届かない声


 穏やかな午後の太陽の光とは裏腹に海から吹き抜ける風はまだ少し冷たさを残している。コナンはズボンのポケットに手を突っ込むと、大きなコンテナが建ち並ぶ港をゆっくりと歩き始めた。
 波の音を掻き消すような霧笛が轟く。数日前の夜、この場所でベルモットと対峙した時も同じ音が響いていた。予想外のアクシデントの連続を許した自分の詰めの甘さと逃がしてしまった組織への手掛かりに小さく舌打ちが出る。
 並んだコンテナで囲まれた道を進むうちに一つの行き止まりに差し掛かった。普通の人々から見れば周囲と変わらない風景だが、コナンがこの場所を見間違う筈はなかった。数ヶ月前にここで遭遇した事件の記憶は今でも鮮明に覚えている。徐々に弱くなる力で掴まれた手に込められた想いが今は痛い程理解できた。彼女の最期に立ち会ったこの場所のすぐ側で、その妹をも死の危険に晒してしまった事にコナンの背筋に改めてゾクリとしたものが走った。
 コンテナに背を預け、彼女が倒れていた辺りにぼんやりと視線を落とす。力なく横たわる彼女を前に泣き崩れる蘭から背を向ける事しかできなかったその場所には今はもう染み一つ残っていなかった。
 『広田雅美』という名前で彼女――宮野明美がコナンの居候である毛利探偵事務所を訪れたのは高校生探偵だった工藤新一が小学生の江戸川コナンになってそれ程時が経っていない頃、つまりその時まだ彼女の妹は本来の姿だった事になる。この事件がきっかけで自分と同じく新しい姿になったその妹が今は『灰原哀』という無二の運命共同体として己の全てをかけても守りたい存在になっている――そう思うと何だか不思議な気分だった。
 『どうしてお姉ちゃんを…助けてくれなかったの……?』
 記憶の中の明美の最期の姿に震えるような哀の涙声が重なり、コナンの胸の奥で何かが軋んだ。初めて垣間見た哀の素顔、思えばあれが本当の意味での自分達の出会いだったのかもしれない。
 (もし……あの時オレが……)
 一瞬、そんな思いが脳裏を過ぎるが、今更後悔したところでどうしようもなく、コナンは小さく頭を振った。だが――
 「明美さんだったら……アイツをきちんと叱ってくれましたよね……?」
 自嘲交じりの呟きは遠い霧笛の音に掻き消された。
 
 
 「彼女、危ういわ」
 一通りの事件の処理や事情聴取が済み、情報交換もかねて見舞いに行ったコナンにジョディは彼がベルモットに麻酔針で眠らされてしまった後の顛末を説明するとそう締めくくった。
 「『全てを終わらせに来た』なんて……全く動揺も見せずに言ったのよ」
 ジョディはそう言って肩をすくめようとするが、傷が痛むのか顔をしかめた。
 「アイツ…そんな事……」
 「あの子、どうやらベルモットに狙われてるみたいね。命を狙われると普通は死にたくないって思うものだけど……彼女の場合、組織の追跡に怯えてはいるけどそれは自分が殺される事に対する恐怖心じゃないんじゃないかしら?でなきゃ『私が生きている限りあなた達の追及は途絶えそうにないから……』なんてあんな静かな声で言えるはずないもの」
 バスジャック事件やツインタワービルから脱出した時の哀の姿がコナンの脳裏に蘇る。自分達を助けるために死を選ぶ哀の声はいつも毅然としていた。
 「かといってヒロイン気取りの自己犠牲とも違うわね。あのベルモットを前に終始冷静だったもの。一体何者なの?彼女……」
 「ごめん、今はまだ答えられないんだ」
 「そうね、ごめんなさい。今のは反則だったわね」
 「貴方がそう言うならこっちはこっちで彼女に接触させてもらうけどね」――内心の呟きを隠したものの、ベルモットに自分以外の人間の命は保証するよう交換条件を突き付けた哀の縋るような瞳を思い出し、ジョディは「ねえ、クールキッド」と再び口を開いた。
 「彼女は誰かを助けるためなら自分の命を投げ出す事なんて何とも思っていないわよ。いいえ、むしろ自分のせいで犠牲が出る事を何より恐れているんじゃないかしら?だとしたら……きっとまた繰り返すわよ?」
 「オレだけ助かっても何の意味もねーって……アイツ、何で分からねーんだよ……」
 無意識なのだろう、苦々しげにそう呟くコナンの横顔からは小学生の仮面がすっかり外れてしまっていた。
 「彼女を本当に守りたいなら……大切な人と一緒に生きる喜びをあなたが教えてあげるしかないんじゃない?」
 思わず零してしまった忠告はFBI捜査官としては不適切で、ジョディは今度こそ小さく肩をすくめると苦笑した。

