「荷物、これで全部か?」
 本や資料の詰まったトランクの蓋を閉めながら問いかける新一に志保は小さく頷いた。
 「ええ、後はこれだけ」
 机に置いてあった写真立てを手に取ると、表面のガラスをそっと撫でる。振り返って見渡すと、わずかな家具だけが残った部屋は思っていたよりもずっと広かったことに気付いた。そう感じるのは以前は本やパソコン、研究資料に埋もれている状態だったのが単に物が無くなったからなのか、それとも今日でこの部屋を出て行くという感慨のせいなのか。
 もちろん後者であることは志保にも良く分かっていたが、それが少しくすぐったくもある。
 この部屋に初めて入った時、まさかこんな気持ちでここを出ることになるなんて思いもしなかったのだから――



   思い出を詰め込んで



 手の中の写真立てには眼鏡の少年に手を握られ、少し照れ臭そうな、困ったような顔をした幼い姿の自分が写っている。眼鏡を外し、この写真とは身体の大きさも目線も随分変わってしまった彼だが、こうして変わらず隣に居てくれることに笑みがこぼれた。
 「ま、引越しっつっても隣なんだから足りない物は何時でも取りに来れるしな」
 部屋の入口に積まれた荷物の小さな山の上に先ほどのトランクを置いて振り返った新一の言葉にこれから彼と共に暮らすということを改めて意識して顔が赤くなり、頷く振りをして視線を逸らす。おそらくこの写真のように照れたような、困ったような表情をしているのだろう。いつまでたっても新一との新しい関係に慣れない自分にいい加減呆れてしまう。
 そんな志保の内心などお見通しなのだろう、新一はゆっくりと志保に近付くと後ろから抱きしめた。心の奥の想いを理解してくれる優しさが新一の体温と共に伝わって来て、胸の高さにある彼の腕にそっと触れる。 
 「その写真、まだ飾ってたんだ」
 「だって江戸川君と最後に撮った写真だもの」
 「ズルイ」……心の中で呟いて耳元で囁く声に首をすくめる。こんなに甘い声で悪戯っぽく聞かれたら虚勢を張ることもできないではないか。
 「何かそんな優しい声で言われるとコナンに嫉妬しそう」
 口をとがらかして拗ねたように言う新一に志保はたまらず吹き出した。  
 「……んなに笑うことねーだろ」
 新一の抗議の声に小さく謝りながら目尻の涙を拭い、視線を手元の『江戸川コナン』の写真に落とす。
 「この写真を撮ってから随分経つのね。本当に色々なことがあったけど……こうしてずっと貴方の隣に居られるなんてやっぱり夢みたいだわ」
 新一の腕からスルリと抜け出すと、部屋の入り口に積まれたトランクに手を置き、再び部屋を見渡す。
 「身体一つで組織から逃げ出して来たのに……いつの間にかこんなに沢山の物を手に入れていたのね」
 最初は哀として、解毒剤を飲んでからは志保として。この阿笠邸で過ごした数年より遥かに長かった暗闇の中の生活では得られなかったであろう時間を愛おしむように志保は荷物をそっと撫でた。
 新一に言わせれば同年代の女性よりずっと少ないらしいが、それでもここに詰まった物は志保にとって大切な宝物だ。一つ一つに新一や博士、少年探偵団の子供達との思い出が詰まっている。
 組織にいた時から物が増える事を好まなかったこともあり、哀として阿笠邸で暮らし始めてからも服や学用品は必要最低限に抑え、あまり私物を増やさないようにしていた。しかし、哀を娘のように可愛がる阿笠がそれを許すはずも無く、次々と服や小物を買ってくれた。次第に増える物に戸惑い、遠慮する哀に阿笠は「自慢の娘を着飾らせたいという親馬鹿に付き合ってくれんかの?」と照れたように笑った。それからはクローゼットに新しい服が増える度に阿笠の優しさを感じるようになった。阿笠の選ぶ服は可愛らしすぎて着るのに抵抗がある物も多かったが……
 その後、少年探偵団の一員として彼らと共にそれまで体験しなかったようなことを経験するようになった。キャンプや映画、サーカスなど組織で育てられた最初の子供時代には想像もできなかった感動がそこにはあった。そんな思い出とともに記念の品も少しづつ増えていった。ホワイトライオンのストラップや河原で拾った綺麗な石、それらがパソコンの横を占めるようになり、やがて困難な研究の支えにもなってくれた。
 そして解毒剤を飲み、宮野志保として生きることになってからは常に新一が新しい世界を見せてくれた。薬の研究に没頭するばかりで雑誌の中でしか知らなかった普通の女性の生活を楽しむことができたのは新一のエスコートのおかげだ。組織と戦う相棒としてではなく、恋人という新しい関係に戸惑う志保を急かすことなく、ゆっくりと愛情を注いでくれた。そんな二人で過ごす時間が志保の部屋に更に思い出を残していった。
 これらの荷物は志保にとって幸せの象徴で、そしてこれほどの幸せな思い出を積み重ねることができたことに感謝していた。何も持たずに雨の中、この家に転がり込んでから始まった幸せの軌跡の全てがこの中にある。この幸せの結晶を新一とともに運び出せるということが本当に嬉しくて、志保は新一の手を両手で包みこんだ。
 「こんなに沢山幸せに囲まれていたのに貴方のところへもっと幸せになりに行くなんて……私って本当に欲張りね」
 俯き加減で、しかし嬉しそうに呟く志保に新一は不敵に笑うと返事もせずにいきなり口付けた。
 「バーロー、次に引っ越す時はダンボールに埋もれてどうしようもないくらいの思い出を作ってやるから覚悟しとけ」
 抱きしめられた耳元で再び囁く新一に真っ赤になった志保が背中に回した手に力を込める。
 「ありがとう」
 志保は新一の胸に顔を押し当て、誰にともなく小さく呟いた。



あとがき



この「過去との決別」と「思い出を詰め込んで」はサイト移転記念として『引越し』をテーマに書きました。
一度同じテーマを違うCPで書いてみたかったので「過去との決別」は新哀、「思い出を詰め込んで」は新志になっています。しかも私にとっては初新志なので、この際書いたことがないくらい甘い話を!と意気込んでみたものの、無理をしているのがみえみえになってしまいました(苦笑)
それから冒頭の部分は意識して同じようにして何となく繋がっているような感じを目指してみました。といってもはっきりと「過去との決別」の続編が「思い出を詰め込んで」という訳でもありません。もしかしたら続いているのかもしれない、というような雰囲気を感じていただければ、と思ったのですがいかがでしょう?