哀愁のストラディバリウス



「ダブルブッキング〜?」
「そうなの。ね、どっちか優作の名代として出席してくれないかしら?」
相変わらず突然やっかい事を持ち出す母、有希子に新一は溜息をついた。
優作の来日中のスケジュールは各出版社やマスコミを通し、基本的にEメールで行われているらしいが、明日の予定が手違いで二つ重なってしまったというのである。いくら世界的推理小説家とはいえ、同じ時刻に二つの会場に現れ仕事をこなすトリックなど思い付くはずもなく、新一にお鉢が回って来たという訳だ。
「そんな面倒な事オレに頼まなくても……どっちかキャンセルすればいいじゃねえか」
「それが出来るなら新ちゃんに頼んだりしないわよ。講演の方は優作じゃないと絶対ダメだけど、もう一方は出席するだけだから新ちゃんでも大丈夫でしょ?ね、お・ね・が・いv」
極上の笑顔で言われるとさすがの新一も無下に断れなくなってしまう。
「……ったく。今回だけだぞ」
「もっちろん!じゃ、ここにチケット3枚入ってるからよろしくねv」
「3枚…?」
その瞬間、新一の脳裏に嫌な予感が走った。



「お兄ちゃん、早く早く!」
タクシーが米花シティーホールの玄関に横付けされるや否やコナンが嬉しそうに飛び出して行く。
「あ、コラッ…!」
慌てて追いかける新一の様子に苦笑すると志保は運転手にカードを渡した。
今夜ここで開催される設楽蓮希バイオリンリサイタルに、なぜ優作が招待を受けたかは不明だが、キャンセル出来なかった理由はどうやらコナンが楽しみにしていたからのようだ。
「……ったく、ウロチョロしやがって」
「それにしても……気にならない?」
やっとの事で新一が弟の首根っこを引っ掴んだ時、ふいに志保が口を開いた。
「あん?」
「開演時間は午後7時なんでしょ?それなのに『3時に楽屋へ来て下さい』って……いくら何でも早過ぎるわ」
「何かあるって言いたいのか?」
「ええ」
「けどよお、それなら服部が騒ぐんじゃねえ?研修中とはいえ一応警視庁捜査一課の刑事なんだし」
刑事には守秘義務があるものの、工藤邸においてはかえって事件解決につながる事もあり、平次が新一に話す事は警察職員の間では暗黙の了解となっている。彼の口から今夜のリサイタルに関わるような話は何も聞いていなかった。
「とりあえず楽屋へ行ってみようぜ。ここで首を傾げていても仕方ねえし」
「そうね」
新一の言葉に志保は頷くと、ようやく地面に降ろしてもらったコナンの手を取り、彼の後に続いた。
受付を済ませ、楽屋がある地下へと降りようとすると「失礼ですが、どちら様ですか?」という台詞とともに一人の老婦人が三人の方へ近寄って来た。
「あ……」
新一には見覚えがある顔だった。さすがに名前は忘れてしまったが、確か設楽家の執事を務めていた女性のはずである。
「工藤新一と申します。本日、父が招待をうけていたのですが、急用ができまして代わりにボクが伺いました」
「確か…探偵さんでしたわよね?」
「そうですが……何か?」
「……いえ、詳しい話はお嬢様がされると思いますので。申し遅れました、私、設楽家執事で津曲紅生と申します。それでは楽屋へご案内いたしますわ」
紅生はそれだけ言うと先に立って歩き出した。