 
 組織と接触した際、哀が自分達の前から消えようとしたのは今回が初めての事ではなかった。その度に「もっと自分を大切にしろ!」と怒りをぶつけて来たが、コナンの想いは彼女には全く届かなかった。
 「私がいなくなっても何も変わらないでしょう?」
 そうあっさり切り捨てるように言う哀にコナンは愕然とした。
 「『工藤新一』には待っている人がたくさんいるわ。でも、私がいなくなっても別に何も変わらないじゃない」
 「……バーロー!んな訳ねーだろ!お前に何かあったら博士や歩美達が悲しむだろーが!」
 「そうね。でも……元々いなかった人間の事なんかきっとすぐに忘れちゃうわよ」 
 そう言って宥めるように微笑む哀に彼女が自分が思っている以上に周囲の人達から愛されているという事実、そして何よりコナン自身が自分と一緒に生きて欲しいと願っている事――そんな簡単な事さえ上手く伝えられない己の経験値の無さを初めて悔しいと思った。
 そんな矢先、阿笠が宮野博士の幼馴染だというデザイナー、出島の話を持ち出した。組織が絡むと神経質なほど怯えるくせにそれを押し殺してまで両親の消息を欲した哀にさすがのコナンも驚いた。しかし、それが自分の母親に会っての事だと言われるとついて来るなとは言えなかった。母、有紀子は親バカな勘違いをしていたが、本当は不思議そうに自分達のやり取りを見つめていた事にコナンは気付いていた。哀の視線の意味が理解できる程に自分も彼女を見つめて来たのだから。
 そして思いがけず手に入った哀の母、エレーナの肉声が入ったテープから流れて来た声を聞き、彼女の母親はまさしくエンジェルだと確信した。母の声に聞き入る哀の表情に少々悔しさを感じたのは否定できなかったが、彼女がその「声」から自分がどれだけ愛されているのか気付いてくれたらとそれだけを願った。
 しかし現実はそう甘いものではなく、ベルモットの前に哀は再び躊躇いもなく身を曝したのだ。
 「おめーを愛してるんだ。一緒に生きていきたい」
 いつかこの気持ちを彼女に伝えるまで絶対に守り抜く――それが自分の役目だとコナンは改めて心を引き締めた。


 ひんやりとした風が埠頭を吹き抜ける。大分回復したとはいえ風邪が治ったばかりの身体に三月の夕暮れは少々堪えたようだ。
 コンテナから背を離すと明美が倒れていた場所に向かって小さく頭を下げる。ジョディの話では組織のスナイパーに狙われ、絶体絶命だった哀と蘭を助けてくれたのはFBIの仲間だったらしい。しかし、全くらしくない非論理的な発想に我ながら呆れながらも妹を想う明美の意志が哀を守ってくれたように感じられて仕方なかった。
 「あなたの大切な妹は絶対オレが守ってみせますから……」
 眼鏡の奥の蒼い瞳に決意が光る。
 ひときわ大きな霧笛の響きを背にコナンは埠頭を後にした。



あとがき



 2011年「宮野の日」企画参加作品です。原作42巻「ベルモットとの対決」の数日後設定で、2010年参加作品「Thorn―『ある来訪者の残した謎』前夜―」と少しリンクさせています。実は参加させて頂いた作品とは台詞を少し変えています。原作時系列の作品はなかなか甘い展開になってくれませんが、本人はこれでもコ哀のつもりで書いています。