Thorn―『ある来訪者の残した謎』前夜―



 目を覚ますと焼け付くような喉の痛みに咳き込んだ。薄っすらと開いた目を窓の外に向けると、雪を纏った木々が闇の中に浮かんでいる。
(まるで監視されているみたいね……)
 そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走り身体が震えた。
 阿笠に抱えられて東都デパートから帰宅した時より幾分熱は下がったようだが、全身の倦怠感は一向に晴れなかった。小さな子供の身体では少しの発熱でも簡単に体力が奪われて行く。咳が出ないようそっと顔を横に向けると、先程目覚めた時に見えた阿笠の姿がパソコンの前から消えていた。
 (工藤君は帰ったのかしら……?)
 東都デパートで巻き込まれた殺人事件を解決した後、様子を見に来たらしいコナンの気配も感じられない。おそらく居候先の探偵事務所へ帰ったのだろうと哀はぼんやりとする頭で考えた。
 『知ってるか?そいつをかけてると正体が絶対にバレねーんだ……』
 『逃げるなよ灰原!自分の運命から逃げるんじゃねーぞ!!』
 『オレ、アイツと約束しちまったんだ……ヤバくなったらオレがなんとかしてやるって……』
 浅い眠りの中で断片的に見た夢のシーンが蘇り、目の奥が熱くなるが、熱のせいだとやり過ごす。組織の影がちらつくこの状況でコナンの言葉に支えられている事に、哀は今更ながら自分の弱さを呪った。
 (誰かに守ってもらう資格なんて私にはないんだから……)
 きつく閉じた瞼の裏に「お姉ちゃんは大丈夫だから」とウインクした明美の姿が浮かぶ。それは自分を守るために死んでいった姉の最後の笑顔だった。
 (お姉ちゃん……)
 哀は引きずられるように再び眠りに落ちて行った。


 「……ごめんなさい」
 久し振りの再会でいきなり志保が口にした言葉に明美は困ったような笑顔を向けた。
 「どうして志保が謝るの?」
 「だってライの……」
 「志保」
 『ライ』という名前が出た瞬間、明美は静かな声で妹の言葉を遮った。
 「彼と私の事はあなたには関係ないって言ったでしょ?」
 明美と交際していた諸星大という男がFBIの捜査官だった事が発覚したのは数ヶ月前。調査の結果、その男の目的が組織が長年開発を続けているAPTX4869とその研究責任者、すなわち志保だという事に組織内部は騒然となった。当然、明美も激しく追及されたが、元々組織とはほとんど関わりを持っていなかった事や、『シェリー』と呼ばれ組織でも重要な位置にいる志保の必死の取り成しもあり、厳しい制裁は受けずに済んでいた。しかし、次々に明らかになる事実は姉妹にとって辛い内容ばかりだった。
 ただでさえも研究に追われる日々の中、組織によって引越しまで強いられた志保は姉と直接会う時間もなかなか作れないでいた。僅かな電話とメールのやり取りはあったものの、いつもと変わらず自分を気遣う姉に志保の罪悪感は募るばかりだった。明美を利用したライという男は勿論許せないが、それ以上に姉が利用される発端になった自分自身が許せなかった。
 そんな志保の考えなど既にお見通しなのか、明美が諭すように続ける。
 「彼と出会うきっかけが何であれ、私達が別れたのはお互いにきちんと納得しての事よ。あなたは誤解してるかもしれないけれど、私はあの人に利用されたなんて思ってないわ。だから志保が謝る必要なんてこれっぽっちもないのよ」
 「でも、ライは私の研究を…!」
 「志保の研究を私が何も知らないって事はあなたが一番よく知ってるじゃない。勿論、彼も知っていたわ。大体、本当にあなたの研究が目的なら私はその時点で捨てられてたはずでしょ?」
 「それは……」
 「私達はお互いに惹かれ合って付き合って……そして別れたの。あなたが口出しする事じゃないわ」
 有無を言わさないような姉の口調に何も言い返せず唇を噛む。そんな志保を明美は「大体、妹に恋愛の事で謝られたら女としても姉としても立場ないじゃない」と、苦笑いとともに軽く睨んだ。
 「そうね、ごめんなさい……」
 「わかればよろしい」
 やっと笑顔になった妹に明美が取り留めのない話を始める。しかし、その時から志保の心には小さな棘が刺さっていた。
 (私さえいなければ……お姉ちゃんは幸せになれてたの……?)


 「ごめんね……お姉ちゃん……」
 夢の中で笑う明美に何度もそう伝えようとするが声は届かない。苦しさに顔を顰めた瞬間、額に冷たいタオルが置かれた。
 「悪かったな、姉さん助けてやれなくて。けどよ、オメーは絶対守ってやっから……」
 曖昧な意識の中、聞こえた声に哀は小さく頷くと再び夢の中へ沈んで行った。


 大きな暖かい掌の感触を額に感じ、静かに目を開けると阿笠が心配そうに哀の顔を覗き込んでいた。窓から入ってくる暖かい陽光が室内を照らしている。いつの間にか朝を迎えていたようだ。
 先程よりもずっと軽くなった身体をゆっくり起こすと阿笠からスポーツドリンクを差し出された。礼を言って飲み干すと、水分が身体中に行き渡るような感覚に思わず息をつく。
 「ありがとう、博士。心配かけてごめんなさい」
 「具合はどうかね?」
 「ずいぶんいいわ。それより工藤君は?」
 「新一なら蘭君を迎えに行ったよ。君に卵粥を作りに来てくれるそうじゃ」 
 蘭の優しさが嬉しいのだろう、阿笠の明るい声を聞き流しつつ哀は小さく咳き込んだ。喉の痛みと共に何とも言えない気分が胸の中に広がる。組織が迫っている今、自分と関わる事がどれほど危険なのかあの能天気な自信家は分かっているのだろうか?
 心配そうに背を撫でる阿笠を制しつつ、再び横になるとそっと溜息をつく。目を閉じると夢に見た明美の姿が浮かんだ。自分が原因で仲を引き裂かれた恋人達の姿に新一と蘭が重なり、哀は小さく頭を振った。
 もう二度と自分のせいで誰かが不幸になるのは嫌だった。そのためには。
 (全てを終わらせなくちゃ……) 
 そう胸に刻んで横を向くと、哀は布団を深く被って狸寝入りを決め込んだ。



あとがき



2010年「宮野の日」企画参加作品です。哀ちゃん視点で明美さんへの想いという、期せずして明美さん視点だった09年作「決意」と対のような作品になりました。
原作補完ものは制約も多いのですが想像の幅が広がるので書いていて楽しいです(今回は41巻、杯戸デパートから帰って来た夜の出来事という設定です)
この後、原作は怒濤の展開を迎える訳ですが、嵐の前の静けさという雰囲気を感じて頂ければ幸いです。