「失礼します」
楽屋のドアが開いた瞬間、バイオリンの美しい音色が新一達を包み込んだ。
「蓮希お嬢様、工藤様がおみえになりました」
「あ……」
紅生の声に蓮希がバイオリンを弾いていた手を止める。
「……あら?津曲さん、工藤優作先生って随分お若い方なのね」
「いえ、お嬢様、こちらは工藤先生の息子さんで工藤新一様です」
「え…?」
「すみません、父が急用で来られなくなってしまったものですから……」
「そう……残念、サインもらおうと思って『闇の男爵』シリーズの最新作を持って来たのに」
悪戯っ子のように笑う蓮希に新一は思わず「なんだ、父さんのファンだったのか」と、心の中でひとりごちた。
「はじめまして、バイオリニストの設楽蓮希と申します」
実際は初対面ではないが、あの連続殺人事件の時は江戸川コナンだった事もあり、新一は蓮希の挨拶に「はじめまして」と応えた。
「でも……平成のシャーロック・ホームズと呼ばれるあなたが来て下さったという事は、やっぱりあの予告状、本物なんですね?」
「予告状…?」
話の展開が見えず、新一は言葉を失った。
「あら?優作先生から聞いていませんか?」
「いえ、何も……」
「津曲さん、依頼のメール入れた時、例の予告状の内容も送ってくれたわよね?」
「はい、確かにスキャンして送りましたわ」
「それじゃあお父さんのところには届かないよ」
ふいにコナンが口を開いた。
「工藤さん、この坊やは……?」
「ああ、紹介が遅れてすみません。ボクの弟でコナンといいます。一緒にいるのは宮野志保、ボクの……」
「ボクの大切なお姉ちゃんだよ!」
言い淀む新一に代わりコナンが満面の笑みで紹介する。
「そっかあ、コナン君にはお兄ちゃんだけじゃなくお姉ちゃんもいるんだ。私、一人っ子だから羨ましいな」
蓮希がコナンにニッコリ微笑む。その笑顔は相変わらずどこか幼さが残り、十年の時の流れを感じさせないものだった。
「ひょっとしてコナン君のお父さんのところに届くメールは添付ファイルは受信してくれないのかな?」
「うん、お父さんの大切な原稿を守るためにあらかじめ決まったアドレスから送られて来るファイル以外、全部削除されるようになってるんだって」
「……ですって。津曲さん、今日あの予告状持ってる?」
「勿論です」
蓮希の言葉に紅生が懐から一枚の封筒を取り出すと新一に差し出す。
「実はこのようなものが2日前当家に送られて参りまして……」
「失礼」と一言断ると新一は紅生から封筒を受け取り中に入っていたカードを取り出した。そこには『リサイタルの夕べ、ストラットの哀しき音色頂きに参上します』とだけ書かれていた。パソコンで打ったものらしく、筆跡鑑定は出来ない。
(まさか……黒羽の悪戯じゃねえよな)
同居人の元大怪盗がいかにも書きそうな予告状に一瞬眉をひそめた新一だったが、快斗は一昨日、ラスベガスのショーに出演するため日本を発っている。それにいくら廃業したとはいえ、彼なら堂々と『怪盗KID』と書くだろう。
「警察には届けたんですか?」
「いえ、ただの悪戯かもしれませんし……それに、今夜は皇族の方や各界の著名人の方がおみえになりますので……」
「目つきが悪い警察の方にウロウロされるのは好ましくありませんから」
きっぱり言い切る紅生の態度に、新一はこの場に平次がいない事に感謝せずにいられなかった。
「すっかり困っていたところ、幸い工藤先生が私のリサイタルに興味を持ってくださっていると有希子夫人から連絡がありまして、それなら是非お願いしようという話になったんです」
蓮希の話に新一は思わず苦笑した。今夜のリサイタルになぜ優作が招待されたか釈然としなかったのだが、コナンにせがまれ、有希子の方から働きかけたと考えれば合点がいく。
「何でも工藤先生は十年ほど前、このホールで起こった殺人事件を電光石火のごとく解決されたそうですね?」
「え?あ、ああ……」
樫村忠彬殺害事件の事を言っているのだろう。正確に言えば自分も解決に一役かったのだが、こちらも明かす事は出来ず、新一としては再び口惜しい思いをする他なかった。
「よくご存知ですね」
「こちらのホールのオーナーが津曲さんの古い知り合いなんです」
「なるほど」
「ねえ、さっき音を聞いてもしかしたら、って思ったんだけど、お姉ちゃんのバイオリン、ストラディバリウス?」
新一の横から予告状を覗き込んでいたコナンが口を開いた。
「あら、コナン君、いい耳してるのね」
「ボクもバイオリン習ってるから……」
「これはね、おじさまから譲り受けた大切なバイオリンなの」
蓮希はコナンの目線に合わせるように屈み込むと、ストラディバリウスを愛おしむように抱きしめた。連続殺人犯とはいえ、彼女はまだ叔父である羽賀響輔に淡い想いを抱いているのだろう。ストラディバリウスを見つめる彼女の優しい眼差しがそれを物語っている。
「うわあ、ボク、本物見るの初めて!」
目の前のストラディバリウスに目を輝かせる弟とは対照的に新一は考え込む時の癖で顎に手をかけた。
「犯人の狙いはこのストラディバリウスでしょうが……」
「はい、私としてはこれを譲って下さった方が戻って来られるまで何があっても守らなくてはなりません。お力を貸して頂けないでしょうか?」
「分かりました」
「良かったぁ、工藤さんがいて下されば百人力ね」
まるで事件がすでに解決したかのように微笑むと蓮希が身を起こす。その瞬間、譜面台から楽譜が舞い落ちた。コナンが慌てて拾い上げる。
「はい、お姉ちゃん」
「ありがとう、コナン君」
「わあ……お姉ちゃんの楽譜、凄い書き込みだね」
「ええ、さすがに3日しかなかったから練習にも熱が入っちゃって……」
「3日?」
「フフ、聴いてのお楽しみv」
蓮希は悪戯っ子のような笑みを浮かべるとコナンから楽譜を受け取った。



