カーテンから差し込む穏やかな日差しが閉じた瞼に朝の訪れを告げる。無意識に隣にあるはずの温もりへ手を伸ばしても掌は冷たいシーツの上を虚しく滑るばかりだった。一晩中ほとんど眠れなかったせいで頭がぼんやりしている。寝癖のついた髪をガシガシと掻き毟ると新一は小さく溜息をつき、やけに広く感じられるベッドを降りて寝室のカーテンを開けた。
 心中とは裏腹に雲一つない青空が広がっている。降り注ぐ穏やかな日差しに庭に植えられた木々も束の間の日光浴を楽しんでいるようだ。時計を見ると午前9時を少し回ったところ。どこかへ出掛けるにしても家でのんびり過ごすにしても一日を楽しむには充分な時間である。少し前に二人で観たいと話していた映画がそろそろ封切りになる頃だし、クリスマス・イヴの華やかな街をぶらつくのも悪くない。いや何だっていい、とにかく今日は彼女と一緒に過ごそうと思っていたのに……
 「もう……好きにすれば?」
 頭の中に昨夜聞いた志保の押し殺したような声が響いた。涙を堪えていたような少し擦れた声と小さく震える後姿を思い出し、後悔ばかりが募る。
 服に着替え階段を降りるとキッチンへ向かう。いつもなら朝食の準備をしているはずのエプロン姿は当然のように見当たらなかった。一緒に夜を過ごした翌朝、向かい合って食事をとる事にいつまで経っても慣れず、照れ臭さを誤魔化すような会話と一緒に流れる時間がどれほど幸せだったのか今更ながら思い知らされる。
 (クソッ…!)
 一気に飲み干したインスタントコーヒーは酷く苦かった。


  
ヤドリギの木の下で


  数日前から関わっていた事件をようやく解決し、自宅へ戻った新一は出迎えた志保の硬い表情に苦笑いを浮かべた。
 「悪ぃな、実験中だったんだろ?」
 「そう思うなら怪我しないように気をつけてくれない?」
 「仕方ねーだろ?犯人確保しようとしたらいきなりナイフを持って暴れ出したんだからさ。通行人を人質に取られたら何かと面倒だし……」
 「高木刑事に聞いたわ。被疑者を取り押さえた時に切られたんですってね」
 「ああ……ったく、まさかあそこまで追い詰められていきなり開き直るなんてな」
 「あなただって『窮鼠猫を噛む』って言葉くらい知っているでしょう?」
 「そりゃ……ま、とにかく無事に解決して良かったぜ」
 「こんな怪我をしてどこが無事なのよ」
 新一とて志保が不機嫌になる理由は理解出来る。APTX4869とその解毒剤の影響からどんな副作用があるか分からない事もあり、簡単な外科的治療であっても新一の治療には必ず志保が立ち会っていた。実験を放り出して駆け付けてくれる事もしばしばで、その度に申し訳ないとは思っている。しかし今日みたいにやむを得ない事情がある事を理解してくれてもいいのではないだろうか……?
 幸い傷は思ったよりも浅かったようで、手当てを済ませた志保はホッとした様子だった。
 「悪かったな。お詫びに明日はオメーに一日付き合うからさ」
 「結構よ。誰かさんのせいで今日の実験をやり直さなきゃいけないから」
 重い空気を誤魔化そうと気を遣ったつもりがあからさまに不機嫌な態度で返され、新一の中に苛立ちが生まれる。コナンと哀だった時から周囲から驚かれる程容赦無い言葉を交わし合っては来たが、それは二人にとっては単なる言葉遊びに過ぎなかった訳で。むしろ彼女の鋭利な指摘や切り替えしから受ける知的興奮が楽しくて、議論を挑んでは最後に呆れられるのが常だった。今日のようにとりつく島がない態度を返された記憶はほとんどない。
 「何怒ってんだ?」
 「別に怒ってないわ。呆れてるだけよ」
 「んだよ、言いたい事があるならハッキリ言えよ」
 「どうせあなたには何を言っても無駄でしょ?」
 「言わなきゃ分かんねーだろ?オレが何したっていうんだよ?せっかく事件解決して帰って来たっつーのに何が不満なんだよ?」
 新一の言葉に志保がキッと強い視線を向ける。
 「私、普段からあなたに『事件に夢中になって怪我をしないように』って注意してるわよね?」
 「そ、そりゃ……けどよ、今日の場合は仕方ねーじゃねーか!」
 「先週犯人と揉み合った時も同じ事言ったけど?」
 「あ、あれは……あそこで犯人を止めねーとヤバイと思って……」
 「目の前の事件を解決すればそれでいいという話じゃないでしょ?ただでさえ私達はAPTXの影響で普通の身体じゃないのよ!?」
 「オメー、オレの行動が全て間違いだっていうのかよっ!」
 正論を並べられ、苛立ちを抑えられなくなった新一が声を荒げて志保の言葉を遮った時だった。
 「もう……好きにすれば?」
 震える声でそれだけ言うと志保は踵を返して工藤邸のリビングから出て行ってしまった。


