その腕の中で



 遠くの空で雷が光っているのが見える。急な気圧の変化に身体が圧迫される気がする。先程までの明るさが嘘のように暗くなった窓の向こうを見やると、水のカーテンで外の世界と隔離されているようだった。
 「すごい雨ね」
 後ろからかけられた声に振り返ると同居人の灰原哀が地下室からゆっくりと登って来るところだった。
 「哀君、今日は研究はお休みかな?」
 自分の隣に立って同じように窓の外を見る哀に阿笠はにっこりと笑った。
 「かなり近くで雷が鳴ってるみたいだし、停電したら困るから今日はもう止めるわ。博士もパソコンの電源、落としておいた方が良いわよ」
 肩をすくめて哀はそう答えると「コーヒーでも淹れるわ」とキッチンに入っていった。確かに先程やっと完成させたプログラムが停電のせいで消えてしまっては大変である。阿笠は慌ててパソコンデスクに向かった。

 
 「さすがにこの雨だと彼らは来ないわね」
 夏休みに入って毎日のようにやって来た少年探偵団の面々もバケツをひっくり返したように降るこの雨の中を阿笠宅にはやって来ないだろう。
 「静かでいいわ」と言う哀は確かにホッとしたような、でもどことなく寂しそうな様子だ。本来なら決して関わり合いになることはなかったであろう彼らの存在がいつしか大きくなっている事に哀は気付いていないようだ。そんな哀をニコニコと見ている阿笠の視線に気付いた哀が
 「何よ?」
 「いや、そんな事を言う割に哀君はなんだか退屈そうじゃと思っての」
 「そんな事ないわよ。せっかくの夏休みなんだからたまには静かに過ごしたいわ。そういう博士こそ彼らがいなくて寂しいんじゃないの?」
 横を向いて不機嫌そうに答える哀の頬がほんの少し赤くなっている事に気付いて阿笠はまたふんわりと笑った。
 心の中を表す事に不器用な彼女が見せる僅かな感情はいつも阿笠の心を暖かくする。気楽な一人暮らしにすっかり慣れ、漠然とこのまま一人で生きていくのだと思っていた自分が図らずも得た娘のような存在に本当に幸せを感じて、阿笠は哀の肩に手を置き窓の外を見つめる。哀もまた肩に置かれた大きな手に安らぎを感じてまた窓の外に目をやった。
 コーヒーの香りと雨の音に包まれながら二人は互いに同じ事を考えていた。
 あの時も同じように雨が降っていた。

 
 「……つまり君は新一君が追っている組織に追われていて、彼と同じ薬を飲んで子供の姿になってしまった、という事なんじゃな?」
 昨晩、隣家の前で倒れているところを保護した少女が話した驚くべき内容を整理するようにゆっくりと口に出していく。少女は阿笠の言葉に小さく頷いた。
 「そしてその薬を開発したのは君で、君はその薬の使用法について組織と対立して組織から逃げる事になった……」
 「確かにあの薬を使う事を反対はしたけど、それだけじゃないわ。私にはもう研究をする意味なんて……組織にいる理由なんてないのよ」
 阿笠の言葉を遮るように少女はすっと窓の外に視線を移し、寂しそうに呟いた。彼女の言動には何かもっと深いものが隠されているだろうと思ったが、同時にその事に触れるのは止めるべきだという事も阿笠は知っていた。
 自分を気遣うように困った顔で見つめられている事に気付いたのか少女は誤魔化すように俯いて阿笠から表情を隠した。
 二人が黙り込んだ室内に雨音だけが響いていた。
 この少女が他人との距離を測りあぐねている事に阿笠は気付いていた。
 雨の中倒れている少女を保護し、世話をしている自分を信用していいのかとどこか疑いながらも、一方で裏切られる事も当然のように受け入れようとする潔さ、むしろ彼女自身については何も心配していないようだ。だが、意識を取り戻し、状況を理解するにつれ、時折何かに怯えるような表情を見せた。最初は組織に対して恐怖を抱いているのかと思い安心させるように接してみたが、どうやらそれも違うようだ。
 しばらくして少女が顔を上げて阿笠に視線を向けた。
 「確認したいんだけど」
 表情は消しているが、意志の強さを感じさせる色素の薄い目に射抜かれるように見つめられて阿笠の視線は引き込まれる。
 「工藤新一は幼児化して生きているのね?」
 「ああ。今は『江戸川コナン』と名乗っているがね。確かに新一くんは生きておるよ」
 はっきりと返した阿笠の言葉に少女は一瞬安堵したように息を吐いたが、すぐにまた表情を消して質問を続けた。
 「その事を知ってる人は?」
 「新一君のご両親とワシと、それから彼の親友の服部平次君だけじゃよ」
 「本当ね?」
 「本当じゃよ。彼は江戸川コナンが工藤新一である事を隠しておるから」 
 あまりに真剣な目で強い口調の質問に押されて阿笠は答えていくが同時に疑念も湧いて来る。
 「もしや組織は新一君が子供の姿になった事に気付いておるのか?」
 阿笠の質問に少女は一瞬言葉に詰まり、視線を外すと
 「私以外今はまだ気付いてないわ。でも……」
 と溜息とともに吐き出した。
 「でも、その事実を私が隠して来た事に気付けば組織は工藤新一の生存を疑い始めるでしょうね」
 そして苦々しい口調で自嘲気味にそう続けた。
 「君は新一君が生きている事を隠してくれていたのか!」
 突然の大きな声に少女が驚いて顔を向けると、阿笠が満面の笑顔でその手を取り、何度も「ありがとう」と繰り返した。そんな阿笠の様子にあっけにとられて少女はしばらく阿笠のなすがままにされていたが、やがて居心地悪そうに阿笠の手を振り払った。
 「別に助けた訳じゃないわ。興味深い事例だったから殺したくなかっただけよ」
 ぶっきらぼうな口調の少女に阿笠は
 「それでも君が新一君を助けてくれた事に違いない」
 と笑みを崩すことなく「ありがとう」と続けた。少女はそんな阿笠を居心地悪そうに見ていたが、やがて根負けしたようにフッと微笑んだ。その笑顔に阿笠は少し心が暖かくなるのを感じた。


