「哀」を知る君に



夕飯の後片付けを済ませ、地下の自室へ向かおうとした哀は、玄関のドアが開けられる音に小さな溜息をついた。この家の鍵を持っているのは家主の阿笠、居候の自分、そして隣人であり古くからの付き合いである工藤家の住人だが、当の阿笠は自室で趣味の発明に勤しんでいるし、工藤優作・有希子夫妻は生活の拠点をロスに移している。今夜はやけに周囲に人の気配を感じて早目に戸締りを確認したはずで、つまり泥棒でもない限りこの家の玄関を外から開けられる人物は一人しかいないのだ。
「……彼にとってこの家は自宅のようなものなのかしらね」
そんな呟きとともに玄関へ向かった哀の目に映ったのは予想通りの人物だった。「よぉ」とだけ呟き、靴を脱いでさっさと上がり込むコナンはどうやら随分疲れた様子である。
「不法侵入」
「あん?」
「いくら鍵を持っているからってこんな遅い時間、勝手に開けて入って来るなんて不法侵入としか表現出来ないじゃない?」
「うっせーな……」
不貞腐れた表情で視線を逸らすコナンにどうやら何かあったらしいと察し、哀は「何か面白くない事でもあったの?」と探りを入れた。
「……悪ぃ、今夜泊めてくれねえか?」
「え…?」
「昴さんに泊めてもらう予定が狂っちまって……おっちゃんには今夜は博士の家に泊まるって電話しちまったし……正直、あそこに戻ってガキの振りする気力残ってなくてさ」
「……許可を求めるなら私じゃなくて博士でしょう?」
「博士が許可したところでオメーが拒否したら問答無用で追い出されるからな」
そんな言葉を口にしながらもさっさとテレビの前に備えられたリクライニングチェアを占拠してしまうコナンに哀は「……珈琲でも飲む?」と肩をすくめた。
「何だよ、今夜はやけにサービスいいじゃねーか」
「別に。私もちょっと飲みたくなっただけの話」
「サンキュ」と呟くコナンに哀は「こんな時間だからアメリカンよ」と返すとキッチンへ向かった。



「やっぱオメーが淹れる珈琲は最高だな。疲れが吹っ飛ぶぜ」
満足そうに呟くコナンに哀は苦笑すると「美味しい珈琲のお礼代わりに教えて欲しい事があるんだけど」とその瞳を正面から見据えた。
「教える?何の事だよ?」
「とぼけないで。組織絡みの事で何かあったんでしょ?ここ何日かFBIとコソコソ動いてた事、私が気付いてないとでも思ってるの?」
「それは……」
「昨晩は遅くまで博士と何やらヒソヒソ話してたかと思ったら今日は学校をズル休み。おまけにその夜、疲れ切って押し掛けて来るなんて……これで何もないと主張する方が無理だと思うけど?」
「……」
「それとも何?私にとってはもう関係ない話だって言いたい訳?」
哀のきつい口調に返答に窮するコナンだったが、フッと息をつくと「組織絡みの事で動いてた事は否定しねえよ。けど……心配すんな」と諭すように呟いた。
「ベルモットが幼児化の事をバーボンに隠している間は心配ねえよ。それに……」
「それに?」
「どうやらバーボンの正体も一筋縄じゃいかねえようだしな」
「バーボンの正体……?」
「……悪ぃ、オメーにはもう少し掴めたら絶対話すからさ、今夜のところはここまでにしてくれねえか?やっとホッとしたところなんだ」
どうやら何やら大事が一段落着いたばかりというのは本当だろう。しかし、いつもの彼ならしてやったりと言いたげな表情で現れるはずで、どうやら事件とは別の部分で考えさせられる事があったに違いない。そんな哀の予測は当たらずも遠からずといった所のようで、リクライニングチェアの後方に位置する椅子に腰を下ろした瞬間「なぁ」と声が掛けられた。
「何?」
「オメーに一つ聞きたい事があるんだけどよ」
「私に?」
「姉さんを亡くしてるオメーだったら上手く表現してくれるんじゃねえかと思ってさ」
「お姉ちゃんの事?」
「いや、姉さんに限った話じゃなくて……その……大切な人が死ぬって……やっぱ辛い事なのか?」
コナンの思いがけない問いに思わず「は…?」と間の抜けた声を上げてしまった哀だったが、「自ら名探偵を名乗り、人の死や周囲の人々の反応を散々見て来た人が言う台詞とは思えないけど?」と呆れたような視線を投げた。
「そりゃまあ……けどオレ、『自分にとって大切な人が亡くなる事=悲しい事』と理解はしてても実体験として経験した事ねーんだよな。父さんの両親も母さんの両親もオレが物心ついた頃には鬼籍に入ってたし、親しい友人に死なれた事もねえし……強いて言えば小学生の頃、登下校の途中に可愛がってた犬が死んじまったくらいで……」
「あなたの年齢を考えれば珍しい事でもないんじゃない?」
「そりゃまぁそうなんだけど……さっき父さんに言われた事が引っ掛かっちまって……」
「お父さんに言われた事って……あなたのお父さん、今夜はマカデミー賞のパーティーに出席しているはずじゃ……」
「え?あ、ああ……そうだったな」
「工藤君…?」
「……どうやら想像以上に疲れてるみてえだ。オレの事はしばらく放っておいてくれ」
コナンの取り繕うような笑顔に哀は黙って肩をすくめるとすっかり冷めてしまった珈琲を口に運んだ。