  押し殺したような声音に彼女がどれだけ自分の体を心配してくれていたかをようやく身に沁みて理解したが、それはもはや後の祭りだった。電話帳から志保の携帯番号を呼び出してかけるも虚しく留守番電話に切り替わる。昨夜からもう何度目かの「留守番電話サービス……」という電子音声にいっそ隣へ押し掛けようかと思い立つものの、自分の鈍感さを思うと彼女に会わせる顔などなく、加速度的に落ち込みが増すばかりだった。クリスマスデコレーションされた華やかな街の喧騒に背を向け、工藤邸のリビングで一人どれくらい時間を過ごしただろう。握りしめていた携帯が振動し着信を知らせた。
 「も、もしもし!」
 「あ、あの……工藤君?」
 噛みつかんばかりに出た電話口で聞こえたのは今一番聞きたい人の声ではなく上擦った男のものだった。
 「あ……高木刑事……すみません、いきなり怒鳴ってしまって……」
 「いや……それより何かあったのかい?君がそんなに興奮するなんて……」
 「いえ……掛かって来るかさえ分からない電話を待っていただけですから……」
 「だったらいいんだけど……それはそうと昨日の事件の事で少し君に聞きたい事があってね、悪いんだけど……」
 「分かりました。今からそちらへ伺います」
 「本当に悪いね。君も忙しいのに……」
 「いえ。それじゃ後ほど」
 何か言いたそうな高木を無視してさっさと電話を切ると新一は身支度を始めた。我ながら後ろ向きだと自嘲しつつも予定が埋まった事にホッとして家を出る。もしかしたら志保がこちらの様子を覗いているのでは……と未練がましく視線を隣家に向けるも阿笠邸の大きな窓はカーテンが閉められていた。
 (我ながら情けねえよな……)
 虚しさを振り切るように首を振ると新一は足早に警視庁へ向かった。


 「工藤君、ごめんなさいね。せっかくのクリスマス・イヴだっていうのに……」
 すっかり馴染みになった警視庁刑事部捜査一課に顔を出すと佐藤美和子刑事が申し訳無そうに迎えてくれた。
 「いえ、特に予定はありませんでしたから。それでボクに聞きたい事って何でしょうか?」
 「こっちに来て資料を見て欲しいんだけど……」
 新一の口調に美和子は一瞬意味ありげな視線を送ると自分のデスクの方へ促した。
 「この写真なんだけど……」
 「ああ、これはですね……」
 パソコン画面に映し出された現場写真を確認していると高木がコーヒーを持って来てくれた。
 「そういえば工藤君、昨日の怪我は大丈夫だったのかい?志保さんにも心配かけちゃっただろ?」
 にこやかに言う高木にコーヒーをぶっかけてやりたい衝動に駆られる新一だったが、何とか抑えると「え、ええ、まあ……」とだけ答えた。
 「もしかして傷、思ったより酷かったのかい?大丈……ッテェ!」
 空気を読まない高木を美和子が力ずくで黙らせると「工藤君、ここは?」と強引に話題を変えてくれる。美和子なりの小さな気遣いに感謝しつつ、新一は脳裏に甦った昨夜の志保の声をコーヒーとともに無理矢理流し込んだ。


