「……今回もダメだったみたいね」
 パソコンモニターに点滅する赤い文字が薄暗い地下室をぼんやりと照らし出す。もう何度も目にした実験失敗を意味するその光を哀は拒絶するかのように瞳を閉じた。
 ここ数ヶ月、APTX4869の解毒剤開発は完全に行き詰っていた。元に戻った状態で細胞を固定する事ができない。最終段階にして最大の問題点が大きな壁となって彼女の前に立ちはだかっていた。
 何も考えたくないと言いたげに頭を横に振ると哀はパソコンの電源を落とした。デスクの引き出しを開けると反動で赤と白のカプセルが詰まった薬びんが手前に転がって来る。ガラスに薄っすらと映る自分の歪んだ姿に自嘲が漏れた。
 「こんなもの……所詮仮初めでしかないのよね」
 解毒剤開発の試作を重ねた結果、一時的に元の身体に戻す事に関しては既に完璧にコントロールできるのは何とも皮肉な話だった。時間が経てば消えてしまう本来の姿など仮初めに過ぎない。それはまるで――
「……この身体と同じね」
 引き出しを閉め、鍵をかけると哀は地下室を後にした。



Pride



 ひんやりとした地下室とは対照的に阿笠邸のリビングはどんよりとした空気に覆われていた。空調が入っていない事から察するに阿笠は出かけており、どうやら今、この家にいるのは自分一人のようだ。梅雨の終わり特有の全身に纏わり付くような蒸し暑さが徒労感をますます増幅させる。
 哀は苛立ちを抑え切れないようにエアコンのスイッチを入れると小さな身体には不釣り合いなソファに身を預けた。気分を変えようとテレビの電源を入れると旅番組が放映されている。
 「今日はウインブルドンを間近に控えたロンドンの街をリポートします」
 テレビから流れて来る女性タレントの声に哀は数週間前のコナンとの会話を思い出した。


 「もしかして工藤君……ロンドンに行った事ないの?」
 『読書の時間』となったその日のホームルームで子供達が本を楽しむ中、哀が手にした子供向けのロンドン観光案内の本に「いつか行ってみてーんだよな……」と呟いたのは他ならぬコナンだった。もうとっくに行った事がある場所だと思っていただけに哀は驚きを隠せない。
 「シャーロキアンの貴方がホームズの聖地であるロンドンに行った事がないなんて意外だわ」
 「オメーもそう思うだろ?」
 「貴方のお父さんも貴方に負けず劣らずのシャーロキアンなんでしょ?真っ先に連れて行くと思うのが普通じゃない?」
 「だよな。父さんと母さんはオレがまだ赤ん坊だった頃から世界中色んな所へ連れて行ってくれたけど……どういう訳かイギリスには連れて行ってくれなくてさ」
 「何か訳でもあるのかしら?」 
 「んな事知らねーよ。けど今年の夏休みこそ連れて行ってもらうつもりだった……」
 その台詞を言った瞬間、コナンは「しまった」と言いたげな表情を浮かべると、戸棚に並んだ本から適当に一冊手に取り、さっさと自席へ戻って行ってしまった。 


