Side HEIJI


組織が壊滅して約一ヶ月、いよいよ『江戸川コナン』が『工藤新一』に戻る日。前夜、といっても日付が変わるギリギリの時間になって解毒剤の完成を新一から知らされた服部平次が始発の新幹線に飛び乗り、阿笠邸へ駆けつけると新一は既に元の身体を取り戻していた。
「なんだ服部、来たのか」
靴を脱ぐのももどかしく、リビングへと飛び込んだ自分を見てあっさりそう言われた時は流石に額に血管が浮くのを感じたが、これくらいで怒っていてはこの男の友人は務まらない。平次は「当たり前やろ」と憮然とした表情で呟くと新一の向いのソファに腰を下ろした。
「とにかく元に戻れて良かったな。おめでとうさん」
「ああ、やっと完全に戻れたんだ。本当……長かったぜ」
「身体の調子はどうや?」
「別になんともねーけど……検査結果が出るまで勝手に動き回るなって灰原がうるさくてさ」
「またいきなり小さなっても困るやろ?大人しくねーちゃんの言う事聞いてるんやな」
からかうような口調とともに視線を奥に向けると、広いリビングの端で何やら話し合っている哀と阿笠の姿が見えた。
「あのねーちゃんはまだ戻ってないんやな」
「ああ。しばらく戻らないみてーだぜ」
「何でや?せっかく解毒剤が完成したっちゅうのに……」
「『江戸川コナン』と『灰原哀』が一緒に消えたら不自然だって聞く耳持たねーんだ。そんなに気にする必要ねえとオレは思うんだけどよ」
どうやら新一は哀が一緒に元の身体に戻らない事が気に入らないらしい。哀の事を信頼し、随分と気にかけていただけにその気持ちは分からなくはないが、だからといって哀の決断に口出しできるほど平次は彼女の事を知っている訳ではなかった。新一の拗ねたような口調に曖昧な相槌を打ちつつ、平次はさり気なさを装って哀に視線を向けた。 
少し見づらいのか、背伸びするようにモニターを覗き込んでいる。小さな身体には不釣合いなはずの白衣が何故か似合う少女は一ヶ月前に会った時より少し痩せたようだ。
そういえば……と以前、阿笠から解毒剤の開発に没頭する哀を案ずる言葉を聞いた事を思い出す。燃え盛る組織のアジトからAPTX4869のデータを手に入れてからこの一ヶ月間、地下室に閉じ籠り、不眠不休で研究に打ち込んでいたであろう小さな後姿が平次にも容易に想像できた。
「そお言うたら工藤が元に戻ったところは何回か見たけど……ねーちゃんが戻ったところは見た事ないなぁ」
「んなの当たり前だろ?オレだってほとんど見た事ねーんだから」
親友の言葉に平次は哀が成長した姿を想像してみたが、意外にも最初に浮かんで来たのは赤みがかった茶髪にスラリと伸びた背筋だった。
「何でやろうなあ……」
「あん?」
うっかり零れた言葉に「いや…何でもないねん」と慌てて誤魔化す。
何時の頃からか平次にとって哀のイメージは凛とした後姿になっていた。それはいつも正面から人と接する事を身上としている彼にしてみれば至極珍しい事である。直接会ったのは数える程、しかもそのほとんどは新一を通してのものでしかないが。
(オレ……ねーちゃんの後姿ばっか眺めて来たんやろか……?)


