To wherever you like



 「灰原ー、腹減ったー」
 玄関の呼び鈴も鳴らさず、挨拶も無く入って来たのは隣家に住む高校生探偵。哀はキッチンからチラリと視線を送ると、目の前のコロッケを丸め始めた。
 「なあ、返事くらいしてくんねえ?」
 視線が合った瞬間、彼女に向けた満面の笑みを完全にスルーされた新一は拗ねたようにダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。
 「人の家に勝手に入って来て空腹を訴えるような人に何を返せばいいのかしら?」
 たとえそれが辛辣な言葉だったとしても、返事をしてもらえた事が嬉しかったのだろう。新一は機嫌良さそうに立ち上がると、哀に近寄って来てその手元を見た。
 「お、コロッケ。しかもオレの好きなゆで卵入りじゃねーか」
 「貴方の分があるなんて一言も言ってないけど?」
 「博士、留守なんだろ?なのにこれはどう見てもお前一人で食べきれる量じゃねえ。って事はオレとお前の分って事さ」
 「冷凍保存って手もあるし、どうしてこれが博士の分じゃなくて貴方の分だって分かるのかしら?」
 「一つ、食器が二人分出ている。二つ、最近また太ってきた博士にお前がコロッケなんて食べさせるはずがない」
 訝しげに尋ねた哀に新一は指を折りながら得意げな顔を見せた。ちょっと覗いたキッチンの様子さえ推理せずにはいられない探偵の性分に哀は心底呆れた顔をする。確かに阿笠は今朝から留守だし、今作っている夕食は新一と自分の分だった。
 「何より決定的なのは今日が金曜だって事だ。違うか?」
 ニッと笑って瞳を覗き込めば、哀はわずかに顔を赤くして視線を逸らせてしまう。そんな彼女が愛しくて新一は哀の頭をクシャリと撫でた。
 「……子供扱い、止めて頂戴」
 不機嫌そうな様子を繕って可愛くない台詞を吐く哀に新一は「悪ぃ悪ぃ」と返すものの、その台詞とは裏腹に楽しそうに微笑んだ。
 元の身体に戻ってからというものの、新一は金曜の夜はどれだけ遅くなろうと必ず阿笠邸に立ち寄り、阿笠、哀と夕飯を共にしている。最初のうちは毎週律義に現れる新一に不思議そうにしていた哀もいつの間にか慣れてしまい、翌日が休日という事もあって大抵は深夜まで阿笠と共に新一に付き合ってお茶を飲んだり話をしたりしていた。
 

 「手伝おうか?」
 「かえって仕事が増えるから結構よ」
 タネに小麦粉、卵、パン粉と要領よく付けていく自分の手元を面白そうに眺めている新一に顔を向ける事なく答える。しかし、新一は哀の素っ気無い態度など全く気にしていない様子だった。
 「今日の晩飯はコロッケと何?」
 「大根サラダとコンソメスープとほうれん草の胡麻和え」
 「オレの好物ばっかじゃん」
 「そうだったかしら?」
 クルリと背中を向けても首筋まで赤くなっているのは隠せないようで、新一は思わず微笑んだ。
 しばらく他愛の無い会話を続けていたが、ふと思い出したように「なあ、博士、一体どこへ行ったんだよ?」と、家主の行方について尋ねる。
 「NYよ。何でも発明の世界大会で特別賞に選ばれたんですって。今朝、嬉しそうに出掛けて行ったわ」
 「すげーじゃん!で、いつ帰って来るんだ?」
 「再来週の木曜よ」
 「再来週の木曜って……2週間も留守にするつもりか?」
 「授与式を済ませたらロスへ寄って来るって言ってたわ」
 「なんで博士がわざわざロスに……」
 「貴方のお父さんの知り合いに博士が開発した可変サスシステム搭載のラジコンを映画の撮影に使いたいと言っている人がいるらしくて…って、貴方、まさか何も聞いてないの?」
 「聞いてねーよ…ったく、人のこと何だと思ってんだ?」
  急に不機嫌になった新一に哀は「もしかして博士に何か急用だったの?」と首を傾げた。 
 「まあそうだったんだけどよ……」
 「困ったわね。急な話だったから滞在先を聞いてなくて……」
 「そっか…じゃ仕方ねえな」
 「私で出来る事なら手伝うけど?」
 哀の申し出に新一は黙って微笑むと、彼女の頭をポンッと軽く叩き、「電話して来る」とだけ言い残してキッチンを出て行った。