安室透が工藤邸を後にし、盗聴器など仕掛けられていない事を確認した事で家の中に張り尽くされていた緊張の糸は一気に緩んだ。
とりあえず一服しようとコナンが珈琲を淹れてリビングへ入って行くと父、優作はテレビに映る自分に変装した妻の様子に苦笑いを浮かべている。
「母さん、まだインタビューに捕まってるのか?」
「『緋色の捜査官のモデルとは一体?』とインタビュアーに絡まれてるよ。全く、余計な事は言うなと釘を刺しておいたんだが……」
「父さんだって母さんがマイクを向けられたら黙ってられねー事くらい承知してるだろ?」
「とりあえず私のパブリックイメージをあまり壊して欲しくないものだな」
言葉とは裏腹に嬉しそうな表情で呟く優作にコナンは「……ったく」と呆れたような視線を投げるとソファにドカッと腰を下ろした。
「本当、いい年して相変わらずだな」
「何の事だ?」
「父さん、母さんにベタ惚れだって言ってんだよ」
「私も有希子も夫婦としては勿論、互いに一人の人間として大切な存在だと自覚してるからな。そうでなければとっくに別れているだろう」
「オレという息子がいてもか?」
「人生には片道切符しかないんだ。子供がいるというだけで好きでもない人間と共に歩くほど私も彼女もお人好しではないんでね」
「……」
「そんな複雑な顔をするな。私と有希子が別れるような事があったとしてもお前は私の大切な息子には違いない。勿論有希子にとってもな」
コナンの反応を楽しんでいる様子の優作だったが、ふいに「ところで……」と真面目な表情になった。
「お前に一つ聞きたい事がある」
「オレに…?」
「ここに住んでいる赤井というFBI捜査官の事だ。お前が追う組織の人間に彼が死んだと思わせるように来葉峠でトリックを使ったと聞いたが……」
「ああ、組織の下っ端で拳銃自殺した男の遺体と赤井捜査官の身体をすり替えたんだ。オレ自身あそこまで上手く行くとは思わなかったんだけどよ」
「そうなると赤井捜査官が生きている事を知っていたのはお前と彼本人、協力者の博士と有希子、それから……」
「上司のジェイムス・ブラック氏ってところか?ひょんな事でトリックの一部がバレちまってやむなくな」
コナンの答えに優作は苦い表情になると「……どうやらお前は人間としても探偵としてもまだまだ半人前のようだな」と小さく溜息をついた。
「もっともその責任はお前だけにあるのではなくお前を育てた私達夫婦にもある訳だが……幸福な事にお前はまだそういう状況に陥った経験もないしな」
「何が言いたいんだよ?」
「お前の探偵としての先読みの能力は我が息子ながら感心する。しかし今回の作戦を決行するにあたりお前は赤井捜査官の家族やFBIの仲間の心境を考えなかったのか?事実はともかく彼が死んだと知らされた人達がどれだけ深い悲しみに包まれるか……少しでも考えたか?」
「それは……」
言葉に詰まる息子に優作は「……考える余裕までなかったか」とフッと息をついた。
「正直……組織の連中を欺く事に夢中で突っ走っちまって……そりゃ赤井さんを慕うジョディ捜査官やキャメル捜査官には悪いと思ったけど……」
「人が死ぬという事はその人とはもう二度と会えない事を意味する。その悲しみを表現する事は余程の名作家でも困難だろう。『敵を欺くにはまず味方から』とも言うし、今回は対象がFBI内部の人間という事で大目に見てもらえるだろうが、市井の人間相手にこうは行かないぞ」
「……」
「経験ばかりは仕方がない。今回悲しませてしまった人達には誠意を持って謝るんだな。今後はもう少し人の心境を考える努力をしなさい」
「ああ……」
「それより……」
ふいに言葉を切る父にコナンがその方向を見ると鋭い視線が彼を捉えた。
「お前の年齢を考えると少々残念ではあるが……新一、どうやらお前にはまだ大切な存在と言える人がいないようだな」
「え…?」
「大切な人を失った人間の心境が予測も出来ないという事はつまりそういう事だろう?」
「そ、それとこれとは話が違うだろ?オレにだって大切なヤツくらい……」
「蘭君の事か?」
「あ、ああ……アイツを失うなんて考えたくもねえけど……嫌な夢を見る事はあるぜ?ジンやウォッカにアイツが殺されそうになる夢なんて何回見た事か……」
「だがそれは夢であって現実ではない。現に蘭君は生きている訳だからな」
「バーロー、好きでもない女に告白なんか……!」
しまったと気付いた時はもう遅い。優作は「ほぉ……」と興味津々な様子で自分を見つめている。
「オ、オレだって元の身体を取り戻すまでは何も言うまいと思ってたんだ。けどロンドンでアイツにブチ切れられて思わず……蘭もビックリしちまったみたいで何も返事はもらえなかったけど……」
「お前と蘭君の事だ。どうせそのまま今日までズルズル来てしまっているんだろう?」
「仕方ねーだろ?こんな身体じゃ……」
「恋人としての関係をスタートする事はメールや電話だって可能なはずだが?」
「それは……」
「何としてでも手に入れたい、自分のものにしたい……男が抱く執着のようなものがお前に余り感じられないのは私の気のせいかな?」
「……」
言葉が返せなくなってしまったコナンの様子に優作はその頭をポンポンっと軽く叩くと「男同志の会話だ。蘭君に告白した事は母さんには黙っておくよ」と言い残し、リビングから姿を消してしまった。