初めて平次が哀に会ったのは帝丹高校の文化祭。コナンの正体を疑った蘭に、解毒剤の試作品で一時的に元の身体に戻った新一とコナンに変装した哀が彼女の眼の前に同時に現れる事で事態の収束を図ろうとした時だった。その最中、試作品の副作用で倒れてしまった新一に周囲が騒然とする中、冷静に事の成り行きを伝えて来た様子に唖然とした事を今でもはっきりと覚えている。 
(何やねん、あのガキ)
仮にも新一の幼児化の原因に関わっただけでなく、今また彼女が作った解毒剤の試作品で倒れたというのにあまりにも冷淡な態度ではないか。
事件の後始末を終えた平次は断固抗議すべく哀の姿を探した。しかし、新一が運ばれた保健室の入口で一人佇む彼女の後姿を見た途端、そんな気持ちは消え失せてしまった。
同じ小学一年生の身体でも江戸川コナンより華奢な背中は驚くほど儚げで、とても声をかけられる雰囲気ではなかった。ベッドを取り囲む蘭達から少し距離を置きつつ、時折背伸びするように新一の様子を伺う姿は随分不安気で平次は胸が締め付けられるような思いに駆られた。
(探偵失格やなあ……あれのどこが冷淡やねん)
平次は苦笑すると保健室へと足を踏み入れた。不自然にならないよう和葉に声をかけつつチラリと哀を見るが、変装しているせいか表情はほとんど分からなかった。
その後、新一が意識を取り戻したのを見届け、帰ろうとする哀に声をかけたのは『灰原哀』という存在に対する純粋な興味だった。人の少ない校舎裏の階段に腰かけ、目線を合わせて哀の緑柱石の瞳を覗き込む。哀は平次の視線をたじろぐ事なく真っ直ぐ受け止めた。
「なあ、あんたは工藤の味方やと思ってええねんな?」
「そう都合よく解釈していいのかしら?」
「あん?」
「私は工藤君の身体を小さくした毒薬、APTX4869を作った張本人よ。そして組織の裏切り者。いつあなた達を裏切るとも限らないわ。工藤君だって内心そう思っているんじゃないかしら?」
「アホか。工藤がほんまにそう思ってたらあんたが作った解毒剤をホイホイ飲んだりする訳ないやろ」
「……」
「工藤はあんたの事信じてるんや。あんたもほんまは分かってるんやろ?」
その言葉で哀の心を揺さぶれるものと思っていたところ「さあ、どうかしらね」と簡単に受け流され、平次は思わずカッとなった。
「ほなねーちゃんは何でここまで工藤に力を貸すんや!?」
「彼の正体がバレたら私の身も一を苦笑しながら見送った危ないからに決まってるでしょ?」
切り捨てるように即答した言葉はまるで最初から用意されていたもののように聞こえたが、それを証明する術はない。
「もういいかしら?じゃ、後は頼んだから」
そう言って平次の返事を待たずに去っていく哀の後姿は――守るべきもののために毅然と伸ばされた背筋は頑ななまでに全てを拒否する気配を放っていて。
「嘘つくんは下手みたいやなぁ……」
哀の背中を見送る平次は複雑な表情で呟いた。


それから何度か哀と会話を交わしては来たものの、自分を隠す事が習性になっているのか、結局、平次は彼女の本心を見抜く事ができなかったように思う。一筋縄では行かない哀との会話は知的刺激を与えてくれる楽しいものには違いなかったが、何度捕まえようとしても最初の時のようにスルリとかわされてしまう。しかし、そんな頑なな態度とは裏腹に彼女の背は何よりも雄弁に哀の本心を語っていた。そしてどうやら哀自身、その事に気付いていないという現実に好奇心が掻き立てられた。
そして気が付けば平次はいつもその背中を目で追うようになっていた。

 
しばらくの間、新一が遭遇した事件の話を聞いていると奥から小さな足音が聞こえて来た。
「灰原、もう自由に動いてもいいだろ?」
待ち切れないと言いたげに問いかける新一を無視すると、哀は手元のカルテを最後にもう一度確認し、ホッとしたような表情を浮かべた。
「ええ。ただし何度も言うけどしばらくは定期的な検査を必ず受けて頂戴。とりあえず次は3日後よ」
「分かってるって。ありがとな、灰原。それじゃオレ、行くから!」
「お、おい、工藤……」
リビングから駆け出して行く新一を苦笑しながら見送った。
平次の目が捉えたのは放心したように立ち尽くす哀の後姿だった。叫びそうになる言葉を必死に抑えているその背中は平次が今まで見て来た中で最も儚げで。
何故だか今日に限って一目散に飛び出して行った新一に無性に腹が立った。そして哀の背中を眺める事しかできない自分自身にも。
(後姿はもうええわ。俺はちゃんと正面からねーちゃんと向き合うんや)
自分の気持ちが興味の線を越えた事をハッキリと自覚する。
「必ず捕まえたるからな。探偵の根気強さ……見せたるで」