Because you are



日頃、一度眠ってしまえば朝まで熟睡するはずの阿笠がその夜に限って午前3時に目を覚ましたのは昨夜から深々と降り続く雪のせいだろうか?毛布に包まっていても感じる寒さに慌ててガウンを羽織り身を起こすと、隣で眠っているはずの哀の姿がない。
「哀君…?」
哀が度々「眠れないから」とAPTX4869の解毒剤の研究を夜中にこっそり続けている事は承知していたが、いくら暖房を点けていてもこの寒さの中一人黙々と作業を続けるのは身体にいいとは言えないだろう。
阿笠はベッドから抜け出すと哀が普段研究をしている地下室へと足を向けた。



「博士、どうしたの?こんな時間に……」
ドアを開けた途端、本来自分が言うべき台詞を先に言われ阿笠は思わず苦笑した。
「また眠れんのかの?」
「そういう訳じゃないんだけど……」
首を傾げる阿笠に哀は「……どうやら一刻も早くAPTX4869の解毒剤を開発した方が良さそうだから」と、少し寂しそうな笑顔を浮かべた。
「どうしたんじゃ?急に。新一君に何か言われたのか?」
「まさか。加害者であるはずの私にまであそこまで優しい彼がそんな事言うと思う?」
「じゃったら……」
哀は阿笠の言葉を遮るように彼を真っ直ぐ見据えると「実は最近、妙なプレッシャーを感じる事が多くてね」と、真剣な口調で呟いた。
「どうせ博士は工藤君から何か聞いているんでしょうけど」
「べ、別にワシは……」
「誤魔化す必要ないわ。彼が私には絶対言うなって博士に念を押してる事くらい簡単に想像がつくし」
「……」
全くもってその通りで、バーボンというコードネームを持つ組織の探り屋が動き出している事実を知っているのは今のところコナン、阿笠、そしてFBIだけである。
阿笠が黙っているのを肯定と受け止めたのだろう、哀は作業中のファイルを上書き保存すると、「……無理に聞くつもりはないわ。だから博士も私の事は放っておいてちょうだい」と肩をすくめた。
「じゃったらせめて教えてくれんかの?哀君は一体誰に対してプレッシャーを感じておるんじゃ?」
阿笠の質問に哀は一瞬、躊躇したような表情を見せたが「……工藤君の家に居候しているあの大学院生よ」と、きっぱり言い切った。
「沖矢君の事か?」
「ええ。初対面の時は他に二人疑わしい人がいたからはっきり分からなかったんだけど……博士の手伝いをすると言って度々ここへ来るようになって分かったの。あの独特のオーラを纏っているのは彼だってね」
「しかし……それなら新一君が自分の家を貸す訳あるまい」
「危険な人物をあえて自分のテリトリーに誘い込む事くらい工藤君ならやりかねないわ。それにあの家なら盗聴器を仕掛けたり監視カメラを仕掛けたり色々簡単に出来るでしょうし」
「じゃがのう……沖矢君はどちらかと言えば穏やかな青年じゃし、ワシには彼がそんな悪い人間には思えんのじゃが……」
「博士は人が好すぎるのよ。もっとも……あんな組織で育った私の方がひねくれているのかもしれないけど」
自分自身を卑下するように呟く哀に阿笠はしばらく黙っていたが、「……今夜はもう寝るんじゃ。この調子じゃと明け方はもっと冷えるからの」と彼女の肩を優しく抱いた。



「よぉ」
翌朝。哀が学校へ行こうと阿笠邸の玄関のドアを開けると門の前にコナンが立っていた。
「あら、どうしたの?」
「おめーの事だからこの雪をいい事に学校サボるんじゃねえかと思ってさ」
「あら、愛しい彼女との楽しい通学時間を削ってまで私を迎えに来るなんて……一体何が目的なのかしら?」
「バーロー、別に深い意図はねえよ。蘭のヤツは今日から空手の早朝稽古だってさ。関東大会で優勝しちまったからな。今度は全国制覇だって周りがうるさくてかなわねえらしいぜ?」
興味なさそうに呟くコナンを哀は「……どうせ最近、私が解毒剤の完成を急いでるって博士から聞きつけたんでしょ?」とジロリと睨んだ。