  「ありがと。助かったわ」
 最後の写真を確認してディスプレイから頭を上げる美和子にホッと息をつき、時計を見ると既に一時間近く経過していた。画面に集中していたせいでさすがに肩が凝ったのだろう、新一の横で美和子がグルグルと首を回している。
 「あ〜、疲れた!やっぱデスクワークより犯人追っ掛けてる方が楽ね」
  敏腕刑事らしい台詞に新一は苦笑すると「それじゃボクはこれで……」と椅子から立ち上がった。が、美和子に「少し休んでいったら?美味しいお菓子もあるし」と引き止められてしまう。
 「ちょっと待ってて」と有無を言わさない調子で部屋から出て行ってしまう美和子の後姿に溜息をつくと新一は祈るような思いで携帯をチェックする。が、その願いも虚しく志保からの着信履歴はなく、メールが入っている様子もない。溜息とともに携帯のディスプレイを眺めていると突然目の前にスッと皿が差し出された。乗っていたのはイギリスのクリスマスの定番菓子、ミンスパイだった。
 「佐藤刑事、これ……?」
 驚いて顔を上げると美和子の手にもミンスパイが乗った皿があった。唯一違う点はそちらの皿にはしっかり二つキープされている点である。
 「うん、美味しい!」
 目を丸くする自分を他所に一人さっさとミンスパイを口に運ぶ美和子に新一も一口頬張った。中に入っているのはミンスミートと言われるブランデーに浸されたドライフルーツで、レーズンが苦手な新一にとってそこがこの菓子唯一の欠点だった。
 「美味しいんだけどレーズンの味が気に入らない……でしょ?」
 内心を見透かしたような言葉に目を見張ると美和子が面白そうに口角を上げて自分を見つめている。
 「これ、志保ちゃんがくれたのよ。『工藤君はレーズンが苦手なので……』って私のためにわざわざ別に作ってくれたの」
 「ホントにいい娘よね♪」と続ける美和子の言葉は既に新一の耳には届いていなかった。
 「これ、志保が作ったんですか?『わざわざ』って一体……?」
 矢継ぎ早に問う新一に美和子はじらすように最後の一欠片を味わってから思い出すように語り始めた。
 「一ヶ月くらい前だったかな?由美と二人で色々愚痴ってたらね……」


 「ハア〜、結局、今月の連休も仕事で潰れちゃったな……」
 「こんな仕事やってると休みもイベントも関係ないからね〜」
 交通課に勤務する親友、宮本由美に誘われ、久し振りにお洒落なランチを楽しむ事にした美和子だったが、口を衝いて出るのは愚痴ばかりだった。警察官という職業を選んだのは自分だし、仕事にやりがいは感じているものの、一週間前に起こった事件の際の犯人に対する発砲が過剰防衛と判断され、3ヶ月の減給を食らった身としては致し方ない事かもしれない。
 「休み取って旅行の計画しても急な呼び出しがあればパァでしょ?これじゃクリスマスもどうなることか……」
 「なるほど?それで高木君がしょげてたんだ。『佐藤さんとのクリスマス温泉旅行が……』とか何とか呟いてたしv」
 「もう……由美ったら、からかわないでくれる?大体何よ、クリスマス温泉旅行って……」
 頬を膨らませたその時、美和子の目に見覚えのある赤みがかった茶髪の女性が映った。
 「志保ちゃん……?」
 どうやら相手もこちらに気付いたらしく、「こんにちは」と頭を下げると二人がいるテーブルの方へやって来る。
 「珍しいわね、こんな所で会うなんて」
 「工藤君に頼まれて目暮警部に資料を届けて来た帰りなんです」
 「そういえば工藤君、この前の連休も事件現場へ呼び出されてたわね」
 「え、ええ……出先から慌ててタクシーに乗って行ったので私もよく覚えています」
 「『出先から』って……工藤君、志保ちゃんをデートの途中で置き去りにしたの!?」
 驚いたように目をみはる由美に志保は困ったような微笑みを浮かべると「いいんです。探偵じゃない工藤君なんて工藤君じゃありませんから」と肩をすくめた。
 「でも……大変じゃない?そんなんじゃいつ予定をすっぽかされるか分からないし……誕生日やクリスマスみたいなイベント、恋人なら一緒に楽しみたいでしょう?」
 「確かにそういう気持ちもなくはないんですけど……もう慣れっこっていうか……だから逆にそういうイベント関連の事は企画しないようにしているんです。彼が気にするといけないので……」
 「志保ちゃんはそれでいいの?」
 「一人で過ごす事は慣れてますし。彼が事件を解決して何事もなく帰って来てくれればそれでいいんです」
 「一般人の志保ちゃんがここまで理解してるのに……ねえ由美、私達ちょっと情けなかったわね」
 「ま、まあね。でも……そこまで理解するのは私には無理かも……」
 エへへと笑う由美に美和子は苦笑すると「だったら今度のクリスマスも予定なし?」と再び志保へ視線を向けた。
 「何もないのも悲しいのでミンスパイくらいは作ろうと思って……仕込みだけはしているんです。あれなら日持ちしますし、工藤君、ホームズフリークなのでイギリスのお菓子なら喜んでくれると思うので……」
 「彼には内緒ですよ」と悪戯っぽく笑う志保に美和子も思わず「私も日持ちするお菓子でも買っておこうかな……」と独り言のように呟いていた。
 「美和子ったら……らしくない事言っちゃってv」
 すかさず突っ込む由美を睨む美和子に志保がクスッと笑うと「あの……」と口を開く。
 「いつも工藤君がお世話になってますし……よかったら今度差し入れしましょうか?」