 「今年の夏休みこそ連れて行ってもらうつもりだった」――記憶にあるコナンの言葉が蘇る。
 「こんな子供の身体じゃなかったら……」
 言外の意味を敢えて呟いてみる。工藤新一が本来過ごしていたはずの時間を考えると、自分が開発したAPTX4869が彼から奪ったものがどれほど大きいか痛感せずにはいられなかった。
 解毒剤の試作品の精度が上がれば上がるほどコナンは試作品を要求して来るようになっていた。コナンにしてみれば奪われたものを少しでも取り戻そうとしているだけで他意はないだろう。しかし、試作品はあくまで試作品であり、必要以上に投与する事は化学者として認められるはずがなかった。その一方、解毒剤開発が滞る今、その要求を以前のように簡単に撥ねつける事もできず、些細な一言に対してさえ動揺してしまう自分がいた。
 (だから許してしまった。でも……)
 昨日、偶然知り合った婦人がイギリスに招待してくれたと子供のように喜び、すっ飛んで報告に来たコナンを見かね、化学者としての矜持を曲げてまで試作品を渡す約束をしてしまった。それは果たして正しい選択だったのだろうか……そんな自問を昨夜から繰り返すものの、答えは出ないままだった。
 「早く完璧な解毒剤を完成させないと……」
 再び地下室に降りるべく哀がノロノロと身体を起こしたその時、阿笠邸の電話が鳴り響いた。
 「はい、阿笠で……」
 「もしもし……その声は哀ちゃんね?さて、問題です。私は誰でしょう♪」
 思いがけない明るい声色で『哀ちゃん』と呼ばれ、さすがの哀も一瞬怯んだものの、こんなハイテンションでこの家へ電話をかけて来る人間は彼女の知る限り一人しかいない。
 「工藤君のお母さん……ですね?」
 「ピンポ〜ン♪久し振りね、元気にしてる?」
 「お陰様で……」
 「良かった♪哀ちゃんに何かあったら博士がますますメタボになっちゃうものねvところで……新ちゃん知らない?あの親不孝息子、昨日からいくら電話しても出ないのよ」
 「工藤君なら今日は毛利さん達と出かけているはずです。大方また事件にでも巻き込まれているんだと……お急ぎでしたら探偵バッジで呼びかけてみましょうか?」
 「ん〜……急ぎっていうか……あ、そうだ!哀ちゃん、今少し時間ある?」
 「はい、今日は博士も出かけていますから家にいるつもりですし……」
 背後から聞こえる雑然とした音にどうやら外出先からの電話だと察する。外出先から日本まで国際電話をかけて来る程困っているのだろうか……?
 「良かったvそれじゃちょっとお邪魔させてもらうわ♪」
 ガチャッと切られた電話の内容を呆然とした頭の中で復唱する。
 (『ちょっとお邪魔』って……今からロスを出発するって事?まさか……)
 常識ではあり得ない行動に苦笑いを浮かべつつ受話器を戻したその時、リビングに呼び鈴の音が響いた。
 「嘘ッ!?」
 玄関に急ぎ、扉を開けるとそこには新一の両親がにこやかな笑顔で立っていた。


 「どうぞ」
 「ありがとう……うん、これは美味い」
 「本当!このクッキーも最高!哀ちゃんが焼いたの?」
 「はい、この前、吉田さんと一緒に……」
 「いいなあ〜。私も娘と一緒にクッキー焼いたりしたいわ〜」
 呆気に取られながらもとりあえずリビングに招き入れた二人に珈琲と茶菓子を並べると、哀は彼らの横のソファに腰を下ろし、自分のカップに口を付けた。珈琲の香ばしい香りにようやく少し落ち着きを取り戻す。
 「それで……今日は一体……?」
 「久し振りに帰国したはいいが、自宅は新一が勝手に他人に貸してしまったようで入れなくてね。君には申し訳ないが、夕方までここに居させてくれないだろうか?」
 その言葉に哀は沖矢昴という得体のしれない男が住む隣家を一瞥した。家主である優作が沖矢の正体を知らないはずはないだろうに……と、問いかけるような視線を送るものの、眼鏡の奥の穏やかな瞳にスルリと受け流されてしまう。
 「……分かりました。ゆっくり過ごして下さい」
 肩を竦めてそう言う哀に工藤夫婦は嬉しそうに礼を述べた。