 「それで君はこれからどうするつもりかね?新一君に会うなら連絡を取るが」
 一息入れようとキッチンから持って来たコーヒーを渡しながら少女に尋ねる。
 「そうね、私と接触した事がばれたら工藤新一が幼児化している事も組織に知られる確率が高くなるわ。だから私達は会わない方がいいと思うの。あなたには迷惑をかけたけど、今夜にでもこの町を出て行くわ」
 「おいおい、そんな子供の身体でどうしようというんじゃ。行くあてはないんじゃろう?」
 「どうにでもなるわ。幼児化した事は組織にばれないようにするから安心して。工藤新一にもそう伝えておいて頂戴」
 「しかし中身はともかく子供の君をそう簡単に出て行かせる訳にはいかんし……」
 困惑して話していた阿笠が急に閃いたように手を打つと
 「そうじゃ、ここに住まんか」
 と明るく言った。
 「え?」
 大きな目を更に大きく見開いて少女が阿笠を見つめる。
 「組織に追われている事が分かっているのにどこかにやる訳にもいかん。それに君がここにいれば君達を元の身体に戻す薬を作れるかもしれんじゃないか」
 「あなた、自分が何を言っているか分かっているの?」
 名案だと喜ぶ阿笠に少女が押し殺したような声を出した。
 「私は組織に追われてるのよ?私と関わったらあなたも組織に狙われる事になるの。殺されるのよ?」
 「じゃがここを出たら君は行く所が……」
 「私の事はいいの!」
 阿笠の反論を遮って少女が声を上げた。
 「私と関わるだけで危険なのよ。本当はこうしてたとえ一瞬でも接触しているだけで危険なのに。あなたは関係ないのにこれ以上私と関わって命を狙われる必要なんてないじゃない!」
 「しかし……」
 「私は組織の一員だったのよ。コードネームだって与えられていたわ。毒薬の研究もしていた。そんな私を信用できる?いつ自分の安全のためにあなた達を裏切るかもしれないわ」
 辛そうな顔で言葉を搾り出す少女を見ながら阿笠は分かったような気がした。
 怯えていたのは組織に見付かる事ではなく阿笠を巻き込む事だ。
 少女は自分自身に対してどうしようもなく負い目を持っている。自分の身はどうなっても構わないが、自分のせいで誰かが傷つく事を恐れている。
 新一の身体を小さくした薬は彼女の本意ではなかったのだろうが、それが使われている事に大きな責任を感じている。新一を助けたのはとにかく一人でも人が死ぬのを助けたかったからだ。だから新一が生きている事に安心したような表情を見せたのだ。


 一気に喋ったので息を切らせている少女の顔は無表情のままだったが、阿笠には泣いているように見えた。
 誰よりも優しいこの少女を急に愛しいと思った。そう思った瞬間、阿笠は少女をゆっくりと抱きしめていた。まるで親鳥が雛をくるむように優しく少女の髪を撫でる。そして驚いて身を硬くする少女にゆっくりと話しかけた。
 「もういい。もうそれ以上は言わんでいいんじゃ。君はわしらを裏切らんよ。そんな事ができるなら組織に逆らったりはせんじゃろう。だからそんなに自分を傷付けてまでわしを守ろうとせんでくれ」
 阿笠の言葉を少女は肩を震わせて聞いていた。
 「わしは君を守る。せっかく組織から逃げてわしの所に来たんじゃないか。君は新一君を助けてくれた。今度はわしが君を助ける番じゃよ」
 少女は答えなかった。声を出したら泣いてしまいそうだったから。こんな風に抱きしめられて頭を撫でられたのはいつ以来だろうか。阿笠の大きな手は記憶にすらない父親を髣髴とさせた。
ついつい見ず知らずだった阿笠を信じてしまいそうになる。頼ってしまいそうになる。必死で強がっていた心が安心して融けてしまいそうだ。


 しばらく二人はそうしていたが、やがて阿笠が少女の顔を覗き込んで
 「わしと一緒に暮らしてくれるかな?」
 とウインクすると少女は小さく頷いた。


 それから少女は灰原哀と名乗り、阿笠とともに暮らすようになった。 



あとがき



PCのそこに残っていたのを改稿したのがこの作品です。日付を見ると2002年になってましたから、かれこれ5年前の物です。いろんな人が書いている哀と博士のファーストコンタクトです。当サイトでも相方が「最初の挨拶」として書いています。二人の雰囲気の違いを楽しんで頂けたらと思います。