  「ミンスパイを持って来てくれた時に志保ちゃんが教えてくれたの。工藤君はレーズンが苦手だって」
 『工藤君の分はレーズンを抜いた物を別に作ってあるんです。だからこれは由美さんと分けて下さいね』
 美和子が教えてくれた志保の台詞はいかにも彼女らしいもので、新一は皿の上に半分残ったミンスパイを複雑な思いで見つめた。「クリスマス、どっか行くか?」と尋ねる自分に「クリスチャンでもないし……別に何もしなくていいんじゃない?」と答えた事を思い出す。冴えた容貌と素っ気ない態度のせいで周囲からはきつい性格と思われている志保だが、その言葉の裏にある細やかな心配りと不器用な優しさに気が付けばいつも救われて来た。彼女の優しさに甘え、傷つけてしまった事に再び後悔の溜息がこぼれた。
 「工藤君、志保ちゃんと喧嘩したんでしょ?」
 「……」
 「大丈夫。志保ちゃん、ミンスパイを作って君を待ってるはずよ。早く行って仲直りなさい」
 美和子の言葉に新一は弾かれたように立ち上がると挨拶もそこそこに捜査一課を飛び出した。携帯で志保の番号を呼び出す。数度のコールの後、切り替わった留守番電話の音声にも構わず喋り出した。
 「志保、オレだ。昨日はゴメン、オレが悪かった。やっぱオレ、クリスマス・イヴはオメーと一緒に過ごしたいんだ。今夜オレん家に来てくれないか?オメーが来てくれるまでずっと待ってるから……!」
 エレベーターを降りると目の前に停まっていたタクシーに飛び乗る。
 「米花町二丁目……あ、その前に米花デパートへ寄って下さい!」


 自宅へ戻り、急ピッチでクリスマスパーティーの準備を済ませると窓の外はすっかり暗くなっていた。隣家に視線を向けると温かな明かりが灯っている。どうやら少年探偵団の三人組が来ているらしく、賑やかな声が聞こえて来た。
 (やっぱ来てくれねーか……)
 ガックリと肩を落とした時、玄関のチャイムが鳴った。慌てて駆け寄りドアを開けると上目遣いで睨む志保の姿があった。
 「私……怒ってるのよ?」
 「分かってるよ。ごめん」
 「今……博士の家で子供達とクリスマスパーティーやってるの。それなのに……あなたの事ばかり気になっちゃって……」
 「志保……」
 新一は震える手で志保を抱きしめるとそっと唇を重ねた。驚く志保に「上、見てみろよ」と視線を促す。瞳に映ったのは一本のヤドリギの枝だった。
 「『Kissing under the mistletoe』……イギリスの風習ね。いかにもホームズフリークのあなたが考えそうな悪戯だわ」
 「『ヤドリギの下ではキスしても誰も拒めない』ってな」
 「本当……狡い人ね」
 緑柱石の瞳を覗き込むと呆れたように志保が呟く。いかにも彼女らしい反応に新一は満足そうに微笑むと啄むような口付けを落とした。