「あの予告状だけではあまりに手がかりが少ないと思うけど……どうする気?」
蓮希の楽屋を出ると志保が心配そうに新一に尋ねてくる。
「唯一分かっているのは犯人がバイオリンに精通している人物で、ヨーロッパ留学の経験がない、って事だけだな」
「え?」
「『ストラット』がストラディバリウスの通の間の略称だって事は有名だが、あくまでアメリカ式の略し方だからさ」
「なるほど、ヨーロッパに留学した事がある人ならそんな呼び方はしないって訳ね」
「ああ」
新一は志保に頷いてみせると蓮希から預かった今日の公演のタイムテーブルとオーケストラ団員名簿を取り出した。
「今日の編成は第一バイオリン、第二バイオリン合わせて13人か……」
一人一人調査するにはさすがに時間が足りない。
「ねえ、お兄ちゃん」
ふいにコナンが新一の服を引っ張った。
「あん?」
「この予告状の『哀しき音色頂きに』って……どういう意味だろう?」
「そりゃ……ストラディバリウスを盗むって意味に決まってんだろ?」
「それなら『ストラットを頂きに参上します』だけでいいんじゃない?どうしてわざわざ『哀しき音色』なんて……」
「犯人からのメッセージとでも言いたいのか?」
「メッセージっていうか……何て言ったらいいんだろう、その……」
「確かに……ちょっと引っ掛かる点ではあるな。よし、30分後にリハーサルが始まるみたいだし、行ってみるか?」
「うん!」
早速、リサイタル本番が行われるコンサートホールへ移動する。さすがに本番当日という事もあり、団員達の練習にも熱が入っているようだ。声をかけづらい雰囲気に新一はとりあえず事務局の人間から話を聞く事にした。
「バイオリンのメンバーの中で蓮希さんと過去交流があった人物、更にヨーロッパ留学の経験がない人間……ですか?」
新一の問いに西岡という事務局の人間は考え込むように首を傾げた。
「ストラディバリウスを盗むという予告状が届いた事は知ってみえますか?」
「はい、事務局の人間は皆知っています」
「予告状には『哀しき音色』と書かれていました。そこから推測するに、差出人は蓮希さんと一緒に演奏した事がある人物ではないかと思うんです」
「しかし……蓮希さんの演奏を聴いたお客さんの可能性もあるのでは……?それにバイオリン奏者とは限らないのではありませんか?」
「それならわざわざコンサート当日を選ぶ必要はないでしょう。犯人にとって今日犯行を行う最大のメリットは目立つ事なく盗み出せる点に他ありません。自分がバイオリン奏者なら尚更でしょう」
「なるほど……」
西岡は納得したように呟くと鞄から団員名簿を取り出した。
「その条件に当てはまるメンバーは三人ですね」
「よかったらその三人のメンバーを教えて頂けませんか?」
西岡によるとその三人は以下の通りだった。一人目は第一バイオリン奏者、徳永まどか33歳、二人目は同じく第一バイオリン奏者で今日のリサイタルのコンサートマスターでもある南条卓人、35歳、残る一人は第二バイオリン奏者で新倉初音、29歳、設楽家と並ぶ有名な音楽一家の一人娘のようだ。
「あの……この三人の中で蓮希さんと個人的にも付き合いがある方はみえますか?」
「まどかさんは音大時代の友人です。あ、そうそう、南条さんも同じ音大出身の先輩のようですね。初音さんは……直接の繋がりはありませんが、コンクールやリサイタルで蓮希さんと同じ舞台を踏んでいる回数は半端じゃないと思いますよ」
「ライバルみたいなものですか……」
「ええ。あ……ライバルで思い出しましたが、まどかさんもある意味蓮希さんとはライバルかな?」
「え?」
「まどかさん、南条さんの事が好きみたいなんですよ。でも、どうやら南条さんは蓮希さんの事が気になってるみたいで……もっとも、南条さんは蓮希さんに振られたと笑ってましたがね」
「……」
「っと、すみません、そろそろリハが始まるので……」
「あ、どうもありがとうございました」
西岡は新一に頭を下げると慌てて立ち去っていった。
「三人とも動機はあるって訳か……」
「……どうするの?」
「手分けしてマークする訳にもいかねえし、こうなったらストラディバリウスに近付く人間を観察するしかねえな」
「そうね」
その時、新一と志保の物々しい会話を遮るようにオーケストラが演奏を始めた。最終リハーサルが開始されたようだ。淡いピンクのドレスを身に纏った蓮希の姿も見える。
新一は舞台袖から彼女の持つストラディバリウスに目を光らせた。



