「クソッ!あのガキ…!」
「一体どこ行きやがった!?」
壁超しに聞こえて来る怒号に耳を澄ませる。どうやら自分を追跡していた男達は200メートル程先の角を曲がったようだ。組織が壊滅して既に6年、『シェリー』と呼ばれていた当時培った術が自分を助けてくれた事に哀は皮肉な笑みを浮かべた。
(判断は甘いし、身体能力も低い……それほど訓練されている連中ではないようね)
小さく息をつき、探偵バッジのスイッチをオンにしてみるが、ザーッというノイズ音が虚しく返って来るだけだった。子供のオモチャのような見た目とは裏腹に天才、阿笠博士の手によって生み出された通信機器は余程の妨害がなければ遮断される事はない。個々人の実力はともかく、どうやら哀が対峙しているテロリスト達はあまり油断出来る相手ではないようだ。
(このまま隠れていても進展しないわね……)
そうはいっても先程テロリストから接収した銃の残弾だけでは少々心許ないのも事実だった。
(何とか脱出しないと……!)
哀は残弾の数を確認すると、男達が曲がって行った角とは反対方向へ走り出した。



Voi che sapete



その日、少年探偵団が招待されたのは鈴木財閥が新たに開発した湾岸地域の目玉、ベルツリーランドのオープニングイベントだった。一通り園内を散策し、いよいよレセプションが始まるとアナウンスがあったその時、突然会場内の照明が暗転し、メインモニターに髭面の男が映し出された。「観客を人質にベルツリーランドを占領する!」と男に宣言されたのが数時間前。新一と共にテロリスト達の企みを調べていくうちに彼らの切り札がVIP客を収容しているイベントホールに仕掛けられた遠隔操作も可能な毒ガス噴霧装置である事が分かった。
装置の解除だけならともかく、毒ガスそのものの対処に当たらなければならなくなった場合、さすがの新一でも手に余る事は明白だった。そもそも警察組織との連携役を担っている新一が犯人グループの中枢へ潜入する事など出来るはずもない。危険なミッションを哀一人に任せる事に最後まで難色を示していた新一だったが、「無事に潜入出来たとして通信手段が遮断されたらどうする気?」という哀の指摘に渋々了承した。
イベントホールへ潜入した哀は無事に毒ガス噴霧装置を無効化し、VIP客を安全な場所へ避難させる事が出来た。が、初老のVIP客をスタッフルームへ匿うところを敵に見付かってしまったのである。
(これだけ執拗に私を狙うって事は……VIP客の現状は外部へ漏れていないのね)
彼らが哀を口封じしようとしている事は明白で、だからこそ哀が無事に脱出する事は新一にとって逆転の一手になるはずだ。


犯人グループと何度か遭遇しそうにながらもギリギリで切り抜け、哀は楽屋とおぼしき一室へ入り込んだ。壁に貼ってあるイベントホールの館内地図を見ながら脱出ルートをシミュレーションする。今潜んでいる部屋は楽屋というだけあってホールの最奥に位置しているものの、裏口までの距離は比較的近かった。新一が現在の状況と哀の思考を読んでいれば脱出は可能だろう。しかし、外部との通路となる裏口には間違いなく見張りがいるだろうし、大人数で追い込まれ挟撃されればそれまでだ。
(どこかに大人しく身を潜めているべきかしら……?)
しかし、これ以上緊張状態が続くのはキツイものがある。広い館内を逃げ回ったせいで体力もそろそろ限界だ。ここは勝負に出るしかない。
哀は一息つくと床に座り込んだ。
(少しでも体力を回復しておかないと……)
園内を散策していた時、歩美に飴を貰った事を思い出し、ポケットに手を伸ばす。口に入れた瞬間広がるミルクの味は普段の哀にとって甘過ぎるものだが、疲労した身体には嬉しいものだった。
口内に広がる甘みに哀はここ最近ずっと考えている事由を思い出した。組織にいた頃から命の危険を感じる時に限って何故か研究のアイデアが浮かんだり、問題点が閃いた事がある。
(そういえばさすがのジンも呆れてたわね……)
阿笠の元で平和に暮らすようになって6年以上経つが、自分の感覚が人とは違うと気付いたのはさほど昔の話ではなかった。


『恋』とは――
自分でも笑いそうになるくらい甘くて乙女チックなトピックだが、この数年哀はずっと頭を悩ましていた。
事の始まりは6年前。組織が崩壊し、『江戸川コナン』は工藤新一に戻り、哀は『灰原哀』として新しい人生を歩み始めた。
ある日、哀は阿笠邸へやって来た新一に突然「お前が好きだ」と告げられた。いつまでたっても関係を進めない新一と蘭を訝しく感じながらも、もはや二人の問題であり、自分には関係ないと思っていた事が斜め上の方向から降りかかって来たのである。
新一に言わせれば蘭に対する感情は恋ではなく家族愛のようなもので、哀への思いこそ恋だと気付いたとの事だが、そもそも『恋』という曖昧な表現に哀は「はぁ?」と返す事しか出来なかった。
「灰原がオレに恋して、オレの気持ちを理解して受け入れてくれるまで……いつまでもオレは待つぜ?」
どうせそんなあやふやなものはすぐに消えるだろうと思っていたのだが、それ以来新一は何かと理由を付けては阿笠邸に出入りし、探偵団と交流を続けつつ哀の傍に居続けている。この6年間、新一から哀に向けられる感情はとても温かくて心地いいものであり、哀の中にも新一に対する感情が育まれているような気はするが、それが『恋』というものなのか哀には判断出来なかった。日毎に大きくなるこの想いが『恋』なのか――目下のところ哀が最も力を入れている研究課題である。


