CALL MY NAME



新婦控え室の扉を開けた瞬間、哀の瞳に真っ白いウェディングドレスに身を包んだ歩美の姿が映った。
「哀…!」
哀の姿を認めた瞬間、嬉しそうに微笑むとパタパタ駆け寄って来る。
「歩美ったら……花嫁さんがお転婆に走っちゃダメよ」
「エヘ……ね、おかしくない?」
「とっても綺麗よ。あ、そうそう、忘れないうちに……」
哀はバッグから布袋に入ったそれを取り出した。
「はい、頼まれてたものよ」
「ありがと!それにしても『something borrowed』がフサエ・ブランドの手袋なんて、そうそう出来ない贅沢だよね」
「あら、フサエさんも喜んでたわよ。結婚式用の手袋なんて普通一回こっきりしか使わない物だからって」
「それにしても……」
「何?」
「まさか哀から借りる事になるとはねえ〜」
「あら、さりげなく失礼な事言ってくれるじゃない?」
「あ、そ、そういう意味じゃなくて……」
慌てまくる歩美にクスッと微笑んだ時だった。「お、馬子にも衣装とはよく言ったもんねえ」という台詞とともに三十代前半くらいの女性が姿を見せる。哀の記憶に間違いがなければ確か歩美の会社の先輩で、寿退職し今は夫と外国で暮らしている人物だったはずだ。
「先輩……!来て下さったんですか!?」
「かわいい吉田の一生に一度の晴れ姿だもの、地球の裏側からだって来ない訳には行かないでしょ?」
「ありがとうございます!でも、先輩、私、今日から『吉田』じゃありませんから」
「ああ……日本は本当、面倒臭いわね。じゃ、『歩美ちゃん』でいい?」
「『歩美』でいいですよ。先輩に『歩美ちゃん』なんて呼ばれたら気持ち悪いですし」
「どういう意味よ?」
楽しそうに会話する歩美の姿に哀は約15年前の出来事を思い出していた。



しまった、と思った時はもう遅い。「……『吉田さん』、ヤだって言った」と呟くと、歩美はプウッと頬を膨らませた。
小学校五年生ともなると、無邪気にクラスメートを全員『ちゃん』付けで呼び合っていた低学年時代と違い、名字に『さん』を付けて呼ぶ相手と愛称で呼ぶ相手との間に温度差が生じて来る事は否定出来ない。それを意識したのか、歩美から「ね、哀ちゃん、これからは歩美の事、名前で呼んで」と言われたのが数ヶ月前。しかし、哀は未だ幼い親友を『歩美ちゃん』とは呼べずにいた。
そんな哀に対し、最近では歩美の方も『吉田さん』という呼びかけに対しては無視を決め込むか、件の台詞を返して来るようになっているから厄介な事この上ない。
「お母さんも言ってたもん、特別に親しい人は名前で呼び合うんだ、って。歩美は哀ちゃんの事、親友だと思ってるけど、哀ちゃんにとって歩美は違うの?」
拗ねるように言う歩美に「そんな事……」と言葉を飲み込む。
約三年前、組織を崩壊に追い込み、解毒剤を完成させたものの、哀がそれを飲まなかった理由の一つに初めて出来た親友とも言える歩美の存在があった事は間違いない。が、その一方、哀は未だ自分の過去について歩美に何も話せないでいた。話してしまったらどんなに楽かと思う一方、拒絶されるのではないかという恐怖に襲われてしまうのだ。果たしてこの状態で親友と言えるのだろうか?歩美が『親友』という言葉を口にする度、そんな疑問が哀を苦しめていた。
すっかり黙り込んでしまった哀に歩美もこれ以上彼女を困らせたくないと思ったのだろう。「……ね、それより夏休みの臨海学校の事だけど」と、向日葵のような笑顔を向けた。



