薄花桜の誘惑 



 一面に広がる薄紅色の上空には抜けるような青空が、足元には若草色の絨毯が敷かれている。フワリと吹く風に舞い上がる花弁は桜の木々からのお裾分けといったところか。
そんな絵画のような風景にすっかり溶け込んでいる志保の姿に新一が思わず「なんか面白くねぇ……」と呟いたその時だった。
 「ちょっと新ちゃん、私の話聞いてる?」
 桃源郷のような世界から新一の思考を半ば強引に現実へと引き戻したのは母、有希子の声だった。
 「んだよ?」 
 面倒くさそうに声の方向に視線を向けた瞬間、その笑顔にギクリとなる。往年のファンを魅了し、何度も映画館に足を運ばせたというこの笑顔はあくまで営業用、優作や新一に向けられるそれは警告のサイン以外の何物でもなかった。
 (やべッ…!)
 「悪ぃ、ボーっとしてたみてえで……で?」
 「さっきから何度呼んでも全然気が付かなかったくせに。『で?』の一言で済まそうって訳?」
 「済ますも何も……だったらどうすりゃいいんだよ?」
 「そうねぇ……それじゃ理由を教えてもらおうかしら?」
 「理由?何の?」
 「新ちゃん、ここへ着いた時からず〜っと不機嫌なんだもの。こんな上天気な日に満開の桜が見られたっていうのに一体どうしてご機嫌斜めな訳?」
 「べ、別に不機嫌じゃねーよ。ただアイツが……」
 「アイツって……志保ちゃんの事?喧嘩でもしたの?」
 「そうじゃなくて……慣れない草履なんか履いてるから心配でさ、その……」
 「照れない照れないv新ちゃんの事だからど〜せすっかり見惚れてたんでしょ?」
 「……」
 「ま、仕方ないわよね。志保ちゃんのあんなに艶やかな姿、そうそう見られないでしょうしv」
 悪戯っぽく笑う有希子が視線で示す先にはフサエと何やら仲睦まじく話している志保の姿があった。
 「フフッ、あ〜んな綺麗な志保ちゃんを拝めたのはフサエさんと私のお陰なんだから。少しは感謝しなさいよ?」
 「……」
 (バーロー、あんなに綺麗だから他の人間に見せたくねーんじゃねーか……)
 心の中で呟くと新一は我知らずレジャーマットの上に落としていた湯呑を拾い上げた。


 「お花見?」
 「フサエさんが久し振りに日本の桜をゆっくり見たいと言ってのう」
 いつものように事件帰りに訪れた阿笠邸でその家主から花見に誘われたのはまだ春の声が遥かに遠い頃の事だった。
 「日本に来るのは秋ばかりだったじゃろ?銀杏並木は何度も見たから今度は桜を満喫したいそうじゃ」
 「秋ばかりになっちゃったのは誰かさんがなかなか暗号を解かなかったからでしょ?」
 珈琲を運んで来た志保の言葉に阿笠は「タハハ……」と困ったように笑った。
 「オレは構わねえけど。でもどうせなら二人で桜の名所へ旅行にでも行った方がいいんじゃねーの?」
 「それも考えたんじゃが……日本に来ると言っても日数も制限されとるし、それに……」
 阿笠によると互いの年齢や社会的立場を考え、フサエと結婚という形式を選ぶ事は今の時点では考えていないという。しかし一方で彼女が彼にとって人生を共にするパートナーである事は間違いなく、だからこそフサエをどんな形で周囲に紹介しようか悩んでいたらしい。そんな時、阿笠邸に押し掛けていた探偵団がどこかへ遊びに連れて行って欲しいと訴える姿を見た志保の
 「だったらお花見パーティーなんてどうかしら?」
 という一言がきっかけだったという。花見ならそんなに畏まった場ではないし、阿笠やフサエと親しい人達も気楽に参加できるという事で話が纏まったらしい。
 「……なるほどな。で?どこでやるんだ?」
 「それが……有希子さんに事の次第を話したところ『私に任せなさい!』の一言で話がどんどん進んでおるようでの。フサエさんとはいろいろ相談しておるようじゃが……あまり大袈裟な事にならないといいんじゃがのう」
 そう苦笑する阿笠に有希子の張り切る姿が目に見えるようで新一は思わず頭を抱えた。
 その後、パーティーの準備に駆り出された新一が有希子に奔走させられたのは言うまでもないが、有希子に振り回されたのは志保も同じだった。 
 NYの洗練されたデザインにさりげなく和風テイストが散りばめられている事で人気に火が点いたフサエブランドは海外のブランドにしては珍しく和装一式も取り扱っている。フサエもハーフである事を活かし、欧米では着物姿で和装文化を紹介しているばかりでなく、自身も着物好きである事は業界では有名だった。そこで有希子が提案したのが今回のお花見パーティーに阿笠、フサエ、志保が和装で出席するというものだったのである。
 そんな訳で志保はここ数ヶ月、ただでさえ忙しい研究の合間を縫って採寸や小物選び、着付けの練習など目の回るような日々を送って来た。そうなると当然新一が志保と一緒に過ごす時間が減る訳だが、同じく多忙を極めているフサエが寸暇を惜しんで採寸などの度に来日する姿やそんな二人の姿に目を細める阿笠、そして何より阿笠とフサエの間で楽しそうな表情を見せる志保に文句を言えるはずもなかった。
 そして今日、草木が芽吹いたような萌黄の阿笠、抜けるような空と縹色を纏ったフサエ、春を待ちかねたような蒲公英色に身を包んだ志保。満開の桜というフレームに囲まれて笑う家族三人の姿は春の日差しのように暖かかった。


 「工藤君……酔っちゃったの?」
 毛氈の引かれた長椅子に座り、ぼんやりと桜を眺めていた新一はふいに背後から声をかけられ、身体の向きを変えた。いつの間にか志保が心配そうに自分の顔を覗き込んでいる。
 「バーロー、オレは未成年だぞ?酒なんて飲んでねーよ」
 少し身体をずらし、目線で促すと志保は黙って隣に腰を下ろした。
 「足、痛いんだろ?無理すんなよ」
 「気付いてたの?」
 驚いたように問う志保に「初歩的な観察と推理だな」とニヤリと笑う。
 「さっきから歩く時にちょっとバランス取り難そうだったからな。オメーは草履に慣れてねーだろうから」
 「こんな時まで推理?全く……探偵って人種はどうしようもないわね」
 呆れたように肩をすくめた志保の襟から覗く真っ白いうなじと結い上げられた陽光に照らされ、いつもより赤みがかった髪のコントラストに
 『ちょっ、そこは……ダメ……』
 首筋を辿る新一の唇から懸命に身をよじった昨夜の志保を思い出す。
 「……何?その笑い」
 何やら企てている事はすっかり筒抜けのようで志保がジロッと睨んで来る。一瞬怯む新一だったが、この数ヶ月で我慢はとっくに限界だ。細い首筋にヒラリと舞い降りた花弁をそっと手で避けると新一は彼女の耳元に口を寄せた。
 「今夜はここに桜を咲かせてもいいんだよな?」
 「……!」
 一瞬にして首筋まで桜色に染まる志保に新一は頬に触れるだけの口付けを落とすと満足そうに微笑んだ。



あとがき


7年振りに桜雪様とコラボさせて頂きました。
「せっかく桜雪様に絵を描いて頂くなら新志!そして大人の魅力!」という事で艶っぽい話を目指してみましたがいかがでしょうか?
桜雪様の描かれた二人の艶姿と合わせ春の陽光を思わせる幸せな風景を感じて頂ければ幸いです。