 「実は今、ロンドンの友人が日本に来ていてね、今回はその彼女に会うために帰国したんだよ」
 「その人、すっごいミステリーファンなのよ。せっかくだからこの機会に新ちゃんにも紹介しようと思ったんだけど……」
 工藤夫婦の説明によると、その友人はイギリスでもかなりの影響力を持つ人物であり、優作も若い頃に何度か世話になった事があるらしい。
 「詳しくは言えないんだけど……政府や情報機関にも顔の効く人でね、あの組織の事も色々と調べてもらったりしてるのよ」
 諜報に精通するその人物はイギリスではご多分に漏れずそれなりの爵位を持つ身であり、本国では気楽に会う事ができない友人を旅先に招待しては楽しんでいるらしい。
 「彼女……ダイアナは大の江戸川乱歩ファンでね、今回は乱歩ゆかりの地をエスコートして来たんだ」
 そういえばさっき優作に渡された手土産の赤福餅は乱歩の出身地、三重県の銘菓として知られる逸品だったと思い出す。
 「ダイアナは無類の猫好きでね、今回の旅行にも連れて来たんだけど……その猫が悪戯っ子で始終居なくなって大変だったのよ〜」
 「そういえば昨日、また猫が脱走したそうじゃないか。保護してくれた親子連れをロンドンに招待したってメールが来ていたな」
 二人の話に黙って耳を傾けていた哀の脳裏にふと昨日、コナンが息せき切って話した女性の事が浮かんだ。
 「あの……そのダイアナさんってもしかして……」
 コナンから聞いた女性の特徴を話すとどうやら彼らを招待したのは工藤夫婦の友人、ダイアナのようだ。哀の口から語られたコナン達がロンドンへ行く事になった顛末に「や〜っぱりダイアナが誘った相手は新ちゃん達だったのね!」と有希子が眉間に皺を寄せる。
 「『江戸川コナン』のパスポートを作る事などできないからまさかとは思っていたが……解毒剤の試作品を飲んでまでイギリス行きに固執するとは本当に莫迦な奴だな」
 「あの……一つ伺ってもよろしいでしょうか?」
 「何だい?」
 「どうして工藤君をイギリスに連れて行かなかったんでしょうか?」
 「それはね、新ちゃんがホームズやイギリスが大好きだからよ」
哀の疑問にフッと苦笑する優作に代わって答えたのは有希子だった。
 「え…?」
 思いがけない回答に目を瞬かせる哀に優作が補足してくれる。
 「私達は幼い頃から新一を世界中色々な所に連れて行った。しかし、あの子がホームズの話を嬉しそうにするようになったのを見てイギリスだけは連れて行かないと決めたんだ。本当に行きたい所は自分の力で行くべきだからね」
 「でも……工藤くんは『今年の夏休みこそ連れて行ってもらうつもりだった』って……」
 「ああ、毎年夏休み前に『今年こそロンドンへ連れてけ!』って言って来るのよ、あの子」
 「誰かに連れて行ってもらったのでは何一つ手に入らない。そんな事にも気付かないなんて……我が息子ながらいつまで経っても子供だな」
 「毎年『ロンドンはダメ』って言ってるんだからそろそろ察してもいいのにね〜」
 呆れたような有希子の声に優作が肩をすくめる。
 「あれだけイギリスへ行きたがっていた新一だ。降って沸いた話に飛び付きたくなる気持ちも理解できなくはない。しかし、現在自分が置かれている状況を考えれば外国へなど行っている場合ではないはずなんだが……しかも解毒剤を使ってまで強行するとは呆れて物が言えないよ」
 「ダイアナに旅費を工面してもらい、哀ちゃんに解毒剤を提供してもらい……本当、新ちゃん、自分じゃ何もしてないものね」
 「『初めてのロンドンは蘭君との新婚旅行になるのかな?』などと下らない想像をしていた私達を見事に裏切ってくれたもんだ」
 「あら、私はそんな想像全くしてなかったわよ?だってあの新ちゃんが新婚旅行の行き先をロンドンにしてごらんなさいよ、すっかり舞い上がっちゃって蘭ちゃんの存在なんか吹っ飛んじゃうんじゃないかしら?」
 容赦ない工藤夫婦の言葉に哀は昨日のコナンの浮かれ具合を思い出した。確かに彼の中には想い人である毛利蘭とロンドンへ旅行するという意識は全くなかった。もっとも、だからこそ哀も試作品を渡す事ができたのだろうが……
 自分の中にある醜い感情に哀はフッと苦笑すると、冷めかけた珈琲と一緒にそれを流し込んだ。