「『早く元の身体に戻りたい』が口癖のあなたから文句を言われる筋合はないと思うけど?」
「そりゃ……けどよお、だからって無理が祟っておめえが倒れちまったら元もこうもねーじゃねーか」
「そうね、解毒剤を作れる人間は私以外いないでしょうし」
「……おめえ、本当、可愛くねえな。人が心配してやってんのにそんな言い方しなくてもいいだろ?」
「余計なお世話だわ」
コナンの気遣いを切り捨てるように哀がさっさと雪の中を歩き出したその時、隣の工藤邸の門が開くと一台の車が出て来た。
「沖矢さんだ」
「……!」
沖矢の方もコナンと哀に気付いたようで、車を止めて窓を開けると、「やあ、おはよう」と笑顔を見せる。
「おはよう沖矢さん、随分早いんだね」
「今日は朝から研究室の仲間が集まるし、何よりこの雪だからね。渋滞するといけないからちょっと早めに家を出る事にしたんだ」
「ふうん」
「君達も今から学校かい?」
「うん」
「良かったら送るよ。どうせ帝丹小学校は工学院へ行く途中だし」
「本当!?」
目を輝かせるコナンの腕を哀が慌てて「ちょっと…!」と掴む。が、コナンは哀の杞憂など全く気にしていないようで、「ラッキーじゃねーか。この雪の中、乗せてってくれるって言うんだぜ?」と、すっかりご満悦の様子だ。
「あ、そうだ。悪いけど途中で友達を拾ってくれる?」
「初めて君に会った時、一緒にいた三人の子達だね。お安い御用だよ」
「ありがとう!」
コナンは沖矢に子供そのものの笑顔を向けると、さっさと後部座席を占領してしまった。
「灰原、お前も早く乗れよ」
「結構よ。私は歩いて行くから」
哀の頑とした態度に沖矢が「どうして君が僕をそこまで警戒するのか分からないけど……心配には及ばないよ。ロリコンの趣味はないからね」と、柔らかく微笑む。
「……」
さすがにここまで言われて断るのも大人気なく哀は溜息をつくと渋々車に乗り込んだ。



「そういえば前から聞きたかったんだけど……」
大通りに出た途端、運悪く引っ掛かってしまった赤信号にコナンが身を乗り出す。
「沖矢さんはホームズシリーズの中でどの話が一番好きなの?」
「そうだな、作品それぞれに違う魅力があるから一つに絞るのは難しいけれど……強いて言えば『空き家の冒険』かな?モリアーティ教授とライヘンバッハの滝で命を落としたとばかり思っていたホームズのまさかの復活だからね。ファンとしては堪らなかったよ」
沖矢は楽しそうに笑うと、「そういう君は?」とコナンに視線を投げた。
「ボクは『4つの署名』。多分、初めてテレビドラマで見た作品だったからだと思うけど」
「ああ、あれも素晴らしい作品だね」
「あとは『踊る人形』かな?あの暗号が堪らなくてさ」
「そういえば例の事件で赤白黄色の暗号を解いたのは君だったね」
コナンと沖矢、二人のホームズおたくの会話に哀は溜息をつくと車窓に流れる銀世界と化した米花町をボーっと眺めていた。が、いくら道を進んでも三人組の姿が見えない。
「ねえ、江戸川君」
「どうした?」
「小嶋君達の姿が見当たらないんだけど……」
「この雪だ。アイツらも誰かの家の車で送ってもらったんじゃねーか?」
大した問題ではないと言いたげに車窓に一瞬視線を投げるとコナンは再び沖矢とホームズ談義を始めてしまう。
(本当、ホームズが絡むと誰かさんの目は霞んじゃうんだから……)
哀が半ば諦めの心境になりかけたその時、視界に帝丹小学校の門が見えて来た。
思った通りどうやら親に送ってもらった生徒が多いらしく普段からは考えられないような台数の車が正門前に横付けされている。
「ちょっと学校から離れちゃうけどあの信号を渡った所で降りてもらってもいいかな?」
「うん」
沖矢は急に車を加速させると信号が赤になりかけているにも関わらず強引に交差点を渡ってしまった。家を出てからここまでどちらかと言うと紳士的な運転だっただけに哀も驚きを隠せない。
(この人…!)
