手足を縛っていた縄と猿ぐつわを解かれ、志保から手渡された水を口に含むとコナンはようやく落ち着きを取り戻したようだ。「ボクは大丈夫。それより……」と弱々しい声で一枚のメモを新一に差し出して来る。
「このメモは?」
「ほのかちゃんと藤堂さんを連れ去った人が言ってたんだ。『お前の家族にこの封筒を渡せ』って……」
「なるほど?つまり犯人はコナン君が世で名探偵と言われている工藤新一の弟だと知らない人物って事になるわね」
志保の呟きに新一は「ああ」と同意を返すと封筒に入っている紙を取り出した。そこには『有坂衆議院議員に伝えろ。お前の娘は預かった。無事に返して欲しければ例の文書データを用意して18時50分新堂本音楽ホールへ一人で来い』と記されている。
「どうりで見覚えのあるはずだぜ。あのほのかって娘、今話題の有坂議員の娘だったのか」
「でも『富樫』って……」
「おそらく母親の旧姓だろう」
「そういえばニュースで報道されてたわね。厚生労働大臣の汚職疑惑問題。事の発端は三日前の臨時国会で有坂議員が発言した大手企業の機密文書の存在だったかしら?」
「ああ。確か明日の国会で証拠を提出するとか言ってたからな。先手を打たれたってところだろう」
「で?どうする気?」
「志保、オレが誰か分かっててそんな事聞いてるのか?」
不敵な笑みを浮かべる新一に志保は呆れたように黙って肩をすくめると「事件の事はあなたに任せるわ」とだけ告げ、コナンをその腕に抱き上げた。
「志保お姉ちゃん!?」
「ほのかちゃんの事は心配だと思うけどコナン君は病院へ……ね?私がここで診るには限界があるし」
「そんな……ボクは大丈夫だってば!!」
コナンの反応も想定内だったのだろう、志保はクスッと笑うとその小さな身体を静かに降ろした。
「誰かさんの弟だもの。黙ってるはずがないわよね」
「志保お姉ちゃん……」
「その代わり後でほのかちゃんと一緒に病院へ行く事。いいわね?」
「うん!」
ニッコリと笑顔を向ける弟に新一は小さく息をついた。どうやらコナンの体調は心配いらないようだ。
「それはそうと……コナン、ほのかちゃんが攫われた時の状況を聞かせてくれねーか?」
「うん、あれはちょうどボクがバイオリンを藤堂さんに返そうとした時だったから……」
思い出すように呟く弟に新一の頭は完全に探偵モードに切り替わった。



ほのかのリクエスト曲『Amazing Grace』を弾き終え、コナンがバイオリンを返そうとしたその時、いりなりドアが乱暴に開くと目出し帽を被った大柄な二人の男が部屋の中へ押し入って来た。一人がほのかを抱きかかえて口元を塞ぐともう一人が藤堂とコナンの動きを制するように銃口を向ける。
「なっ…!」
「この子の命が惜しかったら我々の指示に従ってもらおうか」
動揺のあまり立ち尽くす藤堂に対しコナンは冷静に頭を働かせていた。
(さすがに今夜はお兄ちゃんのお下がりは履いて来れなかったし……素直に言う事を聞いた方が良さそうだな)
恐れるような表情を装うと「おじさん達は…?」と犯人を注意深く観察する。
「そうだな……この子の父親に用事がある人間ってところか?」
(ほのかちゃんを人質に身代金でも要求するつもりなのかな……?)
