カタカタと規則正しくキーボードを叩いていた指が再び止まる。傍に置かれた携帯電話に視線を投げるが、相変わらず着信を告げるサインは何一つなかった。雑念を振り払うように頭を振り、ディスプレイに向き直るが意識はどうしてもそちらへ向かってしまう。
 「工藤君……」
 力なく呟いた声は自分でも驚くほど震えていた。


 
Self Control     ――工藤新一の殺人 side 哀――


 阿笠邸の地下室では、小さな身体に不釣合いな白衣を着た少女が今日も一人、真剣な表情でパソコンに向かっていた。今は『灰原哀』と名乗る彼女の正体は黒ずくめの組織で若くして『シェリー』というコードネームを与えられた天才化学者である。そして今、かつて組織でも有数と謳われたその頭脳は高校生探偵、工藤新一を小学生の姿に変えてしまったAPTX4869の解毒剤開発に向けられていた。
 しかし、その研究は開発者である哀の力をもってもはかどっているとは決して言えなかった。なにせ開発中の試薬、しかも想定外の副作用に対する薬の研究である。自分がもし第三者だったら不可能の一言で切り捨てていたに違いない。
 そんな果てしなく先が見えない研究を投げ出す事なく続けていられるのは、彼女の罪の象徴とも言える『江戸川コナン』を元の身体に戻す事が哀にとってもはや責任や義務といった言葉で片付けられるものではなく、生きる理由そのものになっているからに他ならなかった。
 試作品を作っては自らの身体で実験を繰り返す日々。自分自身を実験台にする事には何の迷いもなかったが、コナン本人への投与はどうしても逡巡してしまう。被験者は自分とコナンに限られる上、コナン本人の臨床結果から採取しなければならないデータも存在する以上、出来あがった試薬が絶対に安全という保証はどこにもないのだ。一日も早くコナンに元の身体を取り戻させてやりたいという思いと危険が潜む薬をむやみに投与する事など許されないという化学者としての判断が哀の中で交錯した。
 そんなある日、副作用発現の可能性が限りなくゼロに近い試薬が完成した。実験は確実に自分の目が届く範囲で、かつどんな事態にも対処できるよう万全の準備を整えるという条件の下、ようやく哀はコナンへの試作品投与を決意したのである。


 夕飯の買い物を済ませ、帰宅した彼女を待っていたのは思わぬ落とし穴だった。あろう事か阿笠が完成した試作品を風邪薬と間違えてコナンに渡してしまったというのだ。解毒剤と知ったら躊躇なく飲んでしまうに違いない無鉄砲な名探偵の行動を警戒し、わざと市販の風邪薬の瓶に入れていた事が裏目に出た。
 今回作った試作品は元の身体に戻る際の苦痛緩和に重点を置いた物で、作用時間は短いが副作用が起こる確率は極めて低い。しかしそれは『江戸川コナン=工藤新一』という事実を周囲の人間に悟られる危険性が高まる事を意味する。コナンが都心から離れた山里へ出掛けてしまったと知った時、哀は我知らず声を荒げていた。
 「急いで彼に電話して…!」


 そして――


 大阪の高校生探偵からコナンが記憶を無くした状態で工藤新一に戻ってしまったという連絡が入ったのは数時間前の事だった。一刻も早くここへ連れ戻し、処置しなければという哀の想いを嘲るかのように、あの探偵達はこんな時まで事件に巻き込まれ村を離れられないという。
 仕方なく哀は地下の研究室に籠り、これまでの実験結果や研究資料から考えうる原因を調査し、対応策を考え始めた。定期的に状況を連絡して来る服部平次に指示を与えつつ、膨大なデータと格闘を繰り返す。果たしてもう何度目になるだろう?着信のない携帯電話に視線を投げる哀の掌は氷のように冷たかった。
 (バカね、あなたがそんなに焦ってどうなるっていうの…?)
 暗い部屋でパソコンの画面に映る自分を叱咤するように「しっかりしなさい!」と心の中で呟くと哀は再び手を動かし始めた。
 (解毒剤の効力は約24時間……明日の昼過ぎには工藤君は『江戸川コナン』に戻ってしまう……)
 (記憶を失ったのは解毒剤が原因?それとも何らかのショックが加わったの…?発見時に池に浮いてたって事は頭でも打ったのかしら……?)
 冷静に考えようとすればするほど焦る自分に哀はこれが組織に必要とされた化学者かと自嘲の笑みを浮かべた。


 一人地下に籠りどれほど時間が経過しただろう?
 (もし…このまま彼の記憶が戻らなかったら……)
 そう考えただけで哀の身体が震えた。
 工藤新一からその本来の姿を奪ってしまったのは哀が作った薬APTX4869。そして今度はその解毒剤が彼の記憶を奪おうとしている。偽りの姿で生きる彼に唯一残された存在証明とも言える工藤新一の記憶まで奪ってしまえば本当に『工藤新一』という存在は消えてしまう――死んでしまうのと同じ事だ。
 (私は彼を殺してしまうの……?)
 しかし今はその恐怖に慄く時間はない。自分に生きる道を示してくれた彼を見殺しにする事はできないし、そして何よりこのままでは彼があれほど守ろうとしている黒髪の少女に全てがばれてしまう。それも彼があずかり知らない処で。それだけは絶対に阻止しなければならない。
 不安や恐怖を押し殺して研究を続ける事には慣れているはずなのに緊張のあまり頭が思うように回らない。哀はゆっくりと目を閉じ、深呼吸すると再びデータの海に向かった。
 そこにいるのは一人の化学者。悲しいほどに全ての感情を押し殺した化学者の姿だった。