 
 すっかり冷めてしまった珈琲に替え、工藤夫婦が持参した赤福餅とともに緑茶を頂く事にする。柔らかなこしあんと新茶の香りが心地いい。
 「恥を忍んで君に一つ頼みがあるんだが……」
 哀がホッと息を付くのを見届けたのだろう、優作が静かに切り出した。
 「何でしょうか?」
 「すまないがもう一錠だけ解毒剤を私達に預けてもらえないだろうか?」
 哀は黙って頷くとポケットから小さなピルケースを取り出し、テーブルに置いた。解毒剤を手に入れたコナンが二錠とも早々に服用してしまう事は哀とて十分に予測している。
 「私の方こそお願いしたいと思っていました。これを持ってイギリスに行って頂けませんか?実は……彼に二錠しか渡さなかった事がずっと気になっていたんです。化学者の端くれとしていくら身体に影響が残らない試作品であっても無闇に投与する事は出来ません。でも……」
 「でも…?」
 「もし……工藤君が何らかのハプニングで二錠とも飲んでしまったら帰国できなくなってしまいます。お願いします、念のためこの予備を持って彼の後を追って頂けませんか?」
 「分かった。確かに引き受けたよ」
 優作は静かに頷くとピルケースを受け取り、ポケットに入れると頭を下げた。隣の有希子もそれに倣う様子に哀は「止めて下さい」と慌てて押し止める。
 我ながら滑稽だとは思うが、優作から試作品を預けてくれと言われた時、あくまでも自分から頼む形にしたのは哀にとって最後の意地だった。化学者として試作品の過剰な投与を避けたいという思いがあるのは本当だが、外国で解毒剤が無くなる事を想定しつつ、一切予備を渡さなかったのは自分の中にある黒い感情から起因している事に気付いてもいた。APTX4869が新一と蘭の時間を奪った事は嫌というほど分かってはいたが、ロンドンの街を歩く二人の姿を想像するとどうしても予備の薬を渡す気にはなれなかった。その一方、コナンが試作品を嬉しそうに持って帰ってから時間が経つに従い、自分のエゴで彼を追い詰めるかもしれないという罪悪感は募るばかりだった。
 その点、新一の両親に『もしものため』と言われれば哀も納得して試作品を託す事ができる。例え欺瞞であっても罪悪感から救われたのはむしろ自分の方だ。そんな哀の感情を全て承知した上で快く引き受けてくれた二人にこれ以上頭を下げさせる訳にはいかなかった。

 
 そろそろ辞去するという優作と有希子を玄関まで見送る。
 靴を履き、玄関のドアノブに手をかけた有希子がふと思い出したように振り返った。
 「あ、そうだ……ねえ、哀ちゃん」
 「はい?」
 「17歳にもなる息子をサポートするためにロンドンまで出向くなんて……親バカだなって思うでしょ?」
 「そんな事……」
 悪戯っぽい言葉を曖昧に笑って誤魔化す哀に有希子は真顔になると彼女の視線の高さに合わせるように膝を折った。
 「本当、甘いわよね。でも……」
 「……?」
 「私達は哀ちゃんに何かあった時もどこへだって駆け付けるからねv」
 「忘れないで♪」――鮮やかなウインクを残すと有希子は軽やかに玄関を出て行った。

 
 その約束が豪華列車の中で果たされる事になるのは少し後のお話。



 あとがき



 サイト8周年記念リク、「コナンの帰国用の解毒剤を灰原さんが有紀子さんに渡すあたりの幕間劇というべき『本来』重要なシーン」から書かせて頂きました。アニメでちょうどロンドン編が放送されていた事からリクを頂いたと思うのですが、リク主様には随分長い間お待たせしてしまい申し訳ありませんでした。
ロンドン編の裏話という事もあり、コナンも新一も出ない上、話の中で散々な言われようですが、ロンドン編の内容からそこはご容赦いただければと思います。原作補完好きとして一度は書いてみたい話でもありましたし、工藤夫婦好きな私としては楽しく書かせて頂きました。
 リク主様にはあらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。