大型連休を控えた四月の最終日。爽やかな初夏の日差しが差し込む阿笠邸のリビングに現れるやコナンが哀に一枚のチケットを差し出して来た。
 「秋庭怜子のコンサート……?」
 「ようやく堂本ホールの修復が終ったんだってさ。あの事件の時、奇跡の歌声で観客を救った彼女だ。こけら落しの舞台を務めるのは道理ってもんだろ?」
 「なるほどね。で?どうしてそのチケットをあなたが持っているの?」
 一年前に起きた堂本ホール爆破事件の解決に大きく関わったとはいえ、コナンが常日頃できるだけ避けている分野だけに哀は困惑の表情を浮かべた。
 「昨日巻き込まれた事件で偶然怜子さんに会ったんだ。帰り際に『あの時助けてもらったお礼に』って封筒を渡されて……その中身がこれだったのさ」
 「あなたの事件吸引体質の成せる業ね。でも……いいの?同行者が私で」
 世間の注目が集まるコンサートの招待席に中身はともかく小学生の姿の自分達が並ぶのはどう考えても不自然だろう、そんな哀の言外の問いかけにコナンはあっさり頷いた。
 「それがどういう訳か怜子さんのご指名でさ。『音痴な探偵君と子供じゃない彼女に』って……オメー、あの事件の時、彼女と何かあったのか?」
 「ええ……ちょっとね」
 眼鏡の奥に光る探偵の眼を肩をすくめてさらりとかわす。こんな時の自分を追求しても意味がないと分かっているのだろう、コナンは哀を意味ありげに一瞥しただけでそれ以上の詮索はして来なかった。
 「で?行けるんだな、明日?」
 「ええ。あなたこそ大丈夫なんでしょうね?『悪ぃ、事件に巻き込まれちまって……』なんてお断りよ」
 「うっせーな……」
 面白くなさそうにプイと横を向くコナンに哀は小さく笑みをこぼすと「珈琲、淹れ直してくるわ」とキッチンへ向かった。



 Song for you 〜1 year after 「二人の旋律」〜



 「あら、二人とも来てくれたのね」
 花束と共に楽屋を訪れたコナンと哀は怜子の艶やかな笑顔に迎えられた。開演前という事もあり、挨拶だけして辞去しようとした二人をハーブティーの香りが引き留める。それは哀が一年前、提無津川の土手で飲んだものと同じカモミールの香りだった。 
 「ねえ、探偵君。ちょっと頼まれてくれる?」
 「え?あ、うん」
 ごく自然な様子で鮮やかにコナンを追い払った怜子に「……随分いい顔になってるじゃない」と面白そうに覗き込まれ、哀は大きな目を瞬いた。
 「そうかしら?」
 「『アメイジング・グレイス』の旋律に耳を塞いだあの時の面影が今のあなたからは感じられないわ。きっとこの一年の間に起きた色々な出来事があなたを変えたんでしょうね」
 「……」
 「あの探偵君の影響かしら?」
 「さあ、どうかしら?」
 一年前と同じく愛想のない哀の態度に怜子は気を悪くした様子もなく、肩をすくめるとティーカップを勧めて来る。優しく包み込まれるようなハーブの香りに哀は「ありがとう」と受け取るとカップに口をつけた。喉を通り抜けたカモミールの香りに一瞬あの提無津川の風が吹き渡ったような感覚に捉われる。
 「真っ直ぐな光に導かれた今のあなたの歌を是非聞いてみたいものね」
 「いいけど……高くつくわよ?」
 哀の反応に怜子が面白いと言いたげに微笑んだその時、コナンがミネラルウォーターを手に戻って来た。
 「ありがとう。お茶ばっかり飲んでると急に水が飲みたくなるのよね」
 「どういたしまして。それじゃボク達はそろそろ……」
 そう言って楽屋を後にしようとしたコナンと哀だったが、「期待してて頂戴ね」という怜子の声に足を止めた。
 「『奇跡の歌声』なんて言われた一年前よりずっといい歌を歌って見せるから」
 「ええ」
 ウインクとともに差し出された手を哀は笑顔でしっかりと握り返した。


