Remedy〜理科室の彼女〜



「いいかー、ガスバーナーを使用する時はガス漏れにはくれぐれも注意しろよー」
緊張感のない間延びした声に振り返ると、ヨレヨレの白衣を来た初老の教諭が理科室の中を歩き回っていた。そういえば以前、ここで似たような実験をした時も彼は同じ台詞を繰り返しながら実験机の周りを回っていたような気がする。記憶にある風景と違うのは彼が随分老け込んだ事くらいか……と、そこまで考えてようやくコナンは彼が老いたのではなく、自分が若返ったのだと思い返した。


最近、APTX4869によって時を巻き戻された事を意識の外においている時がある。自分が本当は『工藤新一』だという事実を忘れる事は勿論ないが、それほど『工藤新一』が『江戸川コナン』という存在に馴染んだというという事だろうか……?


何気なく自分と同様に十年という時を逆行し、『灰原哀』という新たな名前で今を生きる少女に視線を向けると、彼女は歩美、元太、光彦に実験の手順を説明しているところだった。
現在、帝丹中学の理科室で行われている実験は炭酸水素ナトリウムの熱分解。簡単に言ってしまえば生活に役立つ薬品として知られる重曹=炭酸水素ナトリウムをガスバーナーで加熱し、炭酸ナトリウムと水と二酸化炭素に分解する実験である。
初めて扱う本格的な実験器具に危なっかしいながらも楽しそうな三人を哀は根気よくサポートしている。あの様子なら実験は無事成功するだろうとコナンは理科室の座り心地の悪い丸椅子に腰を下ろし、頬杖をついた。
「うわぁ、凄いね!哀ちゃん」
試験管の中に入った炭酸水素ナトリウムの粉末を加熱していくと、石灰水に浸けられた気体採取用のガラス管からコポコポと泡が出始めた。気体が次第に石灰水を白濁させていく様子に歩美の目がみるみる輝いていく。
「炭酸水素ナトリウムはベーキングパウダーなどにも使われているのよ。熱を加えると二酸化炭素を出す性質のおかげでケーキがふっくら焼けるの」
「そっかあ、スポンジケーキの空洞はこうやって気体が出ていった跡なんだね」
「僕達の身近にある物がこんなふうに変化しているなんて感動です」
「何だよ、だったらケーキ焼く実験にすればいいじゃんか!」
「そんな実験だったら元太君の目にはケーキしか映らないんじゃないですか?」
「あなた達、実験はまだ途中よ」
哀の言葉に三人は慌てて真剣な表情に戻る。水を判定する試薬、塩化コバルト紙は空気中の水分でも簡単に色が変わってしまうのでスピード勝負だ。哀の注意に試薬紙を入れた瓶を持つ光彦の顔が少々引きつっている。
(それにしても……)
コナンは気が付けば自分の視線が哀を追っている事に少々焦りを覚えた。阿笠邸での実験中は常に白衣の彼女がセーラー服で試験管を握っている様は何だか随分新鮮で、嫌でも目が行ってしまう。
(セーラー服って……オヤジか?オレは……)
身体は中学生とは言え、実年齢24歳の男がセーラー服に反応してたらマズイだろ……と、四人の実験の様子に無理やり意識を向ける。今度は歩美と元太が試験管に残された白い粉を溶かした液体にPH指示薬であるフェノールフタレイン溶液を入れているところだった。
フェノールフタレイン溶液の反応は先ほど実験前に炭酸水素ナトリウムの水溶液に入れた時より濃い赤紫。という事は無事に炭酸ナトリウムができたのだろう。その証拠に歩美が色の変わった試験管を哀に嬉しそうに見せている。そんな親友の笑顔に哀も何だか嬉しそうだ。
(何だよ、可愛いじゃねーか……)
普段と違う哀の様子にニヤけそうになるのを堪え、そういえば炭酸ナトリウムを使ったトリックがあったな……と、強引に大好物の推理小説に思考を曲げる。 
「なあ灰原、この炭何とかナトリウム……」
「炭酸ナトリウムですよ、元太君」
光彦の突っ込みに元太は顔を赤らめると「そのナトリウムは何か食い物には入ってねーのか?」と興味津々な様子で尋ねて来た。
「入ってるわよ。ラーメンの麺にコシをつけたりコンニャクの灰汁抜きとかね」
「そういえばコンニャクってお芋から作るんだよね?」
「そうよ。乾燥させたコンニャクイモの粉末を溶かして作るの」
「あークソッ!コンニャクとかラーメンとかケーキとか……食い物の話をしてたら腹減って来たぜ!」
「……元太君はやっぱりそういうオチなんですね」
推理と食べ物……違いはあれど自分が元太と似た思考回路であるという事実にコナンは少なからず凹んだ。