「おはよう」と声を掛けるとリクライニングチェアで寝ていたコナンが驚いたように身体を起こした。
「灰原…?オレ……」
「良かったじゃない、ゆっくり眠れたみたいで」
その言葉にようやく自分があのままグッスリ寝てしまった事を理解したのだろう、コナンはバツが悪そうに「悪ぃ」と頭を掻くと、身体に掛けられた肌布団を丁寧に畳み始めた。
「朝食、用意してあるから。先に顔洗って来て」
「あ、ああ」
キッチンへ向かおうとした哀だったが、「そうそう、あの質問の答えなんだけど……」と思い出したようにコナンの方へ振り返った。
「あの質問…?」
「あなた、私に聞いたじゃない。『大切な人が死ぬって辛い事なのか?』って。忘れたの?」
「あ……あれは……オレ個人の問題だ。忘れてくれ」
「あら、せっかく答えを用意しておいてあげたのに」
「え…?」
「『この私が不覚にもあなたの前で大泣きしてしまった程悲しい事』よ。これならあなたにも分かりやすいでしょ?」
「……」
「何よ?鳩が豆鉄砲食らったような顔しちゃって……」
作家である父でさえ表現するのは難しいと言っていた人間の感情をこうもあっさりと説明出来る人間がこんなに近くにいたという現実にコナンは驚きを隠せなかった。
「……本当、オメーには敵わないな」
「何があったか知らないけど小学生の仮面がすっかり剥げてるわよ。さっさといつもの調子を取り戻した方がいいんじゃない?」
「心配すんなって。これでも女優の息子だぜ?」
コナンは大きく伸びをするとキッチンから漂って来る朝食の美味しそうな匂いに誘われ、リビングを後にした。



あとがき



相方得意の原作補完シリーズですが、今回珍しくネタが降って来たので挑戦してみました。「緋色シリーズ」幕間となります。
原作では江戸川ドヤ顔&優作さんの助演男優賞発言で終了していますけど、「その策、探偵としてはともかく果たして人間としてどうよ?」と突っ込みたくなりまして(それを原作に期待するのは無理ですしね〜@爆)
コナンが「自分にとって大切な人」を考え始めるきっかけにもなるかな〜という事もあって書き始めたのですが、回想シーン以外が灰原視点なのはズバリ「哀」の差です。