を上手く誤魔化し、周囲には落ち着いた印象を持たれてはいるが、阿笠のように気を許した相手の前では感情を隠そうともしなかった。そんな激しい態度の落差に哀からは「工藤君ってもしかして小嶋君達よりお子様なんじゃない?」と、遠慮ない指摘が飛んで来る事もしばしばだった。
 (それにしても……今日は何時にも増して荒れておるの)
 新一の座るソファに阿笠がチラリと視線を向けたその時、リビングのドアが開くと濡れた髪をタオルで拭きながら哀がやって来た。瞬間、更に苦い表情になる新一にどうやら不機嫌な理由は哀にある事を理解する。
 「工藤君……遅くなるんじゃなかったの?」
 「オメーこそ職員室に呼ばれてて遅くなるはずじゃなかったのか?」
 「その……小林先生の予定が急に変更になって……」
 「バーロー、帝丹小は毎月第三水曜日が職員会議だっつーの」
 ピシャリと言われ、バツが悪そうに黙りこくる哀を視線で促しソファに座らせる。
 「だいたいオメー、なんで濡れて帰って来てんだ?傘はどうした?」
 「だから……学校に置いてきちゃって……」
 「嘘言ってんじゃねーよ。歩美ちゃんに貸したんだろ?」
 「どうして……」
 「ここへ来る途中、歩美ちゃんに会ったんだよ」
 わずかに顔をしかめる哀に新一の表情が更に渋くなる。
 「で?さっきの電話は何だったんだ?」
 いつもより低い新一の声、しかしそれに答えられるはずもなく哀は黙って俯いた。


 「どうしよう……歩美、今日傘持ってないのに……」
 下校時を待っていたかのように突然降り出した雨に歩美はガックリと肩を落とした。すかさず元太と光彦が自分の傘に入るよう勧めるが、歩美は困ったような笑顔で言葉を濁している。休み時間に「このワンピース、この前買ってもらったばかりなんだ!」と嬉しそうに話していた姿を思い出し、哀は小さく肩をすくめると手にしていた傘を歩美に差し出した。
 「これを使いなさい」
 「え、でも……」
 「お気に入りの服を濡らしたくないんでしょ?私の事なら心配いらないわ。工藤君と落ち合う約束になっているから」
 「哀ちゃん、本当にいいの?」
 「ええ」
 歩美は一瞬で笑顔になると、「ありがとう!明日必ず返すから!」と傘を手に元太達と教室から出て行った。
 三人の後姿を見送ると携帯を取り出し、新一の番号を探す。確か帝丹高校はテスト期間のため午前中で終わりだったはずだ。この時間に電話しても大丈夫だろう。
 「灰原か?どうした?」
 ピッタリ3コールで新一の声が聞こえた。
 「いきなりごめんなさい。工藤君、今日までテストだって言ってたわよね?」
 「ああ、ちょうど今終わったとこ……」
 その時、電話の向こうから新一を呼ぶ声が聞こえた。
 『工藤、打ち上げ行こーぜ!』
 「あ、わり」と携帯を外し、後方からの誘いを断る新一の声に『なんだよー』『付き合い悪いぞ』というクラスメートの声が被る。更に『蘭も何か言ってやりなよ』という聞き覚えのある声に『新一の復帰祝いも兼ねてくれてるって。ね、行こうよ』という遠慮がちな声が重なり、哀は思わず身を固くした。
 「……工藤君、私、今日職員室に呼ばれてて遅くなるから。博士にそう伝えておいてくれる?」
 哀はそれだけ言うと新一の返事も待たずに携帯を切った。
 組織が崩壊し、解毒剤で彼が『工藤新一』を取り戻した時、これまでのような関係ではいられないと決心したはずだった。それなのに当然のように新一を頼ろうとし、またそれを受け入れてくれるだろうと甘えていた自分に今更ながら気付かされる。心のどこかで側にいれば変わらない関係を続けられると期待していたのだろうか……?
 (何て勝手な事……)
 哀は冷たい雨が降る中、阿笠邸への道を走った。 
 
 
 遠くに光る雷鳴に小さく身体を震わせる哀を新一は黙って隣へ引き寄せた。
 「さっきの電話、傘が無いから迎えに来てくれって要求だったんだろ?」
 少しだけ落ち着きを取り戻した新一の声に哀は何も答えなかった。
 「どーせ電話越しにオレが打ち上げの誘いを断るのを聞いてくっだらねー気を使ったんだろうけど……」
 「あら、打ち上げって何の事かしら?」
 「だったら何の電話だったんだよ?」
 射すくめるように問いかけられ、哀は再び口を閉ざしてしまう。その意固地な様子に新一は「確かに打ち上げに誘われたけどよ、駅前のカラオケボックスっていうから断ったんだ」と拗ねたように呟いた。
 「カラオケボックス……?でも……あなたの復帰祝だって……」
 「大人数で安く済ませられるからってさ。バカにされるのが分かってて誰が行くかっつーの」
 忌々しそうに呟く姿に哀が思わずプッと吹き出す。その様子に目を細めると新一は「あのな、灰原」と続けた。
 「オレはオレなりにちゃんと元の生活を楽しんでる。けどよ、オメーとの関係まで変える気はないんだぜ?」 
 「え…?」
 「『コナン』だった時も今もオレにとってオメーの側が一番楽なんだ。せっかく手に入れたかけがえのない場所を何で手放さなきゃいけねーんだよ?」
 「それだけは覚えとけ」そう言ってコナンと同じ笑顔を向ける。
 「ら…楽って……言っとくけどここはあなたの家じゃないんだからね」
 「分かんねえヤツだな。オメーの隣がオレの『居場所』だって言ってんだよ」
 ニヤリと返す新一に哀は耳の裏まで真っ赤に染め、プイッと横を向いた。
 「何が『居場所』よ。ガキが生意気なんじゃない?」


 気が付けばいつの間にか阿笠邸の大きな窓の向こうに鮮やかな虹がかかっていた。



 あとがき



 サイト8周年記念企画フリリク、「映画『沈黙の15分』の名台詞、『ガキが生意気なんじゃない』を新哀で」
 私の中では外見上の年齢差から新哀の場合だけは新一の方に少し余裕があるイメージ……というか見た目年下な分、哀ちゃんの方が年齢差を強く意識するだろうなと思います。そんな訳でこの台詞で哀ちゃんの余裕の無さを表してみたかったのですが、上手く伝わっているかどうか……
 リクエストにお応えできているか分かりませんが、私としては珍しい傾向の話になったと思います。リクエストありがとうございました。