緩やかな朝日が顔に当たるのを感じ、哀はうっすらと目を開いた。ぼんやりとした頭で身体を動かそうとするも思うようにならない。不思議に思って半ば強引に意識を覚醒させると自分の身体を背後から抱きしめている手に気付く。手を重ねてみると華奢な自分のものとは随分違う男のそれだった。
 時計を見ると午前七時を少し回ったところ。視線を窓の外に向けると初夏の爽やかな空が広がっている。腰に回された腕を外そうとすると抵抗するように力が強まった。
 「起こしちゃった……?」
 そっと声をかけてみるも返って来るのは健やかな寝息ばかり。体勢を変えて正対するとコナンは穏やかな表情で眠っていた。いつも全てを見透かす深い蒼色の瞳はしっかりと閉じられ、全く起きる気配もない。悪戯心から頬をゆっくりと撫でると端正な顔を歪め、くすぐったそうに身じろぎする。自分だけに見せるその無防備な姿に哀は小さく微笑むとベッドから抜け出した。
 「明日の土曜日は学校も休みだし……」という台詞を言い訳に昨夜の就寝は随分遅くなってしまった。
 (事件の呼び出しでもない限り当分起きそうもないわね……)
 床に落ちたネグリジェを身に付け、コナンに布団をかけ直すと哀は静かに部屋を後にした。


 熱めのシャワーで汗を流した後、キッチンで阿笠が土産に買って来てくれた新茶を煎れる。湯のみに鮮やかな新緑色の液体を注ぐと新茶独特の爽やかな香りがさっと広がった。煎茶は湯温の調節など手間はかかるものの、仄かな甘みと柔らかな渋みが絶妙な事もあり、ここ最近朝食後は珈琲ではなく煎茶が定番になりつつある。最初は「ジジくせ〜」と批判の嵐だったコナンも今ではすっかり気に入った様子だ。それでも学校から帰るなりリビングに陣取り、「哀、珈琲淹れてくれよ」という習慣は変わらない。
(そういえばそろそろ珈琲豆を買い足しておかないと……暑くなってきたしアイスコーヒー用も要るわね。彼の好きな銘柄は確か……)
頭の中の買い物リストにチェックを入れたところで哀の脳裏に昨日親友、吉田歩美に言われた言葉が蘇った。
 「哀、台詞と表情が全然合ってないんだけど?」
 我儘なコナンに愚痴を零しながらも珈琲を淹れる自分に遠慮なく突っ込む親友を思い出し、哀は思わず苦笑した。
 歩美に指摘される間でもなくコナンに甘い事は自覚していた。が、それ以上に彼に甘やかされている実感が哀にはある。それは二人が過ごして来た時間の中で重ねた真実がもたらすものだった。



 ふと顔を上げるとテーブルの上に飾ったフォトフレームが目に留まった。写っているのはまだ子供の身体と大人の心を持て余していた頃のコナンと哀だ。自然な笑顔を浮かべているコナンとは対照的にどこかぎこちない表情の自分……しかし、しっかりと繋がれた手の温もりを哀は今でも覚えている。
 写真の右端に入っている日付は6月1日、それはちょうど十年前の今日。梅雨に入る直前で、まだ初夏の柔らかな風が吹いていた日の事だった。


