二人の旋律



提無津川の土手に腰を下ろすと、灰原哀はベルベットを思わせる柔らかな草に背中を預け、静かに目を閉じた。川の向こう岸から練習中のアルトサックスの音が聴こえて来る。高校生くらいだろうか、一生懸命吹いている様子は伝わって来るものの、決して流暢とは言いがたい不安定な音色だった。数曲を繰り返し練習している事から推察するに演奏会にでも出演するのだろう。
そんな思いを巡らせていると聴き覚えのある旋律が耳に響いて来た。『アメイジング・グレース』―――その美しいメロディと真摯な歌詞が多くの人を捉えてやまない歌である。そして先日起きた堂本音楽ホール爆破事件の際、解決の鍵となった歌でもある。記憶に蘇るソプラノ歌手、秋葉怜子の姿に目を閉じていた哀の口から小さな歌声が漏れた。大切な人を失ってなお歌う事を捨てなかった怜子の強さに対する憧憬が自ら進んで歌うという普段の彼女なら決してしないであろう行動を取らせたのかもしれない。
少しの間、サックスの音色に合わせメロディを口ずさんでいたが、罪を犯した事への悔恨とそれを赦した神への感謝を綴った歌詞に哀は表情を歪め、口を噤んだ。脳裏に自分の罪の象徴とも言える少年の姿が浮かび出され、唇を噛むと両手で耳を塞ぐ。
そんな彼女の頭上をしなやかで力強い歌声が突き抜けた。透明でありながら存在感を主張する歌声に身体の力が抜けて行く。声を視認する事ができるなら誰もが目を奪われるであろうその声の主はつい先程、哀の脳裏を過った秋葉怜子その人だった。同じメロディでありながら何故か心が癒される不思議な感覚に哀は無意識のうちに耳から手を放すと怜子の方に振り返っていた。
「もっと子供らしく歌いなさいって言ったでしょう?」
哀の視線に気が付いた怜子がシニカルな笑みを浮かべる。どうやら怜子も哀の事を覚えていたらしい。「小学生が一人でこんな所にいるなんて……あんまり感心しないわね」と、肩をすくると土手へ降りて来る。
「ご心配なく。私……」
「『子供じゃない』から?」
台詞を途中で取り上げられ、さすがの哀もペースを崩しそうになるが、「……そこまで覚えてるならわざわざ指摘しなくてもいいんじゃない?」と怜子を睨んだ。
「相変わらず可愛くない子ね」
言葉とは裏腹に怜子はさほど気を悪くした様子でもなく、哀の隣に腰を下ろすと水筒からお茶を注ぎ彼女に勧めて来る。
「喉の薬じゃなかったかしら?」
「ハーブティーよ。あの時調べたんでしょ?」
「子供には苦いかもしれないけどね」と続けられ、一本取られた形の哀はやや憮然としてカップを受け取った。一口含むとカモミールの風味が喉を通り抜けて行く。春とは言えまだ冷たさが残る風にしばらく当っていたせいだろう。温かなお茶が身体を芯から温め、哀は思わず小さく息をついた。そんな哀の様子を満足そうに眺めていた怜子も自分のカップに口をつける。
しばし二人はお茶が入ったカップを手に、土手に咲くタンポポの綿毛が風に運ばれて行く様子を黙って見つめていた。