「はい、じゃあ午後のクイズ大会の地図を渡しますので各班の班長さんは取りに来て下さい!」
引率責任者の教師がそう告げると、生徒達から歓声が沸き上がった。
臨海学校二日目の今日は、午前中の水泳教室に続き、午後は海岸からキャンプ場の裏山を舞台にしたクイズ大会が行われる事になっている。地図には五ヶ所のポイントが書かれており、そこで待機する教師が出すクイズに答えてスタンプをもらい、午後五時までに戻って来るというものだった。
「頑張って優勝しようね!」
歩美がニッコリ笑うと受け取って来た地図を哀に見せる。クラス単位で男女別にランダムに組まれた班だったが、偶然にも哀と歩美は同じ班だった。
「歩美ちゃん、どこから廻る?」
同じ班の少女が声を掛けて来る。
「そうだなあ……」
考え込むように首を傾げる歩美だったが「……やっぱここは哀ちゃんにv」とニッコリ笑う。班長は自分だが参謀役は哀だと言いたいのだろう。やれやれと肩をすくめる哀だったが、英才教育を受けていた頃とはまったく異なる経験を予想外に楽しんでいる自分を自覚してもいた。
「そうね……遠い方のポイントから廻るっていうのはどうかしら?多分、他の班の子達は手近なところから潰していくでしょうけど、制限時間もあるし最後になって焦りたくないしね」
冷静に分析する哀を同じ班の少女達は感心したように見つめている。
「さすが哀ちゃんv じゃ、その作戦でいこう!」
張り切る歩美の様子に哀は思わず苦笑した。



一ヶ所、二ヶ所と確実にポイントをクリアし三ヶ所目のポイントへと近付いていた時の事だった。
「うわー、きれい!」
遊歩道の終点に辿り着いた途端、目の前に太平洋の青が広がる。都会育ちの少女達にとっては眩しい光景で哀も思わず見入ってしまった。足下に咲く野花も美しく、同じ班の少女の中には押し花にでもするつもりか熱心に摘んでいる者もいる。
「ね、哀ちゃん、あっち行ってみない?」
歩美の声にその方向を見ると遊歩道の終点から先に細い道があった。おそらくここを訪れた何人もの人間が道なき道を歩くうちに出来たけものみちだろう。
「『遊歩道の先は立入禁止』ってここに書いてあるけど?」
地図に書かれた注意書きを示すと、歩美が不思議そうに首を傾げる。
「あっちから見た方がもっと景色きれいだと思うのに……どうしてかなあ?」
「多分、柵が整備されてないんじゃないかしら?」
「柵?」
「ほら、この先、崖になってるでしょ?」
「う〜、せっかくここまで登って来たのに……」
しばし、地図と睨めっこしていた歩美だったが、「……班長の歩美がルール破っちゃダメだよね」と肩をすくめた。その言葉に哀も笑顔になる。
「さ、次のポイントへ向かいましょう」
「うん」
元気よく振り返ったその瞬間、強い風が歩美が被っていた麦わら帽子を吹き飛ばした。
「あ、待って……!」
哀が止める間もなく歩美は帽子を追ってけものみちを駆け出してしまう。
「吉田さん…!」
慌てて同じ班の少女達にここで待機するよう言い残すと、哀は歩美の後に続き、走り出した。



途中に立てられた「この先 崖 危険」という看板に不安を募らせた哀だったが、その心配は杞憂に終わった。
「哀ちゃん」
麦わら帽子を手に、目の前に広がる雄大な景色を見つめる歩美の姿に哀はホッと胸を撫で下ろした。
「ダメじゃない、勝手な事しちゃ……」
「ごめんね……でもこの帽子、お母さんが買ってくれたお気に入りの帽子だったから……」
相変わらず素直な歩美に思わず苦笑する。
「……さ、悪戯な風のおかげで素敵な景色も見られた事だし戻りましょ」
「うん」
哀の言葉に素直に従う歩美だったが、地盤が弱い所に足を踏み入れてしまったらしい。突然、足元の土が崩れ、身体を宙に飲み込まれてしまった。
「キャアッ!!」
「……!?」
一瞬、何が起きたか分からなかった哀だったが、身体が勝手に反応し右手で歩美の左手首を掴んでいた。
「早く……私の腕に掴まって……!」
さすがに手首を握っただけの状態では不安定で、歩美に指示を出すものの、当の歩美は恐怖で何も出来なくなってしまっている。
「早く……!!」
強い口調にもまったく無反応な歩美にさすがの哀も焦り始めた。次第に腕が痺れてきて力も入らなくなって来ている。
(このままじゃ……)
右手に限界を感じ、左手を添えようとした次の瞬間、哀の手から歩美の手首が滑り落ちた。
「歩美……!!」