 コンサートは圧巻の一言だった。透明でありながら存在感のある怜子の歌声は一年前より更に研ぎ澄まされ、ホールを埋めた満場の客を魅了し尽くした。
 「本日はご来場頂きありがとうございました。色々ありましたが、またこの素晴らしいホールで歌えた事を心から嬉しく思っています」
 年代物のウイスキーの酔いにも似たトロリとした芳醇な空気に満たされた会場の中、スポットライトを浴びた怜子が挨拶代わりの言葉を述べると観客から一際大きな拍手が起こる。その奇跡の歌声が世界中で高い評価を得、今やソリストとして押しも押されもせぬ存在となった彼女は自信で満ち溢れ、宝石のような眩い微笑みで観客の声援に応えていた。
 クライマックスを前に一層輝きを増す怜子を眩しそうに見守っていた哀は隣で居心地悪そうに小さく身じろぐコナンに思わず眉をしかめた。
 「ちょっと、工藤君」
 「あ、悪ぃ。それより……見ろよ、怜子さんがこっちを見てるぞ」
 「え…?」
 促されるまま視線を舞台へ向けると怜子の悪戯っぽい笑顔とぶつかった。
 「ここで一曲、最後の曲の前に私的な歌を歌わせて下さい。この曲は昨年の事件で私を助けてくれた小さな友人に捧げます」
 驚きのあまり大きく目を見開く哀に満足げな表情になると怜子が静かに歌い始めた。


  Lascia ch'io pianga Mia cruda sorte, (過酷な運命に涙し)
  e che sospiri La liberta.(自由に憧れる事をお許し下さい)
  Il duolo infranga Queste ritorte(私の苦しみに対する憐れみだけによって)
  De' miei martiri Sol per pieta.(苦悩がこの鎖を打ち毀してくれますように)


 曲名は『私を泣かせてください』――オペラ『リカルド』で歌われるこの曲は敵に捕らわれたヒロインが残酷な自分の運命を嘆きながらも恋人を想う歌だ。穏やかな旋律に乗せ、透明で力強い歌声がコンサートホールに響き渡る中、怜子の視線は哀が座る席へ真っ直ぐに向けられていた。


 「オレじゃなくて……灰原に聞かせてやって欲しいんだ」
 「あの子に?」
 「せっかくだから何かリクエストある?」と冗談めかして問いかける怜子にコナンが返した言葉は彼女にとって全く予想外の答えだった。
 「アイツ……いつも無理して我慢ばっかしてるからさ」
 困ったように笑うコナンに怜子は『アメイジング・グレイス』の旋律に耐えるように唇を噛んだ哀の姿を思い出した。
 「任せて。ちょうどいい曲があるわ」
 怜子の笑顔にコナンが嬉しそうに頷く。
 (あなたはあなたの道を進めばいい。たとえどんな運命でも支えてくれる存在があなたにはいるでしょう?)
 食い入るようにこちらを見つめる哀に怜子は更に声に力を込めた。


 曲が終わり一瞬の後、万雷の拍手でホールが包まれると怜子は深々と一礼した。


 「工藤君……」
 舞台を凝視したまま震える声で呟く哀の手をコナンはそっと握りしめた。
 「灰原、オレの前では無理すんなよ。『江戸川コナンのまま一緒に生きる』って事はオメーが安心して泣ける場所になるって事でもあるんだぜ?」
 零れる涙に声が出せず、黙って頷く哀の肩をコナンは静かに抱きしめた。その様子を舞台から怜子が満足そうに見つめている。


 次の瞬間、コンサートのラストを飾る『アメイジング・グレイス』の旋律がホール内に響き始めた。


あとがき


 映画『戦慄の譜面』のその後として書いた拙作『二人の旋律』の更に一年後が舞台の話になります。実はこの作品、元々は『コ哀の日ネタ』として書いた拍手用小話でした。その時「とても気に入ってもう一度読みたい」と仰って下さった方がみえまして、それならば……と短編テキストに形を変えたという少々変わった来歴を持つ作品です。
 解毒剤を飲まないという決断の後、コナン君と哀ちゃんにはそれぞれの葛藤を乗り越え、互いに支え合いながら成長して欲しいと思っています。でもその前にコナン君には哀ちゃんを受け止められる大きな男に育ってもらわなければ……怜子さんにはコナン君をビシビシ鍛えて頂きたいものです。
 最後になりましたが、拍手用小話がこうして短編テキストに生まれ変わるきっかけを下さったリク主様に心より感謝を申し上げます。ありがとうございました。