 都心を出て間もなく立ち寄ったコンビニエンスストア。その駐車場で平次からの電話を受けた哀は全身の力が抜けていくのを感じた。耳元で聞こえているはずの関西弁が果てしなく遠いものに感じられて仕方ない。
 <工藤新一は記憶を失っていない――>
 先ほど平次から聞かされた推理を哀はもう一度頭の中で繰り返した。
 『もしもし?姉ちゃん、聞いてるか?』
 「……ええ、聞いてるわ」
 『今から現場行って確認して来るけど……オレの推理は絶対間違うてないはずや。せやから安心して待ってるんやで?』
 「それより……昼過ぎには工藤君は『江戸川コナン』に戻ってしまうわ。だから……」
 『心配せんでええ。さっさと姉ちゃんの所に連れて行くから』
 「頼んだわよ、西の名探偵さん」
 『ああ。ほな、また連絡する』


 放心のあまり哀は携帯電話を握り締めたまま助手席のシートに深く沈み込んだ。そんな自分を心配そうに見つめる阿笠に気付き、電話の内容を簡単に伝える。満面の笑みで喜ぶ阿笠とは対照的に哀はぎこちない笑みを浮かべる事しかできなかった。
 何はともあれ新一が記憶を失っていない事にホッとした。緊張の糸が切れたのだろう、零れそうになる涙をグッと奥歯を噛み締めて堪える。
 工藤新一を元の身体に戻すまで自分は化学者以外の何者でもない――
 彼の隣で揺らぎそうになる心を抑える度、この言葉を心の中で繰り返して来た。優秀な化学者に必要なのは冷静な分析と客観的な判断。そこに余計な感情はいらない。
 おそらく今から出発すれば彼がコナンの姿に戻る前に目的の村へ到着できるだろう。哀は毅然とした表情になると新一に施す処置と検査の準備をするため、後部座席に置いたバックに手を伸ばした。その小さな肩を大きな掌がそっと支える。
 「よく頑張ったのう、哀君」
 「博士……」
 阿笠の優しさに再び瞳の奥に熱い衝動が込み上がり、哀は静かに目を閉じた。しかし、この温もりに甘えている時間はない。新一に対する責任を果たす事だけが今の自分にできる唯一の事だから。静かに開かれた哀の目は決意の光を宿していた。
 「急ぎましょう、工藤君が小学生に戻ってしまうわ」
 阿笠の手をそっと外し、後部座席に身を乗り出した瞬間、哀はバランスを崩して運転席へ倒れ込んだ。慌てて受け止め、顔を覗き込む阿笠に「ごめんなさい」と小さな声で応える。昨日、新一の異変を聞いてから哀はろくに食事も休憩も取らず、おまけに一睡もしていなかった。更にこの長時間のドライブである。さすがに体力は限界だった。
 「顔色が良くないのう……移動の間だけでも少し眠ったらどうじゃ?」
 「大丈夫、心配いらないわ」
 なおも気丈に起き上がろうとする哀を阿笠は黙って見つめている。
 「工藤君の無事を確認したらきちんと休むから。だからお願い、今は私の好きにさせて」
 頑として言う事を聞かない哀の様子に阿笠は渋々了承すると、シートベルトを締め、ゆっくりと車を発進させた。


 ハンドルを握りながらチラッと隣のシートに視線を送ると、哀はノートパソコンに凄い勢いで何かを入力していた。揺れがひどいこの山道においても全く乱れる事のない集中力に驚嘆しつつ、天才化学者の一端を見たような気がして阿笠は小さな溜息を落とす。
 『灰原哀』として生きる彼女にとってAPTX4869の解毒剤開発が精神的な支えになっている事は阿笠も理解している。しかし、その研究が未だ彼女に化学者であり続ける事を強いている現実に心が痛んだ。組織を脱走し、小学生として生活する日々の中で少しずつ取り戻している感情さえ『研究』の前では切り捨ててしまう潔さが阿笠には歯がゆい。
 そんな事を考えているうちに知らず表情が険しくなっていたのだろう。「博士…?」という声に我に返ると、哀が手を休め、心配そうにこちらを見つめている。
 「どうかしたの?」
 「その……迷子になっとる時間はないからの、道に迷わんよう運転に集中しとるだけじゃよ」
 「そう」とだけ答えると哀は再びパソコンに向かってしまう。どこまでも不器用な彼女の強さと脆さに阿笠の心配は尽きない。
 (哀君には幸せになってもらいたいんじゃがのう……)
 そのためにもまずは少しでも早く新一の無事な姿を見せて安心させてやろう――
 そう決意すると阿笠は再び運転に集中した。



あとがき



 「工藤新一の殺人」灰原サイドです。
 原作を読んだ時にいろいろと疑問点があったので自分なりに補完してみました。コナンは一刻も早く解毒剤を哀ちゃんに作ってもらいたいんでしょうけど、新一であろうとコナンであろうと彼が『探偵』であり続けるように解毒剤の開発を続ける限り哀ちゃんはずっと『化学者』であり続けると思うんです。でも、化学者として薬を開発するという事は根本的に組織にいた時と同じなんですよね。
 彼女の事ですからそんな複雑な感情はおくびにも出さないでしょうけど、コナンにはいつか気付いてもらえたらと思います。