しかしそれも一瞬の事で、信号を渡った直後、沖矢は緩やかに車のスピードを落とすと静かに路肩に停車させた。
「どうやら始業時刻には間に合いそうだね」
「うん。沖矢さん、ありがとう!」
さっさと車を降りるコナンに続き、哀が車外へ出ようとしたその時、一発の銃弾がコナンの足元の雪を抉った。
「工藤君…!?」
思わず立ちすくむ哀にコナンは「伏せろ!」と怒鳴ると彼女を地面に押し倒した。
「灰原、おめえは車の中にいろ!絶対出るんじゃねえぞ!!」
「そんな事よりあの人はどうするの!?犯人が組織の人間なら狙いは私かあなたなのよ!このままじゃ無関係の彼を巻き込んでしまうわ!」
「心配いらねえさ。あの人もオレと同様、相当悪運の強い男だからな」
「え…?」
「早く車に乗れ!」
次の瞬間、哀は強引に車内へ閉じ込められてしまった。



「大丈夫だったかね?コナン君」
現場近くの交番で事情聴取を受けていたコナン達と顔を合わせるや否や目暮が心配そうに尋ねて来た。
「うん、誰も怪我しなかったし。それにしても目暮警部、ここに来るの随分早かったね」
「ああ、ちょうどこの近くで窃盗事件があって現場へ向かっている最中だったんだ」
「ふうん」
コナンと目暮の会話に「それにしても窃盗事件に無差別発砲事件だなんて……この街も何かと物騒ですね」と沖矢が会話に加わって来る。
「……コナン君、こちらは?」
「ああ、警部さんとは初対面だっけ?沖矢昴さんっていって今、新一兄ちゃんの家に住んでいる大学院生だよ。雪の中、学校まで大変だからってボク達を車で送ってくれたんだ」
「ほう……」
目暮は沖矢へ視線を移すと「恐ろしい思いをさせてすみませんでしたな。我々も必死に捜査はしているのですが何せ手掛かりが少なくて……」と、申し訳なさそうに頭を下げた。
「無差別発砲なんて通り魔と同じようなものですからね。ターゲットが絞れない以上、仕方ありませんよ」
沖矢は目暮に穏やかな微笑みを浮かべると「それはそうと……記憶にある限りの出来事はこちらの警察の方にお話ししましたし、僕はそろそろ失礼してもよろしいでしょうか?雪も益々本降りになって来たようですし……」と、交番の外へ視線を投げた。
「ああ、失礼。随分お引止めしてしまったようで……あ、そうだ、コナン君、今日は帝丹小学校はお休みにするそうだ。良かったら家まで送るが……」
「いや、その必要はありません」
目暮の申し出を断ったのは意外にも沖矢だった。
「子供達の事は僕に任せて下さい。実はさっきメールが入りましてね、今日、研究室に集まる予定は中止になりましたから。それに……」
沖矢は言葉を切ると意味ありげに哀を見た。
「どうやら彼女は僕に話があるようですし……」
「……」
沖矢に正面から見据えられ哀は緊張感を隠す事が出来なかった。



沖矢が運転する車に乗り、工藤邸へ戻った頃には雪は更にその勢いを増していた。
「何か暖かい飲み物でも用意して来るとしよう」
リビングへコナンと哀を通すと沖矢はキッチンへと歩いて行った。その言葉にコナンはさっさとソファに座るとリモコンでテレビをつける。
「ちょっと工藤君、そんなに呑気に構えてていいの?」
「あん?」
「無差別発砲なんてよく言うわ。あの狙撃が私達を狙ったものに間違いない事くらいあなただって気付いてるはずよ」
「ああ、警察には上手い事言って誤魔化したけどな」
コナンの余裕の態度に哀のイライラが募る。
「あなた分かってるの?私達が狙われる理由はただ一つ、組織に正体がバレたって事じゃない!なのにどうしてそんなに悠長に構えていられるのよ!?」