もしそうなら今ここで自分の兄が探偵の工藤新一だとバレたら厄介な事になる。コナンは「おじさん達の言う通りにするからさ、ほのかちゃんに乱暴な事しないでくれない?」と無難な言葉を選んだ。
「『レディーに乱暴な男は嫌われる』って知り合いのお兄ちゃんが言ってたよ」
「フンッ、誰だ?そんな気障な台詞ガキに教える物好きはよ」
憎まれ口を叩くもののどうやらコナンの要求は受け入れられたようで、男はほのかの足が地面に付くように彼女の身体を降ろしてくれた。
「俺達にとって用事があるのはこの娘だけだ。お前ら二人は俺達が安全な所に逃げるまでここで大人しくしていてくれればいい。念のため身体の自由は制限させてもらうがな」
その時、再びドアが開けられるとまた一人別の男が部屋へ入って来た。先に押し入って来た二人に比べると小柄で細身の身体つきである。
「上手く行ったようだな」
くぐもった声ではあったがその正体が分かったのだろう。「あなたは…!」と驚いたように叫ぶ藤堂に男がチッと舌打ちした。
「……どうやらそいつにも同行してもらわなければいけないようだ」
その言葉にコナンと会話した男が男二人を縛り上げると藤堂を伴い部屋を後にする。
ドアが閉まり、主犯格の男がコナンの視線に合わせるように膝をつくと彼の目を正面から見据えた。
「部外者の君には怖い思いをさせてすまなかった。迷惑ついでと言っては何だが……君は今日、ここへ一人で来た訳ではないだろう。おそらく警備の人間がここへも探しに来るはずだ。申し訳ないがやって来た人間にこの封筒を渡してくれないだろうか?そうすればあの子の父親に我々の要件は伝わるはずだ」
猿ぐつわを噛まされてしまっては黙って頷く事しか出来ない。そんなコナンの様子に男は「すまない」とその頭を優しく撫でると部屋を後にした。



「つまり三人の犯人のうち一人は藤堂さんと何らかの繋がりがある人物って事か……」
「音楽家の耳は普通の人より敏感だから間違いないでしょうね」
新一は推理する時の癖で顎に手をかけた。
「警察に連絡は?」
「犯人からの手紙には何も書かれてねえが万一って事もある。念のため高木警部にメールで知らせてくれ」
「分かったわ」
スマホを操作する志保の横で新一は藤堂の持ち物と思われるセカンドバックを手に取り、中から携帯と手帳を取り出した。犯人が藤堂の知り合いなら住所録にその名前があるかもしれない。
しばらくすると志保のスマホに高木美和子警部から返信が入った。
「『捜査はこちらで進めるから工藤君達はホールに残って犯人の足跡を追って欲しい』ですって」
「さすが敏腕警部、話が早いぜ。んじゃ手始めに警備室へ行って防犯カメラの映像を見せてもらうか。この部屋から得られる情報はこれ以上なさそうだ」
新一は志保に藤堂の携帯と手帳を渡すとコナンの手を握った。
「お兄ちゃん……?」
「情報解析は志保の方が得意だからな。しばらくはオレがオメーのお守役だ」
面白くなさそうに呟く兄にコナンはクスッと笑うとその手を握り返した。



エレベーターで地下へ降り、警備室へ向かっていた三人は視界に映った思いがけない人物に思わず足を止めた。
「怜子さん……?」
「あなたがここへ現れた事は藤堂の姿が見当たらない事と何か関係があるのかしら?」
真っ直ぐな視線で自分を見つめる怜子に新一は首を縦に振ると「弟の友人の女の子が何者かに誘拐されました。藤堂さんも一緒に連れ去られたようです」と告げた。
「この子と来ていた女の子って……ほのかちゃん?」
「怜子さん、あの子の事ご存知なんですか?」
「ええ。先日お母さんが亡くなっておじいさんの家に引き取られたそうよ。『とても通える距離じゃないから』って藤堂の教室を辞めたんだけど『人見知りの激しい子だから大丈夫かな?』って彼、心配してたから」
「なるほど、それで母親の旧姓を……」
納得したように呟く新一だったが、「お兄ちゃん、今はそれより早くカメラの映像を…!」というコナンの催促に「ああ」と警備室のドアホンを鳴らした。
程なくして中からドアが開くと警備主任という名札を胸に付けた男が顔を出す。
「探偵の工藤新一です。ちょっと調べて頂きたい事がありまして……」
「警備主任の秦です。警視庁の高木警部から連絡は受けています。中へどうぞ」
美和子の手回しの良さに内心感服しつつ新一は志保、コナン、怜子を伴い薄暗い警備室へ足を踏み入れた。どうやら録画をチェックする準備も既に整っているようだ。
「とりあえず藤堂さんの楽屋に一番近いカメラの映像からチェックさせて頂けますか?」
「あの部屋から一番近いのは……四階のC6ですね」
秦がそう呟いたかと思うと新一の目の前にあるパソコンに映像が現れた。
「何分くらい前の映像からチェックされますか?」
「ボクが弟を迎えに四階へ向かったのが本番の30分ほど前でしたから……念のため今から一時間前からお願いします」