「志保お姉ちゃん、やっぱりシベリウスのバイオリン協奏曲は素敵だね」
本番さながらのリハーサルにコナンはすっかり酔いしれているようで、ニコニコ笑いながら志保と音楽の話をしている。予告状の事などすっかり忘れているその様子に新一は溜息をついた。
(……ったく、事件絡みだと分かってたら連れて来なかったのによお)
そんな新一の心を見透かすように志保はクスッと笑うと、コナンに「ええ、そうね」とだけ答えた。
さすがにロスのジュニア大会で優勝しただけの事はあり、曲が進む度に「あ、この曲…!」と題名や作曲家について話し出す。知識として有名な曲のメロディは知っているものの、その他の曲はどれも同じ曲に聞こえる新一としては黙ってその解説に耳を傾ける他なかった。
そんなコナンが「あ……」と小さく声を上げたのはリハーサルも佳境を迎えた頃だった。
「この曲……ボク聴いた事ない……」
コナンは目を閉じるとじっと演奏に聴き入った。オーケストラの演奏にあわせ蓮希が美しいメロディを奏でる。
「綺麗な曲ね」
「うん、でも……」
「でも?」
「何て言ったらいいんだろう……蓮希お姉ちゃんのバイオリン、泣いてるみたい。この曲、どっちかって言うと明るいメロディなのに……どうしてだろう」
考え込むような弟に「このませガキ……」と新一は苦笑した。コナンはそんな兄の台詞などまったく意に介していないようで、「誰の曲かなあ」と興味津々な様子でプログラムを繰っている。
「えっとコルンゴルトバイオリン協奏曲ニ長調作品35の後だから……あれ?」
「どうしたの?コナン君」
「プログラムに書いてある曲と違う……変更になったのかなあ。ボク、ちょっと聞いてくるね」
「お、おい!」
いきなり駆け出す弟を新一は慌てて追いかけた。知りたい事があったら即行動というところは有希子譲りのようだ。早速、事務局の女性をつかまえると「ねえ、お姉さん、今演奏してる曲って誰の曲?」と質問をぶつけている。
「あら坊や、この曲に気付くなんてたいしたもんね」
女性はニッコリ笑うとコナンの目線に合わせるように膝を曲げた。
「どういう意味?」
「この曲は蓮希さんのために書き下ろされた新曲なの。だから知らなくて当然って訳」
「新曲って誰の?」
「ウフフ、誰だと思う?」
「意地悪しないで教えてよ」
「坊やは知らないと思うけど……羽賀響輔さんっていう知る人ぞ知る作曲家よ」
「羽賀響輔だって!?」
女性の答えに新一は驚きのあまり思わず大声を出してしまった。その声に志保が二人の傍までやって来る。
「お兄ちゃん、演奏中だよ!」
コナンの冷たい視線もすでに新一にはまったく無意味だった。
「響輔さんを御存知だとは……さすが名探偵、驚きましたわ」
「あの事件は印象的でしたからね」
新一は誤魔化すように呟くと、「しかし、羽賀氏はまだ服役中のはずですが……」と話を切り返した。
「ええ、この曲の譜面は三日前、響輔さんに面会に行かれた蓮希さんが受け取って来られたんです。なんでも今日は響輔さんの誕生日らしくて、蓮希さんのたっての願いで急遽演奏が決まりましてね。ただ、あまりに練習時間が少ないので、正直ぶっつけ本番みたいなものなんですが……」
「……」
女性の言葉にしばし考え込んだ様子の新一だったが、ふいに「……そういう事か」と呟いた。
「……どうやら分かったみたいね」
「ああ。志保、コナンを頼む」
「頼むって……いいの?ストラディバリウスから目を離して」
「犯人の本当の狙いが分かったからな」
「本当の狙い……?」
「ああ」
得意げな顔で頷き、舞台袖を去ろうとした新一の前にコナンが立ちはだかった。
「お兄ちゃん、本当の狙いってどういう意味?」
「時間がねえんだ。後でゆっくり話してやっから。おめえは志保とここに……」
「やだ!ボクも行く!」
「な〜にが『ボクも行く』だよ?事件なんかそっちのけで演奏聴いてたくせに!」
「そんな事ないもん!」
「今回はダメだ!証拠を掴む瞬間を逃せねえからな、おめえがいたら足手まといだ!」
「足手まといになんかならないもん!」
半ば泣き出しそうになりながらもコナンは新一の上着の裾を頑として放そうとしない。
「……観念したら?」
志保が引導を渡すように呟く。
「……ったく」
新一は溜息をつくと、「いいか、犯人が尻尾出すまで余計な事すんじゃねえぞ」と、コナンの頭をポンッと叩いた。
「うん!」
「……本当、あの二人にとっては芸術も推理の一環なのね」
嬉しそうに兄の後を追うコナンの姿に志保は思わず微笑んだ。