「何だか随分熱心にこちらの実験の様子をご覧になっていたようだけど。どうせ推理小説に使われる薬品の事とか考えていたんでしょう?」
「うっせーな……」
実験を終え、結果をまとめるためにノートを開く哀の横でコナンは不機嫌そうにペンを取った。ここで素直に「可愛らしいオメーを見てた」なんて言えるのはあの気障なコソ泥くらいだ……と心の中で一人ごちる。
「二酸化炭素も石灰も推理トリックの常連ですもんね」
「犯罪捜査にはカスル=マイヤー・テストも必須だぜ?」
「フェノールフタレイン溶液で血液を検出するっていうアレね」
「ああ、フェノールフタレイン溶液はわずかな血液でもピンクに変色するからな」
哀が話に乗ってきた事が嬉しくて「血液検査といえばやっぱルミノール……」と続けようとすると、
「推理の話になると急に機嫌が良くなるんだから……」
「子供みたい」そう言ってクスクス笑う哀にコナンは複雑な表情でそっぽを向いた。推理やトリックの話ができるのは勿論楽しいが、哀が興味を持って話に乗って来てくれた事が何より嬉しいのだとはさすがにプライドが邪魔して言えない。誤魔化すように黙ってペンを走らせていると隣から静かな声が聞こえた。
「ねえ……前もそんな事ばかり考えてたの?」 
哀が少し言い淀む時の『前』とは工藤新一としての体験を指している。その意味を正確に理解するのがコナンだけだと分かっているからこそ安心して口にできるのだろう。
「いや、ちゃんと集中してたぜ。薬品が怖いって言うから理科の実験はほとんどオレがやってたからな」
『誰が』という主語はなくても哀が理解している事を前提でコナンも話す。
「薬品って言ってもそんなに危険な物は使わないじゃない」
「オレがいっつも毒殺トリックの話とかしてたから『化学薬品=猛毒』みたいに思い込んじまったんだろーな」
「良かったわ、あの子達は化学に変な思い込みを持たないでくれて」
「それにしても……さすがだな。光彦はともかく、歩美や元太まであそこまで実験に夢中にさせるなんてよ」
「まあ、これでも化学者ですからね」
「その化学者様がこんな初歩的な理科の実験を楽しそうにやってたのにもちょっと驚いたぜ」
先ほどから気になっていた事をコナンは思い切って口にした。基本的に真面目な哀が授業をサボる事はないが、化学者として『一流』や『天才』という言葉を欲しいままにして来た彼女がこんな中学生の化学実験を退屈な様子も見せず、積極的に参加している事が不思議で仕方なかったのである。
「オメーにとって炭酸水素ナトリウムの熱分解実験なんて面白くもなんともねーだろ?」
何と言っても彼女はAPTX4869という奇跡の薬を作り上げた天才化学者なのだから。そんな言外の意味を察したのか、哀は困ったように微笑んだ。
「楽しかったの」
「へ…?」
「確かに炭酸水素ナトリウムを加熱したら分解するなんて今更確認するまでもないし、実験自体は単純で面白味なんて全くないんだけど……実験している時のあの子達を見ていると……その……上手く言えないんだけど『実験って面白いものなんだ』って……そう思って……」
「……そっか」
頬を赤らめ、自分の視線から逃れるように俯く哀の様子があまりに可愛くてコナンはそのまま抱きしめたい衝動に駆られるのを必死に耐えた。哀はそんなコナンの様子に気付いていないのか、少し息をついて話を続ける。
「私は早くから研究室に入ったし、実験なんて日常だったから楽しいとか楽しくないとか考えた事なかったの」
14歳の頃にはすでにシェリーと呼ばれ、APTX4869の開発を任されていた。誰よりも大切な家族の命と引き換えに成果だけを求められる研究。気が遠くなるほど実験を繰り返し、すがるような思いでデータを見る日々の中では実験は単なる手段に過ぎず、より早くより正確な結果を得る事ばかりを考え、それ自体が楽しいなんて思った事もなかった。
それが『灰原哀』となり新しい生活を手に入れてみると全く違う世界がそこにはあった。
「化学は楽しくて役に立つものなのよね。だったら組織にいた頃に私が得た知識も無駄なものじゃなくて誰かの役に立つのかもしれない……そうしたら私の過去も無駄じゃなかったのかなって……そう思えるようになったの」
少し照れたように笑う哀にコナンも「せっかく人生やり直してんだからさ、前とは違う事をいっぱいやればいいと思うぜ?」と優しい笑みを返す。
「今が楽しいって思えるのはずっと頑張って来た過去があるからなんだ。オレは過去のオメーも今のオメーも全部ひっくるめた灰原哀と一緒に居たいと思ってるんだぜ?」
「江戸川君……」
「解毒剤を飲まねーって決めた時に言ったろ?」


――工藤新一の過去も未来も全部まとめてオレは江戸川コナンとして灰原哀の隣で生きる。だから宮野志保の過去も未来も全部まとめて灰原哀としてオレの側にいろ――


完成した解毒剤をそう言って目の前で捨て、泣きじゃくる自分を抱きしめて言ってくれた言葉は今でも哀の耳元に残っている。
重ねられた手の暖かさに哀は頭を下げたまま小さく頷くとその温もりをそっと握り返した。



あとがき



「オフ参加時はサイトとは別設定にしよう」という事で、初めて「中学生コ哀」を書いたのがこの作品でした。当時サイトではコ哀に関しては原作補完的な物が多かったので、成長した二人がどうなるのか、設定から妄想し、考えるのはなかなか楽しかったです。
そんな「中学生コ哀」、せっかく人生をやり直している最中という事もあって「中学生日記」が裏テーマでした。思いっ切り中学生らしく青春真っ只中な感じを書きたかったのでプロット段階から「中学生」に拘りました(ただ何せ現役だったのはもう随分前だけに現実感は薄いかも……苦笑)
そしてせっかくのアンソロ、そしてサイトとは別設定という事で、糖度の高い仕上がりを目指しました。「今までになくコナンが美味しい思いをしている気がします」というキャッチフレーズにしようと思っていたのですが……現実はコナン君に少々厳しい結果となってしまいました。