「分かりました」
「それから並行してホール玄関と地下駐車場の様子を……志保、頼む」
新一の言葉に志保は黙って頷くと隣のパソコンで早速作業に取り掛かった。
モニターに集中する新一の横でコナンが「本番っていえば……怜子お姉さん、そろそろ舞台袖に行かなくていいの?」と彼女を見る。
「君に言われなくても時間には戻るわ」
「怜子さん、今日のプログラムはどのようになっているんですか?」
「一部は私がアカペラで一曲歌った後で藤堂が入場、三曲を二人で演奏するの。その後バイオリンがもう一人とチェロ、ビオラが加わって弦楽四重奏をバックに五曲、そこで一部終了。二部はフルオーケストラとの共演で藤堂の出番はなし。最後のアンコールを二人で締めて終演よ」
「藤堂さんの出番は開演後間もなくという訳ですか……」
「私としては藤堂の無事さえ確認出来ればそれでいいの。万一彼が戻らなかったら伴奏なしのアカペラで乗り切るだけの話だから」
「え…?」
しゅんとした表情になるコナンに怜子は「藤堂のバイオリンを楽しみにしている君には申し訳ないけどこの舞台の主役は私だから。プロである以上あらゆる可能性を想定しておかないといけないの」ときっぱりした口調で言い切った。
「怜子さん、ちょっといいですか?」
新一の声に怜子はコナンの肩を軽く叩くとモニターの前へやって来た。
「この男に見覚えはありませんか?」
「見覚えって言われても……ここまで顔を隠していたら誰だか分からないわ」
「確かにそうですけど……ホラ、ここ」
新一はモニターに写った主犯格と思われる男の右目を指差した。
「ホクロ…?」
「さすがに目出し帽でも隠せなかったようですね。藤堂さんの知り合いで目元にホクロがある男はいませんか?」
「簡単に言ってくれるけど……彼、クラシックを封印してからあらゆるジャンルの音楽関係者と色々やってるのよ?知り合いなんて言ったらとてもじゃないけど把握出来る人数じゃ……」
突然怜子がその先の言葉を飲み込むと「私……この声に聞き覚えがあるような……」と独り言のように呟いた。
「本当ですか!?」
「さすがに誰の声かまでは思い出せないけど間違いないわ」
「そうなると犯人は怜子さんとも接点がある人物という事になるわね」
それまで黙って事の成り行きを見守っていた志保が論点をまとめるように呟いたその時、怜子がハッとしたようにドレスの上に羽織っているジャケットから携帯電話を取り出した。
「藤堂からだわ!」
「えっ!?」
誘拐された被害者から連絡が来るという思いがけない事態に緊張が走る。
「均さん?工藤さんからほのかちゃんと一緒に連れ去られたって聞いたけど……大丈夫なの?」
新一のジェスチャーに怜子が携帯をスピーカーモードにする。電話の向こうの声は思いがけず落ち着いたものだった。
「じゃあとりあえず今あなた達二人を見張っているのは一人だけなのね?え?もし本番までに戻れなかったら?そんな事心配してる場合じゃないでしょ!」
怜子の苛立ちを無視するように藤堂は苦笑いすると「それはそうと……俺の身に何が起こったか知ってるって事はひょっとして工藤さんとそのご家族、今君の傍にいるんじゃないか?」と真剣な声になった。
「え、ええ……」
「ちょっとコナン君に代わってくれないか?頼みたい事があるんだ」
藤堂の言葉に怜子がコナンに携帯を差し出す。
「もしもし?藤堂さん?」
「良かった、どうやら君はあの後無事に保護されたみたいだな」
「藤堂さんとほのかちゃんは大丈夫?今一体どこに……」
「目隠しをされた状態で移動したから場所は分からないけど危害は加えられていないし、今いる部屋さえ出なければ連絡を取ってもいいそうだ。ほのか君も落ち着いてる」
「良かった……」
「それより……君に頼みがあるんだ。もし俺が時間までに戻らなかったら代わりに怜子の伴奏を務めてもらえないだろうか?バイオリンはオーケストラが予備を持って来ているはずだから彼女に借りてもらってくれ」
「そんな……ボクにそんな大役が務まる訳……」
「さっき君が聴かせてくれたハイドンの『弦楽四重奏曲第83番』……素晴らしかったよ。正直な話、君の才能に嫉妬した。我ながら大人気ないよな」
「え…?」
「あ……ゴメン、そろそろ切るように言われてしまった。それじゃ伴奏の件頼んだよ」
「藤堂さん…!?」
一方的に切れる通話に一瞬茫然と言葉を失うコナンだったが、怜子に携帯を返すと「ハイドンの『弦楽四重奏曲第83番』……」と考え込むように呟いた。
「お兄ちゃん、藤堂さん……一体ボクに何が伝えたかったんだと思う?」
「あん…?」
「だってボクがさっき弾いた曲って『Amazing Grace』だったんだよ?」
その言葉に新一は「おい、ハイドンの『弦楽四重奏曲第83番』ってどんな曲だ!?」と小さな弟の肩を掴んだ。
「どんな曲って……確かハイドンが亡くなる五年くらい前に書いた曲だよ。でも完成したのは四楽章のうち二楽章だけで、だから『未完成』って呼ばれてるんだ」