夕食後は臨海学校最後の夜という事でキャンプファイヤーが行われた。クラス毎の出し物やゲーム大会、フォークダンスと、生徒達が盛り上がる様子を哀は一人、遠巻きに見つめていた。
結局、あの後、巡回していた教師に救われ、哀も歩美も崖から転落するという最悪の事態は免れる事が出来た。しかし、歩美を支えていた体勢に無理があったのか、哀は右腕の筋をかなりひどく痛めてしまったのである。
小学生の行事に参加出来ない事を残念に思う哀ではなかったが一人だけポツンと離れて賑やかな様子を見守るのは寂しかった。
(……いつの間に一人ぼっちが苦手になっちゃったのかしらね)
思わず苦笑したその時、「哀ちゃん!」という声が聞こえたかと思うと歩美が駆けて来た。
「あら、どうしたの?」
「なんか……歩美だけ楽しんでたら哀ちゃんに悪い気がして……」
「え?」
「だって……哀ちゃんが怪我したの、歩美のせいだし……」
「そんな事……気にする必要ないって言ったでしょ?」
「でも……」
しばし、考え込むように黙り込んでいた歩美だったが、「……やっぱり歩美、哀ちゃんの傍にいる!」と宣言するように言うと、哀の横に腰を下ろした。
「腕、痛くない?」
「大丈夫よ。心配しないで」
「……」
「……どうしたの?」
「あのね、哀ちゃんに怪我させちゃってこんな事言ったら怒られちゃうかもしれないけど……歩美、今日はとっても嬉しかった」
「え?」
「だって哀ちゃん、歩美の事、初めて『歩美』って呼んでくれたでしょ?」
「あ……」
咄嗟に出た言葉だっただけに、改めて言われるまですっかり忘れていた。
「ね、これからも『歩美』って呼んで。歩美も『哀ちゃん』じゃなくて『哀』って呼ぶから」
屈託無い笑顔でここまで言われては哀も観念するしかない。
「……分かったわ、歩美」
哀の口から出た自分の名前に歩美の顔がパッと輝く。その笑顔に促されたのか哀は自分でも無意識の内に「いつか……必ず話すから」と呟いていた。
「え?」
「……何でもないわ、気にしないで」
この親友なら真実を話しても拒絶される事はないだろう。穏やかに微笑むと、哀は夜空に煌めく星達を見つめた。



「そろそろお時間です」
控え室の扉が開き、係の女性が告げる。
「じゃ、吉……じゃなかった、歩美、私、聖堂の方へ行ってるから」
「あ、はい」
「間違ってもバージンロードでこけるんじゃないよ」
悪戯っ子のようにウインクして立ち去る女性の姿を苦虫を噛み潰したような表情で見送っていた歩美だったが、「そういえば……」と視線をブーケに落とす。
「花嫁が投げたブーケを受け取った女性は次に結婚出来るって言うよね?」
「ええ」
「だったら、このブーケ、哀は受け取っちゃダメだよ」
「え?」
「だって……既婚者の哀が受け取ったらバツイチになっちゃうかもしれないじゃない」
大真面目な顔で力説する歩美に哀は思わず吹き出してしまった。
「もっとも……いくら名字が変わっても『哀』は『哀』だし、哀も私の事『歩美』って呼んでくれるから関係ないけどv」
「歩美ったら……花嫁さんが縁起でもない事言うもんじゃないわよ」
「エヘ。じゃ、哀、今日はメイド・オブ・オナー、よろしくね」
「はいはい。じゃ、そろそろ行きましょうか。花婿さんが待ちくたびれちゃうわ」
「うん」
「ドレスの裾、踏まないように気をつけてね」
「もうっ!哀まで私の事バカにするんだから…!」
不満そうに口を尖らせる花嫁に「……『吉田さん』、ヤだって言った」と頬を膨らませた幼い歩美の姿が重なり、哀は自分でも気付かないうちに微笑んでいた。



あとがき



コナン50巻分のお題企画に参加させて頂いた作品で、お題は39巻『哀ちゃん』でした。原作では39巻で『灰原さん』から『哀ちゃん』に歩美の呼び方はチェンジしていますが、そういえば哀の方は変わってないなー、というところから思いついたお話です。二人のお相手は登場しませんけど、この位置にリンクを貼った事から哀の相手は簡単に推測出来ると思います@笑 (企画参加当時は内緒でしたが)
ちなみにこのお話のタイトルもパロなら、「……『吉田さん』、ヤだって言った」という歩美の台詞もパロなのですが、お気づきになった方はおみえになったでしょうか?