『恋ってどんなものかしら?』
最近、幼馴染の少年への恋心を自覚したという歩美がそう問う哀に教えてくれたのは――


『うーん……いつもその人の事を考えたり……?』
確かに今、哀は新一の事を考えている。しかし、自分が新一を意識するのは仕方ない事ではなかろうか。いつも突然現れては食事の催促をしたり、どこかに遊びに連れ出したり、事件に巻き込んでくれたり……と、ビックリ箱のような男なのだから。
(材料の量を調整したり予定を変更したり助手扱いされたり……振り回されるのはいつもこっちなんだから…!)
己の理性がヒートアップして来た事に気付き、哀はこの点は保留にして次の論点へ移る事にした。


『えっと……どこに行くとかじゃなくてさ、一緒に出掛けるだけでワクワクするんだ』
「私は興味ないんだけど……」と断った上で歩美がスポーツ用品店や釣具屋へショッピングに行ったと嬉しそうに話していた事を思い出す。
(確かにベルツリーランドに興味があった訳じゃないけど……)
今日ここを訪れたのは付き合いのようなものだし、そもそも一緒に来るのは阿笠のはずだった。その阿笠がギックリ腰で動けなくなり、がっかりする探偵団を見かねた新一が引率者に名乗りを上げたのである。喜ぶ三人を他所に哀はまた事件に巻き込まれるのではないかと嫌な予感に捉われた。が、それも一瞬、新一が嬉しそうにエスコートする姿にその予感はすっかり今日という日への期待感に替わっていたような気もする。
(でも、ここへ来たのは元々の予定だし……おまけにやっぱり事件に巻き込まれたじゃない……!)
脳内で怒りが爆発しそうになり、哀はこの点も保留する事にした。


『嫌な事があった時や辛い時、心細い時、傍にいてくれたらな……って思っちゃうの』
頬を染めて歩美がくすぐったそうに呟く。
(私は……)
今、傍にいて欲しい人物は誰か?と問われれば間違いなく『工藤新一』と答えるだろう。自分の判断が間違っていたとは思わないが、新一が傍にいない状況がこんなにも心細いとは思わなかった。
(工藤君……)
哀は自分でも気付かないうちに膝をギュッと抱えた。


『でもね、頑張って乗り越えたら彼に会えると思うとそれだけで凄く力が出るんだ』
(そう……よね)
無事にここから脱出して新一に会わなければ。
哀は自分を奮い立たせるかのように勢いよく立ち上がった。
『私を信じてくれてるって思えるし、私も彼の事信じてるんだよね』
(工藤君なら絶対私の考えを読んでいるはずだわ)
新一は絶対裏口付近で待機している――疑いなくそう信じている自分に哀は苦笑した。
(どうやら私はとっくに彼に恋してたようね……)
吊り橋効果ってヤツじゃないかしら?といつもの自分なら突っ込むだろう。しかし今、そんな捻くれた思考は浮かばなかった。
(工藤君と一緒ならどうせ一生吊り橋の上よね)
少しでも速く走って一瞬でも早く新一に会いたい――哀は腰の後ろに差していた重い銃を投げ捨てると、楽屋の扉を開け、裏口の方向へ駆け出した。


「灰原…!!」
追っ手を躱し、裏口の扉から飛び出して来た哀を新一はガッシリと受け止めた。新一の腕の中で息を切らしながら哀はその背中に手を回す。脱出成功の安堵感と新一の体温から感じる温もりが張り詰めていた哀の神経を解きほぐして行った。
「灰原…?」
いつもと違う哀の様子に新一が心配そうに彼女の顔を覗き込む。その瞳を見た瞬間、どうしようもないほどの愛しさがこみ上げ、哀は無意識に背伸びすると新一に口付けた。
「えっ…!?」
狼狽して顔を赤らめる新一に哀はクスッと微笑んだ。


「工藤君、私ね、貴方に『恋』してるみたい」



あとがき



コ哀・新志・新哀・コ志4CPWebオンリー「5×1」アンソロ参加作品です。
普段から甘さ控え目で定評ある当サイトにおいて更に甘さから程遠い私がまさかのお題「恋」に挑戦しました。
タイトルはモーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』のアリア(邦題『恋とはどんなものかしら』)から――ではありますが、『三分でクッキングする某番組の曲』と言った方が分かりやすいかもしれません。
タイトルに偽りなし!ですよね……?
原作ではコナンに振り回されている哀ちゃんですが、これからはどんどん振り回していって欲しいものです。