「おい新一、出掛けるぞ」
 父、優作の突然の誘いに新一は読みかけの本から顔を上げた。
「もう少し後でもいい?今面白いところなんだ」
「お前の気持ちは分かるが……母さんが帰る前に戻って来たいんでね」
 優作の台詞に新一の好奇心が疼いた。
「どこ行くの?」
「ワード・ウェア・ハウスさ。あそこは『ホノルル・クッキー・カンパニー』の1号店があるからな」
「『ホノルル・クッキー・カンパニー』?なんで?」
 ピンと来ない様子の息子に優作は彼が抱えている本のタイトルを一瞥した。
「『シャーロック・ホームズの帰還』……か。ジェレミー・ブレッドがホームズを演じたドラマシリーズがあっただろう?『美しき自転車乗り』に出て来る有名なセリフを覚えているかい?」
「もちろん!『紳士は手の甲など使わない。紳士は常にストレートだ。そして僕は紳士である』……ホームズこそ英国紳士の代表だよ!」
「ああ、そうだな」
 得意げに言う新一に優作は満足そうに微笑んだ。
「ところで新一、紳士たるもの女性への気配りを忘れてはいけないよ」
「女性への気配り?」
 憧れのホームズの話題に青みがかった大きな瞳を輝かせる新一に優作は小さな咳払いをすると
「先月俺達は有希子からチョコレートを貰っただろう。お前は凄く喜んでいたし勿論俺も嬉しかった。ならばその気持ちを今度はホワイトデーに女性に味わってもらう……それができてこそ本当の紳士といえるんじゃないかな?」
 人差し指を立ててしたり顔でそう語る父に新一は大きく頷いたのだった。


 そしてそれから十年後……


   
紳士の嗜み


「……欲しいもの?」
 怪訝そうに呟き、自分を見上げる志保に新一は「そ、欲しい物。何かねーか?」と、快楽の余韻に潤んだ瞳の端に軽く口づけた。額に張り付いた柔らかな赤みがかった茶髪を梳き、そこにも口づけを落とすと志保がくすぐったそうに身をよじる。
「どうしたの?急にそんな事……」
「もうすぐホワイトデーだろ?オメー、マシュマロとかあんま好きじゃねーみたいだし」
 耳元で囁かれた声に先程までの熱に浮かされた時間を思い出したのか、志保は火照った頬を隠すように枕に顔を埋めてしまった。
「別に……お返しなんて最初から期待してないわ」
 くぐもった声で何とも可愛げのない答えが返って来たが、僅かに見える薄紅色に染まったうなじが彼女の心の内を雄弁に物語っている。
「遠慮すんなって。キャンディとかクッキーとか色々あんだろ?」
「そんな物……ダイエット中の博士の前で食べられるはずないでしょ?」
「あ……それもそうだな」
 鋭い指摘に頭を掻くもののここで引く訳にはいかない。
「だったら食い物以外でさ、何でもいいから言ってみろよ」
 更に質問を重ねる新一に志保が不思議そうに首を傾げた。
「……意外ね。あなたがホワイトデーを気にするなんて」
「そりゃ……お菓子業界の戦略にのせられたみたいでカッコ悪いような気もするけどよ、紳士の嗜みっつーか……」
「え…?」
 思わず漏らした台詞に心の中で舌打ちすると「と、とにかくオレの気持ちなんだからさ」と誤魔化すように答えを促す。
「喜んでくれたのは嬉しいけど……あなた、そんなにチョコレート好きだったかしら?」
「バーロ、オメーから初めて貰ったバレンタインチョコだぞ。特別に決まってんだろ?」
 拗ねたような表情で呟く新一に志保がクスッと笑うと身体を起こした。
「別に欲しいものなんてないわ。一番欲しいものはここにあるし……」
 そのまま額をコツンと合わせて来たかと思うと正面からジッと覗き込まれる。全ての男を虜にするような緑柱石の瞳に新一の喉がゴクリと鳴った。
「ずっと……傍にいて守ってくれるんでしょ?」
 その言葉に全ての思考回路が途切れ、からかうように小さく肩をすくめる志保を強い力で抱き締める。
「……!」
 急に暗転した視界に驚いたのか志保が小さな悲鳴を上げる。そんな彼女を無視して新一は抱き込んだ小さな頭を自分の胸に押し付けた。少しの間、新一の腕の中で大人しくしていた志保だったが、さすがに少し息苦しくなって来たのだろう。
「ねえ、離して」
「やだね」
 子供のように答える自分にどうやら放す気がないと悟ったのか、志保は呆れたように溜息をつくと新一に身体を預けて来た。
「志保……」
 愛おしさを込めて名前を呼び、促すように指で唇のラインを辿ると志保が静かに目を閉じる。浅く深く何度も熱い吐息を交わした後、そっと唇を離した新一の目に映ったのは泣き笑いのような表情を浮かべる志保の姿だった。
「バレンタインなんて初めてだったからどうしていいか分からなくて……あなたの好みをよく知っている訳でもないし、迷惑だったらどうしようって……」
 自分の胸に頭を預け、独り言のように呟く志保に新一は返事の代わりに抱え込んだ彼女の猫っ毛を繰り返し撫でた。最近少し伸ばし始めたという柔らかな髪の触り心地は新一のお気に入りである。
「あなたが喜んで受け取ってくれただけで私は凄く嬉しかったの。だから……私もあなたがくれるものなら何でも嬉しいわ」
 少し恥ずかしそうに呟く志保に新一は返す言葉を失った。いきなりこんな可愛い事を言うなんて反則だ。
「……なあ、オレ、オメーのチョコ、すっげー大事に食べてんだぜ?一週間に一個食うか食わねえかってくらいに」
「あら、その計算だとまだ残ってるのね」
「あ、ああ。だから……その……オメーの事は我慢しなくていいよな?」
「……バカじゃないの」
 精一杯決めたつもりの新一に志保がクスリと笑うと彼の背に腕を回して来た。



あとがき



 サイト八周年記念リクエストから「ハワイで親父に習った別の事」「もう少し恋愛要素が欲しい」という二つのリクエストに応えさせて頂きました。リクを下さったお二方、どうもありがとうございました。
 最近の公式におけるコナン君の万能振りを見ていると工藤家のハワイ教育はかなり充実していたと思われますが、優作さんの事だからしっかり騎士道精神も教えているはず!という私の願望も込め、こんな形に仕上げました(それを新一がきちんと活かせているかは別問題ですが……笑)
 また「恋愛要素」という事で甘さの限界に挑戦してみましたがいかがでしょう……?


 それでは最後に少しオマケを用意してみました。やはり志保さんの方が一枚上手なようです。



―数時間後―


 心地よい疲労にまどろんでいた志保は「あれ…?」という新一の声に目を開いた。
「……どうしたの?」
「いや、その……オレ、ホワイトデーは結局どうすりゃいいんだ?」
「さあ?」
「『さあ』って……」
「私の答えを聞かなかったあなたが悪いんでしょ?」
「……」
 チラリと視線を送ると新一が困ったような表情で頭を掻いている。
「『紳士の嗜み』なんでしょ?期待してるわ、名探偵さん」
 悪戯っ子のように微笑むと志保は今度こそ睡魔に意識を委ねた。