「あなた、あの歌嫌いでしょ?」
「えっ…?」
思いがけない指摘に哀が視線を向けると怜子は前を向いたまま面白くなさそうに続けた。
「『アメイジング・グレース』よ。さっき途中で歌うの止めたじゃない」
「そんな事……」
「莫迦ね、私はプロの歌手よ。歌に込められた感情くらい読めるわ。『アメイジング・グレース』は黒人奴隷貿易に加担した事への悔恨とその罪を赦した神への感謝の歌。でもあなたの歌は赦される事を拒否してる……とても小学生の歌声とは思えないわ。あなた、本当は何歳なの?」
「何歳って……見ての通りの子供よ」
「身体はね。でも中身は違う」
きっぱり言い切ると怜子は哀に悪戯っぽい笑みを向けた。
「安心なさい。別に正体を追求しようとかそんなつもりは毛頭ないから。ただあなたに興味があってね」
「……だったらあの探偵さんにも興味があるのかしら?」
「確かにあれだけの音痴君が絶対音感を持ってる点は興味深いけど、あの子の歌は光の中で真っ直ぐ、目指すものだけに突き進む、そういう歌声。分かりやすくてあんまり興味の対象にはならないわ」
あまりにあけすけな言葉に哀の警戒が少し緩んだ。
「『アメイジング・グレース』は嫌いじゃないわ。でも……私には相応しくない曲だから。私の身体そのものが罪の証なのに……贖罪すらままならない私は赦されるような人間じゃないのよ……」
哀の言葉に怜子はしばし黙っていたが、ふいに「……あなたの事が気になった理由がやっと分かった。似てるわ、私達」と困ったような笑顔を浮かべた。
「え…?」
「私もそう思ってた時期があったから。私ね、彼が殺されてしばらくは『アメイジング・グレース』が歌えなかったの」
怜子の婚約者だったフルート奏者、相馬光が事故に見せかけて殺された事は哀も知っている。しかし、怜子は婚約者を殺した犯人達への憎しみを断ち切ったと聞いていたし、それに彼女は爆破事件の最中にも『アメイジング・グレース』を歌う事で舞台の主導権を奪ったではないか―――
哀の訝しげな表情に気付いたのか、怜子が再び口を開く。
「彼がいなくなってから大きな舞台で歌う度に罪悪感に苛まれたわ。ここに立っているのは彼のはずなのに…って。彼がいない舞台で音楽を紡いでいる自分が罪深いものに思えて仕方なかった。だって私は彼があれほど愛した音楽の世界に平然と生き続けているんだもの。彼が私の成功を妬むような人間じゃない事くらい分かってるけど、私にはそんな自分の存在が赦せなかったの。『アメイジング・グレース』は彼が大好きな歌だったけど、自分の罪を悔やみ、それを赦す歌詞でしょ?あまりに辛くてね……」
川面に反射する光を眺めながら哀は怜子の言葉にじっと耳を傾けた。
「でも……私はプロだから。いつまでも歌う事に対して怯えてる訳にはいかなかった。だから彼を殺した4人を彼の代わりに赦す事でこの曲を歌えるよう自己暗示をかけたの。この前の事件の時は彼のお父さんを止めたくて……彼の意思を代弁するつもりで歌ったわ」
「……」
「哀と怜子は似ている」―――以前コナンに言われた言葉が哀の中に蘇った。確かにそうかもしれない。辛くても歌を捨てられない怜子と罪を悔やんでも薬の研究を止める事ができない哀。シニカルな仮面の下に隠した自分の本音に向き合う事を恐れながらも歌うために、研究のために生きている自分達―――
「そうね……似てるかもしれないわね」
そんな哀の言葉に怜子は少し照れたような顔をするとスッと立ち上がり、目を閉じて歌い始めた。
透き通る声が水面に響き渡る。曲はグノーの『アヴェ・マリア』。怜子によって紡がれるラテン語の祈りのメロディーに哀はしばし時を忘れた。


歌い終わると怜子がウインクとともに手を差し出して来る。哀は立ち上がるとその手を握り返した。
「プロはタダでは歌わないんじゃなかったかしら?」
「大人になってからの出世払いで結構よ」
哀の皮肉な言葉にも怜子は余裕の笑みを返し、「じゃ、またね」と立ち去って行った。
「ええ、また」
いつか本当の姿を取り戻した時、彼女にはもう一度会ってみたい―――そんな思いを胸に哀は阿笠邸への道を歩き始めた。


 あとがき


 2008年劇場版コナン『戦慄の譜面』アフターストーリーです。作中ではほとんど絡みのなかったこの二人ですが、「小気味良い会話をしそうだな」という妄想からストーリーが生まれました。コナンが指摘するように二人はとても似ていると思います。
 いつか志保さんと怜子さんが再会したらまたシニカルな会話が展開される事でしょう。