「……やはりあなただったんですね」
楽屋入口で新一が声をかけると、南条卓人は驚いたように立ちつくした。その手には予想通り譜面が握られている。
「な、何の事でしょう?」
「あなたが蓮希さんの譜面台からその楽譜を抜き取るところはちゃんと見ていましたよ。おそらく今日演奏する事になっている羽賀響輔氏の新曲の譜面だと思いますが……違いますか?」
「……」
「『哀しき音色頂きに』って、蓮希お姉ちゃんにこの曲を演奏して欲しくないっていう意味だったんだね」
新一の背後からコナンが出て来ると卓人の想いを代弁するように呟いた。
「いくら天才バイオリニスト、設楽蓮希と言えど、3日前に初めて見た譜面を盗まれたら演奏は不可能でしょう。実際、蓮希さんの譜面にはもの凄い量の書き込みがされていましたしね」
「……」
「設楽家にあんな予告状を送ったのは周囲の目をストラディバリウスに向け、狙いの楽譜から注意を逸らす事が目的だったんじゃありませんか?」
「……さすがですね」
卓人はフッと力なく微笑んだ。
「私は……ずっと以前から蓮希さんの事が好きでした。あの事件が起こる前からです」
「……」
「響輔さんが逮捕されたと知って不謹慎ですがチャンスだと思いました。蓮希さんの心を私に向けるこれ以上ないチャンスだと……実際、最近はいい感じで彼女と話が出来るようになっていたんです。それなのに……」
「蓮希さんの心が未だ羽賀氏にある事を知ってしまった……」
「この曲を弾く彼女のバイオリンの音色がその事実を私に突きつけました。しかもそのバイオリンは響輔さんが蓮希さんに託したストラディバリウス……私にはとても耐えられませんでした。だから……」
「……バカね、南条さん」
ふいに声が聞こえたかと思うと蓮希が志保と共にやって来た。
「譜面なんか盗んでも仕方ないのに……私、この曲はもう暗譜しちゃってるのよ」
「え…?」
「確かに普通なら3日じゃ無理よ。でも……この曲は完璧に弾きたかったから死に物狂いで練習したの。だから……」
「そん…な……」
蓮希の言葉に卓人は力を失ったかのようにその場に跪いた。



『ぶっつけ本番』と言われた新曲だったが、その演奏は素晴らしく、客席からは盛大な拍手がおこった。
「……退屈そうね」
一人大欠伸する新一に志保はクスッと笑った。
「結局……事件でも何でもなかったからな」
『何も起きなかったんですから』という蓮希の笑顔がすべてを終結させた。
南条卓人もどこかふっきれた様子で演奏している。
「今回はコナン君のお手柄ね」
「あん?」
「蓮希さんの奏でるバイオリンの音色を『泣いてるみたい』って言ったのはコナン君だもの。さすがのあなたもあの一言がなかったら……違う?」
「まあ…な」
新一は苦笑すると志保の隣の席で無邪気に拍手する弟を見つめた。



あとがき



弟コナン君もの第四弾作品です。平次、快斗の出番がないせいか、今までで一番落ち着いた(?)作品となりました。クラシックは苦手なので色々調べるのに思った以上に四苦八苦。ちなみにシベリウスは「三毛猫ホームズの狂死曲」のヒロインの十八番から、コルンゴルトは出勤途中のカーラジオで偶然聴いた曲から頂きました@自爆