玄関の扉を開けたそこにはいつの間にか見慣れてしまった色黒の顔があった。
 「あけましておめでとうさん」
 反射的に閉めようとした扉を押さえた平次がニッコリと笑う。



  
春風駘蕩



 寝起きでまだ少しぼんやりとする頭をはっきりさせるため、お茶をゆっくりと飲み干した。体温が上昇するような感覚に溜め息が漏れる。
 壁にかかった阿笠博士お手製のからくり時計が指しているのは午後一時を少し回ったところ。日付は一月一日。窓の外に目を向けると、前日までの喧騒とは対称的な外の静かな様子に何となく取り残されたような気持ちになった。
 「それで?元旦から一体何の用?」
 ジロリと半ば睨む様な視線は「冷たいなー」と笑顔であっさりかわされる。
 「阿笠のじいさんから姉ちゃんが今日は一人で居るって聞いたから一緒にお節料理を食べよと思て」
 そう言うと平次は大きな風呂敷包みを取り出した。結び目を解くと立派な塗りの三段重ねの重箱が姿を現わす。
 「何も元旦からそんな事のために東京まで来ること無いでしょう」
 「そんな事って……お節料理やねんからやっぱり正月に食べんと間抜けやん」
 キョトンとした表情で返されて志保は溜息をつきたくなった。この男と会話するといつもこうだ。噛み合わない事甚だしい。
 「どうしてわざわざ私とお節料理を食べに来たのか、って聞いてるのよ」
 「上手いことできたから姉ちゃんに食べさしたなってん。姉ちゃんはじいさんと出かけるんかと思ってたら一人で家に居るって言うし。ちょうどええわぁって思ってん」
 「だ・か・ら。どうしてそこで『ちょうど良い』っていう発想になるのかが分からないんだけど」
 「流石にじいさんとの旅先まで重箱持って行く訳にはいかんやろ?ホンマに家に居ってくれて良かったわ」
 どうせダメだと思いながら呟いたいつもの台詞をいつものように訳の分からない理屈で返され、いつものように溜息を吐く。平次のこういう行動は志保を苛立たせたが、その一方、興味を与えてくれるのも事実で、志保は平次とのこの関係に少なからず困惑していた。
 「一の重は松竹梅で入れてあんねん。この松ぼっくりの形してるのはイカの焼いたやつやねん。それでこの八幡巻きは竹でな……」
 色とりどりの食材が綺麗に詰められた重箱を丁寧に広げながら嬉しそうな声で注釈を加えていく平次を志保はぼんやりと眺めていた。
 
 
 多くの役所と同様、志保が勤めている政府系の研究所も年末年始は休みとなる。とはいえ急な仕事が入ることも無い訳ではない。本来、仕事納めの日だったはずの28日に急に舞い込んだ新薬の分析依頼を押し付けられたのは志保にとって別段驚く事では無かった。
 いくら海外で評価されていたとは言え、学閥もない未成年の自分がいきなり重要な研究を任される事を周囲が面白く思っていない事や可愛い気の無い自分の態度が彼等のそういう気持ちを増幅している事を志保は自覚していたし、状況を受け入れるしかない事も理解していた。それは昔、組織の研究所にいた時と同じ事を繰り返せば済む事だったから。
 正月は阿笠と温泉で過ごすはずだったが、どうやらそれは無理なようで、その事に少しホッとしつつ、行けなくなった旨を阿笠に告げた。志保を娘のように思っている阿笠は延期しようとまで言ってくれたが、「普段海外で暮らす想い人と二人、ゆっくり日本らしい正月を過ごすのも悪くないんじゃない?」と説得した。その一方、同行できない事を少し残念に思う自分に驚きながらも、一人で過ごす正月など慣れているはずで、今さら寂しいなどとは言えなかった。
 通常一週間はかかる分析を何とか3日で終わらせ、阿笠邸に帰宅したのはもう31日の早朝。心配する阿笠に大丈夫だと言いながら簡単に家中の大掃除を済ませてフサエを空港へ迎えに行き、そのまま旅に出る二人を送り出すと倒れるようにベッドに横になった。
 目が覚めた時には12時は軽く回っていた。誰も居ない阿笠邸のリビングがやけに広く感じられたその時、玄関のチャイムが鳴ったのだ。


 「全部あなたが作ったの?」
 見事な三段重がテーブルの上に広げられると、自然、感嘆の言葉が口をついて出た。
 「そうや…と言いたいところやねんけど、オレはまだまだ修行中でとてもここまでは作られへんわ。半分以上オカンが作ってん」
 「でもオレも手伝うたんやで」とムキになって言う口調が子供のようで思わず笑みがこぼれる。
 「ほんなら食べよ」
 嬉しそうに準備を始める平次を志保は静かに押し止めると、俯いて膝の上で組んだ手を見つめ、小さく息を吐いた。新年を迎えるこの日を自分などと過ごさせる訳にはいかない。彼には本当の家族が大阪にいるのだから。
 「あなたにはお正月を共に過ごす家族がいるでしょう?」
だから…と帰阪を促す言葉は
 「ああ、オレんとこの正月は三が日が済んでからやねん」
 と、全く思いがけない言葉に遮られた。怪訝な表情を向ける志保に平次が笑いながら説明する。
 「オレの親父は警察官やろ?昔から盆も正月も無い仕事やし、偉なってからは『正月に部下を働かして自分だけ休むわけにイカン』って言うてなー。そやからうちは毎年4日にお節料理食べて初詣に行くねん」
 「可笑しいやろ?」と言う平次は少し誇らしげで、でもどこか寂しげに見えた。
 「オレは親父のそういう所は偉いと思うで。でも周りが正月やってんのにオレだけ一人取り残されたみたいな感じしてな。あんまり正月って好きやなかったんやけど……今年は姉ちゃんとこうして正月を過ごせるから寂しないわ」
 照れたように笑う平次に志保は肩を竦めて息を吐いた。こうして呆れた振りをして彼を受け入れるのは何度目だろう?その度に少しずつ暖かくなる心をいつものように押し込めて。
 「服部君って子供なのね」
 内心を誤魔化すように視線を外した志保に平次はニッと笑って
 「せやからお年玉ちょーだい」
 「しばらく一緒に居させてくれへんか?」と囁く。
 「……お節料理にはお雑煮が付き物よね。どうせなら用意しましょうか?」
 赤くなった顔を見られまいと立ち上がった志保を不敵な笑みで平次が制して紙袋を取り出す。
 「ちゃんと白味噌と丸餅も用意してあるで」
 「ふーん。たまには関西風もいいかもね」
 「楽しみにしとき」
 志保は挑戦する自分の視線を受けてキッチンへ向かう平次の背中を新年が運んで来た春風のようだと感じ、思わず彼を呼び止めた。
 「服部君、明けましておめでとう」
 さらりと呟いた言葉に平次が最初にドアを開けた時と同じ笑みを志保に返す。
 「今年もよろしくね」



あとがき



何だか平志というより平次の餌付けシリーズという感じになって来てしまいました。
仕事に関して泣き言を言うタイプではないというか、自分の感情を無視するであろう志保さんをさりげなく癒す平次という話を目指してみたのですが、さりげなくないですね。
寒波を吹き飛ばすくらいアツい二人とはいきませんが、この後は初春らしく穏やかなお正月になれば良いと思います。