「んな事分からねえじゃねーか。実際、この一ヶ月ほど杯戸町中心に無差別発砲事件が続いている事はおめえだって知ってるだろ?」
「だったら聞くけど、あなた、あの時犯人がいたと思われるビルの屋上へどうして駆けて行かなかったの?」
「あん?」
「いつものあなたなら少しでも手掛かりを得ようと必死になって犯人のもとへ向かっていたはずだわ」
「相手が持ってる銃の種類も弾丸の数も分からないんだぜ?そんな状況で深追い出来るはずねーだろ?」
「それでも飛び出して行くのがあなたじゃない」
「……」
「小嶋君達の姿を見かけなかったのはあの時間、あの場所で狙撃されると分かっていたから。どうせあの子達にはあなたと私は今日は学校を欠席するとでも言っておいたんでしょうけど」
「んな事……」
「そして決定的なのはあの人の運転。赤信号ギリギリで交差点を渡ったのは後続車と距離を作るため。学校から少し離れた場所に車を停車させたのは関係ない人達を巻き込まないためだったんでしょ?」
哀は言葉を切ると「組織に狙われているのは私なの?それともあなたなの?」と鋭い口調でコナンに詰め寄った。
「それは……」
「……心配する必要はない。奴らの狙いはこの俺だからな」
その時、哀の迫力にたじろぐコナンを助けるように沖矢が三人分の珈琲が乗ったトレーを手にリビングへと入って来た。
「え…?」
「始末したはずの工藤新一の家に住んでいる人間を奴らが放っておくはずないだろう。もしかしたら俺の事を工藤新一の変装だと疑っているのかもしれないな」
突然、それまでの穏やかな表情を消した沖矢に哀は「……あなた一体何者なの?」と鋭い視線を投げた。
「ボウヤの推理オタクが伝染したのか?俺が知っているシェリーは他人の事に関心を示すような女じゃなかったはずだが……」
「シェリーって……あなたまさか……!?」
驚きのあまり言葉を失う哀の前で沖矢が変装を解く。頑丈なメイクの下から現れた顔はかつて『ライ』というコードネームで組織に所属していた男のものだった。
「く、工藤君、これは一体どういう…!?」
「この人の本名は赤井秀一。おめえが以前『一度会ってみたい』って言ってたFBI捜査官さ」
「えっ…!?」
「……5年前、俺はあの組織に潜入するために君のお姉さんに近付いた」
混乱する哀に赤井が静かに語り出す。
「目的は勿論、組織の壊滅だ。だが仲間のちょっとしたミスで正体がバレてしまってな、それ以来何度奴らから天敵として命を狙われたか分からないさ。俺自身は生来の悪運の強さもあって生き延びて来たが……俺を組織に引き込んだ事で明美が組織から危険分子扱いされてしまったんだ」
「じゃ、じゃああの十億円強奪事件は…!?」
「失敗する事を見越して組織が明美に持ちかけたのさ。明美を消す口実を作るためにな」
「……!」
赤井の言葉に哀の身体がガクガク震え出す。仕事を成功させた姉が何故理由もなく殺されたのかずっと疑問だっただけに封印されていた真実は彼女にとってショック以外の何物でもなかった。
「……最初から組織に潜入する事が目的だったなら……どうしてお姉ちゃんじゃなく私に接触しなかったのよ!?」
「君は組織の中でもかなり厳しい監視下にあった。そんな君に接触するより君のお姉さんに接触する方が遥かに楽だろう?明美を通じて君と知り合い、君の周囲の人間とコネクションを持つ事が組織に潜入する近道だと判断したんだ」
「じゃ、じゃあ……あなた、最初からお姉ちゃんを利用するつもりで……!?」