 「解毒剤が完成したわ」
 そう告げた声が震えていない事に哀は内心安堵の溜息をついた。使命を果たした高揚感と解毒剤を渡した後に襲われるであろう喪失感への恐怖――相反する感情をいつも通りクールな表情の下に押し込める事はどうやらここまでは成功しているようだ。
 「随分待たせてしまってごめんなさい。でも……これでようやく元の身体に戻してあげられるわ」
 自分の言葉に満面の笑みを浮かべているであろうコナンを直視する気にはなれず、視線を伏せたまま一錠だけ解毒剤が入った薬瓶をテーブルの上に置く。
 「ありがとな、灰原。けどよ、なんで一錠しかねーんだ?」
 予想外のコナンの言葉に哀は眉間を寄せた。組織が崩壊して約一ヶ月、文字通り寝る間も惜しんで完成させた解毒剤は自分でも自信作と言っていい物だ。それだけに彼の口から出た言葉は彼女にとって至極不本意なものだった。
 「一錠あれば充分でしょ?これは今までの試作品と違って完成品なんだから」
 「んな事聞いてんじゃねーよ。なんでオレの分しか無いんだって聞いてるんだ。オメーは飲まねーのか?」
 「そんな事……どうしてあなたが気にするの?」
 訝しげな表情を浮かべる哀にコナンが目の前に置かれた薬瓶を彼女の方に押し返した。
 「……どうやらオメーは飲むつもりねーようだな。じゃあオレも飲まねえ。この薬は処分してくれ」
 「どうして……?あなた……あんなに解毒剤を……」
 理解できないと言いたげな哀にコナンが更に言葉を重ねるが、彼女の頭の中は「処分してくれ」というコナンの声が反響するばかりで、もはや彼の言葉を理解できる状況ではなかった。
 「灰原…?」
 自分を覗き込むコナンに哀は自嘲の笑みを浮かべた。
 「……そう、ね。開発者の私が先に試さないと不安よね。確かに解毒剤はあなたの分しか作らなかったわ。でも……これは本当に自信があるの。だから……」
 「そうじゃねえ!」
 コナンの真剣な表情に哀は思わずその先の言葉を飲み込んだ。
 「オメーがオレのために一生懸命作ってくれた解毒剤だ。不安なんてある訳ねーだろ?けどよ、そうじゃなくて……オメーが戻らないならオレも『工藤新一』には戻らない、そう決めたんだ」
 「どういう事……?」
 「オメーと一緒に生きていきたい。だからオメーが『灰原哀』のまま生きるならオレは『江戸川コナン』のままでお前の傍にいたいんだ」
 「でもあなた……ずっと戻りたいって……」
 呆然とした様子の哀にコナンは「確かにな」と一瞬苦笑いを浮かべるとそっと彼女の手を握った。
 「実はさ、試作品で元の身体に戻った時、いつも違和感があったんだ。最初はすぐにコナンに戻っちまうからだと思ってたんだけど……そうじゃなかった。『工藤新一』に戻った時オレの傍にオメーがいない、それが違和感の原因だって気付いたんだ。オメーがいないとオレはオレでいられない。だから……」
 握られた手から伝わって来るコナンの熱がその言葉に偽りがない事を哀に伝える。しかし、その火傷しそうな熱さが逆に彼女の心を乱していた。哀は力なくかぶりを振るとコナンから視線を逸らせた。
 「な、何を言ってるの?あなたの傍に相応しいのは私なんかじゃ……!」
 「オレの傍にいるヤツはオレが決める。オレはオメーがいいんだ」
 「『工藤新一』には待っている人がたくさんいるじゃない!」
 「ああ。けどよ、『江戸川コナン』にだって大事な仲間がたくさんできた。簡単には捨てられねーよ」
 「でも……あなたは探偵なのよ?そのあなたがそんな偽りの姿で生きていいはずが……」
 「どんな姿でもオレはオレだ。それこそ真実じゃねーのか?」
 「そんな事……!」
 なんとか説得しようとする哀をコナンの「なあ、灰原」という穏やかな声が遮った。
 「真実っていうのは色んな小さな要素が積み重なってできてると思うんだ。『工藤新一』も『江戸川コナン』もオレっていう真実を構成する要素でしかない。そしてオレを構成するために一番必要な要素がオメーなんだ。だからこそこれからもずっと一緒に生きていきたい……そう思ってさ」
 自分を覗き込む深い蒼色の瞳に哀は言葉では言い表せない安堵感に包まれた。全身の力が抜け、目の前のコナンがぼやける。
 「どうして……?」
 震える声に哀はいつの間にか自分の目から涙が流れていた事に気付いた。揺れる視界の向こうでコナンが苦笑すると彼女の身体をぐっと引き寄せる。
 「……バーロー、オメーの事が好きだからだよ」
 照れたように囁く声に哀はコナンの背中にそっと手を回した。



 「その後、博士に頼んでこの写真を撮ってもらったのよね……」
 あれから十年。震える自分の手を力強く握り返してくれた手は今ではすっかり男性のそれになり、解毒剤を飲まなかった少年は気が付けばかつてと同じ姿を取り戻していた。
 「私も……あなたの事が好きよ」
 愛おしげにフォトフレームを撫でるとそっと元の場所に戻す。その隣にはフロックコートのコナンとウエディングドレスの哀が笑顔で手を繋いでいる写真が置かれていた。



あとがき


 サイト10周年記念に「解毒剤を飲んだ新志or飲まなかったコ哀」というテーマで相方と競作しました。
 私の担当は「解毒剤を飲まなかったコ哀」です。十年のメモリアルというのではなく、敢えて二人の日常の一コマを書いてみました。解毒剤を飲まなかった後、共に成長する中で二人には様々なことがあったと思いますが、それらをきちんと積み上げながら十年という日々を過ごし、そしてこれからまた十年、二十年と時を重ねていくという二人という雰囲気を感じていただければ幸いです。
 最後になりましたが素敵な挿絵を描いて下さったm8様に感謝申し上げます。
(フルサイズのイラストはこちら!)