 コロッケの揚がる音と香ばしい匂いに空腹感を刺激され、新一はパソコンから顔を上げてキッチンの様子を伺った。そしてもう一度ディスプレイを見つめると、小さく一つ頷いてマウスを操作した。 


 綺麗に盛り付けられた料理を囲み、最初のうちは他愛ない話を交わしていたが、新一の口数が次第に減っていった。普段、何かと話題を切り出す彼らしくない態度に哀がそっと上目遣いで顔色を窺うと新一は目を逸らしてしまう。
 「どうしたの?」
 益々不思議そうな顔をする哀に新一は困ったように微笑んだ。
 「別に言いたくないなら聞かないけど?」
 興味なさそうに手元の皿に視線を戻す哀だったが、心中は穏やかではないようだった。
 この数年で哀は随分自分の気持ちを言葉や態度で表現するようになってはいたが、悲しみや心配といった負の感情を素直に出す事はまだ苦手なようだった。それは性格というよりは生い立ちによるものだろうが、哀自身が気付かないうちに身に着けてしまった習性のようなものでもある。
 そんな哀の本心に気付けるようになったのはいつ頃の話だっただろうと新一は思う。元の身体を取り戻し、高校生としての生活を過ごすようになって、あまりに離れてしまった彼女との距離に愕然とした。時間、環境、目線、今まで共有して来た全てが変わってしまう中でその距離を埋めようと必死で接点を求めた。その時、初めて哀を理解したいと思った。阿笠邸に通い、哀と他愛無い会話を交わすようになり、少しは彼女に近付けたのではないかと新一が思えるようになったのはここ最近の話だ。
 自分の事を心配しながらも、理由を聞けないもどかしさと葛藤している哀の姿に新一は覚悟を決める。
 「灰原、これなんだけどさ」
 ポケットから取り出した紙を広げると、それはロス行きの航空チケットの予約確認を知らせるメールだった。
 「工藤君もロスに行くつもりだったの?」
 「よく見ろよ。予約は2枚になってるだろ?」
 「ああ、博士と一緒に行くつもりだったのね?」
 得心したように頷く哀に新一は小さく溜息をつく。
 「バーロー、予約申し込みの日付は今日になってるだろーが」
 「あら?そういえば……」
 キョトンとした表情を浮かべる哀に新一は懐から封筒を取り出すと彼女に手渡した。封筒を手に、自分を不思議そうな目で見つめる哀にコクンと頷くと、哀は黙って封筒の中身を取り出した。
 中に入っていた物は紺色の表紙に金色の菊の紋の入った小さな手帳。
 「パスポート…?」
 訝しげに表紙を開くと哀の名前と写真が記してある。
 「これ…私の?どうして……?」
 驚いたように茫然と自分を見つめる哀に新一は「お前が『灰原哀』として生きていくと決めたって博士から聞いたからさ、父さんや母さんと相談してお前の戸籍を作ったんだ」とニッコリ微笑んだ。
 「戸籍があればいいって訳じゃねえけど、生きていくにはやっぱり必要だろ?それにお前には今までの分も自由に生きて欲しいからさ、単純だけどそのためにはまずパスポートかなと思って」
 新一と阿笠、そして新一の両親の願いが込められたパスポートを哀はジッと見つめている。
 「今日出来上がったから博士と三人でどこへ行くか決めようと思ってたんだけどよ……博士はしばらく帰って来ねえみたいだし。そうだ、せっかくだから二人で博士の晴れ姿を見に行かねえか?驚くぜ」
 「……工藤君、ありがとう」
 新一は泣き笑いの表情の哀の頭をクシャリと撫でた。
 「……今回ばかりは父さんと母さんに感謝しなくちゃな」
 「えっ?」
 「お前と二人きりの旅行なんて初めてだろ?」
 「……バカ」
 真っ赤になって俯く哀に新一は穏やかに微笑んだ。



あとがき



 久しぶりの新哀です。いつもよりは甘さが増していると作者は固く信じております。
 コナンと灰原の戸籍については色々と話題になる事もありますが、博士の養女になるとしても必要になるでしょうし、元に戻らないならやっぱり無いと困るかなという事でこんな話になりました。
 この後、NYで新一と哀は博士と一緒に有希子さんにロスまで有無を言わさず連れて行かれるという後日談があるのですが、それはまた別のお話という事で。