「その通りだ」
「……!!」
赤井の感情の籠らない声に哀がカッとなって手を上げる。その手を掴み制止したのはコナンだった。
「工藤君!?」
「止めろ、灰原!確かに赤井さんはおめえの姉さんを利用したかもしれねえ。だが赤井さんだって明美さんの事を…!」
「そんな事関係ないわ!この人がお姉ちゃんに近付かなければお姉ちゃんは……お姉ちゃんは……!!」
哀はコナンの手を振り払うと、工藤邸のリビングから駆け出していってしまった。
「灰原…!」
哀に引き続き部屋を飛び出そうとしたコナンを「今はそっとしておいた方がいいんじゃないかな〜?」という声が引き止める。
「母さん……」
「灰原さんにとってお姉さんはたった一人の肉親だったんだもの。いくら赤井さんが自分と同じ組織と対立する立場の人間とはいえそう簡単に割り切れないんじゃないかしら?だから新ちゃんも赤井さんの事、彼女になかなか言い出せなかったんでしょ?」
「あ、ああ……」
組織に潜入しているCIA諜報員、水無怜奈への嫌疑を晴らすため、そして哀の傍で彼女を守るため、赤井を死んだように見せかけようとコナン、赤井、有希子の間で決めたのは怜奈がジンに命令されて赤井に電話したすぐ後の話だった。その時からいずれこういう日が訪れる事は分かっていたはずなのに哀があれほど自分の前で取り乱したのは初対面の時以来で、コナンの胸に痛みが走る。
「彼女に理解してもらおうなんて思ってないさ」
押し黙ってしまったコナンに代わり口を開いたのは赤井だった。
「どんな理由であれ明美が殺される原因を作ってしまったのはこの俺だからな」
「……それで?今後はどうする気?」
「申し訳ありませんがもう少し『沖矢昴』としてここで生活させて頂けませんか?私には組織を潰してあの子を自由にする義務がありますから。メイク係も引き続きよろしくお願いします」
「分かったわ」
「それにしてもあなたの変装術には驚きました。まるで千の顔を持つあの魔女だ」
赤井の言葉に有希子が「シャロン……」とその名を唇に乗せる。
「同じ師に弟子入りしていたと聞きましたが……」
「ええ……でも私、どうしても合点がいかないの。シャロンがあの組織と関わる理由が……」
「その理由はおそらく彼女が研究していた薬に関係あるんでしょう」
赤井と有希子の会話にコナンは「APTX4869……」と独り言のように呟くとリビングを後にした。



「……志保!志保ったら!」
ハッと我に返ると、明美が怪訝な表情で自分を見つめていた。
「あ…ごめんなさい、ちょっとボーっとしちゃって……」
「開発中の新薬の事が気になるのは分かるけど……私と会ってる時くらい組織の事は忘れなさいよ」
「え、ええ……」
「大体、四六時中薬の事ばっかり考えてるなんて勿体ないじゃない。恋の一つくらいしなくちゃ」
明美の口から出た『恋』という言葉に「そういえばお姉ちゃん」と志保は身を乗り出した。
「何?」
「お姉ちゃん、今でもライと付き合ってるの?」
「志保、あなた、どうして私と彼の事……!?」
「え…?」
そういえばどうして自分は姉の恋人の事など知っているのだろう?混乱する志保とは対照的に明美が「……やっと志保もこの手の話に付き合ってくれるようになったのね」と嬉しそうに微笑む。
「お姉ちゃん、騙されないで!ライは…あの男はお姉ちゃんを利用しているだけなんだから…!」
「騙されてなんかいないわ。だって私、大君がFBIだって知ってるもの。組織を壊滅するために潜入捜査してるって事もね」
「だったらどうして…!?」
