五藤夫婦が帰ると再び客足は途絶え、店内はラジオから流れる音だけが穏やかに響き渡った。注文の電話は数本かかって来るものの、基本的に得意先に関しては元太の父、元次が配達のついでに受注して来る事になっているらしく元太と哀だけで充分対応できた。
 店の外に設置された自動販売機で冷たいドリンクを購入していく客の姿は途切れる事なく見えるものの、流石にこの暑さの中、重い荷物を持つと分かっていて酒屋へやって来る人間は少ないのだろう。先程まで張り切って店を切り盛りしていた元太も一息ついたのか、カウンターテーブルの入口近くに座り、五藤夫婦からもらったクッキーを食べながら携帯ゲーム機を弄っている。その様子に哀も小さく息を吐くとカウンターの奥に腰を下ろし、レジの横に置いてある新聞を手に取った。
 家主である阿笠も哀も普段からそれほど熱心に新聞を読む方ではないが、阿笠邸では全国紙、経済紙とも数紙を購読している。とはいっても読んでいるのは専らコナンで、阿笠も哀も一番上にある一紙に軽く目を通すくらいだ。そもそもニュースなどテレビとネットで充分事足りるし、哀が一番気になる化学分野の最新情報など新聞には望めない。毎日学校帰りに阿笠邸で小一時間かけて新聞をチェックしていくコナンの情報収集に対する貪欲な姿勢に呆れつつ、阿笠と二人ぼんやりテレビを眺めているのが哀の日常だった。
 ところで今、哀が手にしているのはブロック紙と呼ばれる地方新聞で、阿笠邸の購読紙には含まれていない物だった。全国紙とはニュースの中身が随分違い、一面のトップニュースからして「米花神社 平成の大改修へ」というローカルな見出しが躍っている。地元の人間を相手に商売する小嶋酒店にとってはこういった情報の方が有益なのだろうと、物珍しさもあって哀は一面からゆっくりと活字を追っていった。
 都内でも有数の歴史を誇る米花神社の改修はかなり大規模になるらしく、数ページに渡って紙面が割かれている。記事によると米花神社は商売を司る算盤の神様で、算盤というユニークなところが和算家と呼ばれた江戸期の日本の数学者達の信仰を集めていたらしい。
 そういえば社殿には算額といわれる江戸期の数学者達の研究結果を奉納した扁額が幾つも掲げてあったと、先日探偵団の面々と行った米花神社の夏祭りで見た風景を思い出す。
 屋台で買った食べ物を両手に抱えて嬉しそうな元太、白地に朝顔を染め抜いた浴衣と桃色の兵児帯が似合う歩美、その歩美の浴衣姿を一生懸命褒める光彦、はしゃぐ子供達を宥める阿笠、そしてそれを後ろから面白くなさそうに眺めているコナンとそんな彼を冷たくあしらう自分……数日前の様子が鮮明に蘇る。日常の風景と言ってしまえばそれまでだが、そんな何でもない日常がとても楽しく、大切なものだと思えてならない。そしてそれを素直に認められるようになったのは元太達三人の影響だろう。
 (こういうのを環境の変化に順応したって言うのかしら…?)
 常に成長している子供達を前に頑なに変化を拒んでいては柔軟性と合理性が必要とされる化学者として失格だ……そう自分に言い聞かせると哀は視線を紙面に戻した。

 
 「母ちゃん遅えなあ……」
 元太の声に新聞から顔を上げ、時計を見るととっくに正午は回っていた。元太の母が店を飛び出してから既に三時間が経過している。緊急事態とはいえ、小学一年生の息子をほったらかしにしていい時間とは言えないのではないだろうか。ましてや元太の母は元気過ぎる元太と江戸っ子を地で行く元次の世話を一手に引き受けているしっかり者だ。
 (何かあったのかしら…?)
 そんな予感に哀が頭を巡らせたその時、「もうだめだ……オレ、腹へって死にそう……」という情けない声と共にグーッという大きなお腹の音が店内に響いた。
 「あなた、さっきクッキー食べてたじゃない」
 「あれっぽっちで腹が満腹になる訳ねーだろ!昼飯どうしたらいいんだよぉ……」
 「嘆いていても仕方ないでしょう?お母さんに電話してみたら?」
 「母ちゃんに電話って言ってもなあ……」
 言い淀む元太にその視線を辿ると一台の携帯電話が目に入った。おそらく元太の母の物だろう。店を出て行った時の様子を思うと忘れたのも仕方あるまい。ならば…と、店の奥にある固定電話で会長が経営する子豹堂に電話してみるが、誰も出る様子はなかった。次に一場の携帯の番号を呼び出すものの、こちらは「電源が入っていない」という無機質な機械音声が流れるだけだ。仕方なく小嶋酒店に連絡して欲しい旨の伝言を残すと通話を切る。
 「母ちゃん……」
 空腹に加え母親に連絡が取れない事態に動揺する元太に先程五藤夫婦から貰ったクッキーを渡して宥めると哀は再びどうしたものかと思案にくれた。
 朝、ここに来る時に子豹堂の前を通ったがシャッターは下りたままだった。様子を見に行きたくても店を開けたまま元太一人残していく訳にはいかない。
 それにしても元太の母はどうして急に呼び出されたのだろう。事情を説明する暇ももどかしい様子で飛び出して行ったが、小学一年生の息子に店番を任せて行った事から考えてもそんなに長時間店を開けるつもりはなかったはずだ。それなのにこれほどの時間が経過しているという事は……
 無意識のうちに一人考え込んでいたのか、ハッと顔を上げると元太が不安そうにボーっと店の外を見つめていた。手には哀が渡したクッキーがそのまま握られている。
 「どうしたの?お菓子を目の前にいつものあなたらしくないじゃない」
 「お前が貰った物をオレが食う訳にはいかねーよ。第一、お前だって腹減っただろ?食えよ」
 そう言ってクッキーが入った袋を押し付けると元太はカウンターテーブルに突っ伏してしまった。食いしん坊の同級生の思いもよらない言葉に思わず笑みがこぼれる。
 (いつも誰の分かなんてお構いなしにさっさと食べちゃう小嶋君が……ね)
 クッキーをかじった哀の口の中に優しい甘さが広がった。
 
 
 それからしばらく普段の元気の良さが嘘のようにすっかり意気消沈している元太の横で哀が逡巡していると、店の奥にある古い掛け時計が午後一時を回った事を告げた。
 「このままジッとしてても仕方ないわ。さすがにお腹も空いたし、私達だけで昼食にしましょう。材料があれば適当に作るわ」
 その言葉を待っていたかのように元太が「おう!」と飛び起きると哀を台所へ案内した。炊飯器を開けるとすでに洗い米と水がセットされている。冷蔵庫の中には少量の肉と一通りの野菜が揃っていた。
 「簡単なメニューなら何とかなりそうね。小嶋君は店番してて」
 「あのさ、灰原……」
 「何?」
 「その…母ちゃんの分も……」
 「分かってるわよ。心配しないで」
 安心させるように微笑む哀に元太は嬉しそうに頷くと店へ戻って行った。
 昼食にありつけばひとまず元太は落ち着くだろう。しかし、何が起こっているのか分からない事に変わりはない。
 「さて、この後どうしたものかしら…?」
 元太がいる店の方向をチラッと見ると哀は思わず溜息をついた。



  to be continued...