「……今の志保なら分かるでしょ?」
「え…?」
「たとえ彼にとって私は組織に近付くためだけの存在だったとしても……それでも彼が好きって気持ち……振り向いてもらえないと分かっていてもそれでも抑えられない気持ち……今の志保なら分かるはずだと思うけど?」
寂しそうに明美が笑ったその時、ふいにどこからか「灰原……灰原……」と自分を呼ぶ声が聞こえた。
「工藤君…?」



「……おい、灰原、こんな所で寝てると風邪ひくぞ」
いつの間に眠ってしまったのか目の前のパソコンの画面はブラックアウトしていた。目を擦り、顔を上げるとタイミング良く暖かい珈琲が差し出される。
「ドアの鍵……掛けておいたはずなんだけど……」
「母さんはしばらくそっとしとけって言ったんだけどよ、博士があんまり心配するからコイツで開けさせてもらったんだ」
ピンを手に悪びれもなく言うコナンに哀は思わず苦笑すると「本当、探偵って人種は救いようがないわね。人のプライバシーを何だと思ってるの?」と肩をすくめた。
「あなたのお母さん、ロスに戻ってなかったのね」
「なんかオレの事が心配でずっとこっちにいたみたいだぜ。ま、だからあんな芝居が出来たんだけどよ」
「私があの人から組織の匂いを感じ取ったのにそれが途中で消えたのは彼の正体がFBIだったから?」
「多分な」
コナンは珈琲を口に運ぶと「それにしても……おめえ、姉さんの事が絡むと本当、人格変わるよな。赤井さんも『あのシェリーがあんなに取り乱すとはな』って驚いてたぜ?」とからかうような視線を投げた。
「余計なお世話だわ」
少々赤くなった顔を見られたくなくて顔を背けた哀に一台の携帯電話が差し出される。
「何よ?この携帯」
「赤井さんの携帯さ。明美さんが赤井さんに送ったメールが残ってる。おめえに見せてもいいかって聞いたら構わないって言うからよ」
「お姉ちゃんの?」
携帯を受け取り、操作すると一通のメールが表示される。そこには『大君…もしもこれで組織から抜ける事が出来たら今度は本当に彼氏として付き合ってくれますか?』というメッセージとともに追伸として自分に何かあった時は妹を頼むと記されていた。
「お姉ちゃん……」
「赤井さん言ってたぜ?明美さんの遺言だから何があってもおめえを守るってな」
「……」
「おめえに赤井さんの事、ずっと黙ってたのは悪かったと思ってる。けどよぉ、おめえの姉さんが愛した男が悪い奴じゃなくて良かったじゃねーか」
「……バカね。私のお姉ちゃんが変な男に騙されるはずないじゃない」
やっと普段の哀らしい口調が戻り苦笑するコナンに哀が「それに……」と言葉を続ける。
「抑えられない気持ちって私も何となく分かる気がするから……」
「抑えられない気持ち?何だよ、それ?」
首を傾げるコナンを「……悪いけどもう少し一人にさせてくれる?」と半ば強引に部屋から追い出すと、哀は赤井の携帯を愛おしそうに握り締めた。



あとがき



2008年「宮野の日」企画に投稿した作品の改訂版です。実はこの話、最初から2つの結末が頭に浮かびまして投稿した作品はもう一つの結末だったりします。こちらの流れの方が自然なのは最初から分かっていたのですが、参加を決めてから原稿を送るまでとにかく時間がなくて簡単に結末まで持っていけるもう一つの方で参加してしまったという@爆 企画参加の方の作品は当サイトに掲載予定はありませんのでご了承下さい。
ちなみに赤井さんの携帯、原作では燃えてしまっていますが、当然バックアップは取ってあったという事で^^;)