「四楽章のうち二楽章が未完成……コナン、未完成のパートがどこか知ってるか?」
「第一楽章と第四楽章だったはずだけど……」
「確かこの新堂本音楽ホールは以前爆破されたホールと同じ構造だって話だな……って事は!」
新一の頭の中でパズルのピースが次第に組み合って行く。
「秦さん、このホールって四階建てでしたよね?」
「はい。とは言っても一階から三階までは吹き抜けのホールで横に小さなレストスペースが設けられているだけですが。四階に大小の楽屋、地下一階がリハーサルホール、地下二、三階が駐車場です」
「このホールが再建されて五年は経過しているはずですが、未だに完成していない所なんてあるんでしょうか?」
「未完成という言葉が相応しいかどうかは分かりませんが、一階の貴賓室と四階の楽屋の一部が改修中です」
秦の回答に新一が考え込んでいると今度は志保から「こっちもチェック終わったわ」と声が上がった。
「いくらお前でも随分早いんじゃねーか?本当にチェックしたのかよ?」
「あら、名探偵を名乗る人の台詞とは思えないわね。今夜ここに子供がどれだけいると思ってるの?」
「なるほど?子連れにだけ注意すれば良かったって訳か」
納得したように呟く新一に志保は小さく肩をすくめるとプリントアウトした写真を机の上に並べた。
「この一時間の間にホールを出た人物は九人。ただしご覧の通り複数で行動していたのは一組だけよ。小さな子供を連れている様子はないし、抱えている荷物はとても人間を隠せる大きさの物じゃないわ」
「地下の駐車場は?」
「もっぱら入って来る車ばかりだったわ。駐車場管理システムも確認したけど最後の出庫記録は今から約二時間前よ」
集った情報に新一は「……どうやら藤堂さんとほのかちゃんが軟禁されているのはホール一階か四階の改修中の部屋で間違いなさそうだな」と結論付けた。
「時間も迫ってるし手分けして探すしかねえな。志保、オメーは秦さんと一緒に行動しろ。連絡は念のためこれを……」
そんな言葉とともにポケットから昔使っていた探偵バッジを取り出したその時、新一のスーツの裾を小さな手が掴んだ。
「コナン…?」
「ボクも一緒に探す!」
「バーロー、オメーには藤堂さんが戻るまで舞台を繋ぐっていう大仕事があるだろーが!」
「ボクにとってはコンサートよりほのかちゃんと藤堂さんの方が大事だもん!」
コナンの言い分は間違っていないだけにさすがの新一も頭を抱えてしまう。しかし大切な舞台をこんな小さな少年に託した藤堂の思いを無駄にする事も出来ない。
「だったら聞くが……コナン、お前は藤堂さんとほのかちゃんが一階と四階、どちらに軟禁されていると思う?推理のポイントも併せて言ってみろ」
「え…?」
「オメーの推理がオレの推理と一緒なら今のオメーに出来る探偵の仕事はそこまでだ。後の事はオレ達に任せて怜子さんと舞台袖へ行け」
「もし……お兄ちゃんの推理と違ってたら?」
「らしくねー事言ってんじゃねーよ。いつも小生意気な『工藤コナン』はどこ行ったんだ?」
「……」
兄の挑発に少しの間考え込むように目を閉じていたコナンだったが、「ボク……ほのかちゃん達は一階にいると思う」と呟いた。
「確かに四階の方が人は少ないけどスタッフや関係者しかいないでしょ?見慣れない顔がいたら目立っちゃうと思うんだ。その点、一階は人は多いけどお互い知らない人同士だもん。みんな周りの人達の事なんて大して気にしてないと思うし」
弟の答えに新一は満足そうな笑みで「合格だ」と呟くとその頭を軽く叩いた。
「よし、じゃ志保は秦さんと四階を捜索してくれ。ひょっとしたら何か犯人の手掛かりがあるかもしれねーからな」
「連絡は探偵バッジね。分かったわ」
「怜子さん、コナンの事よろしくお願いします。でも……いいんですか?」
「いいって何が?」
「プロの舞台にアマチュアのコイツを上げるなんて……他の出演者やスタッフが納得するはずが……」
「アマチュアだからよ」
思いがけない怜子の答えに新一は「え…?」と目を瞬かせた。
「今夜の客にはプロのバイオリニストも何人かいるわ。中には設楽さんみたいに代役でも快く引き受けて下さるであろう方もいる。でもね、プロがプロとして舞台に上がる以上失敗は許されないと私は思うの。たとえそれがぶっつけ本番であってもね」
迷いない表情で言い放つその姿は約十年前、江戸川コナンが初めて会ったまさに女王様然とした秋庭怜子その人で、新一は心の中で苦笑するとコナンを怜子に託し警備室を後にした。



間もなく開演という事もあり、新堂本音楽ホール一階ロビーは先程新一達がいた頃とは違い閑散としていた。未だにホールに入らずこんな所にいるのは携帯を使用したい人間か煙草を吸いたい人間だろう。
ロビーを横切り、問題の貴賓室へ向かおうとした新一の目にほのかの父、有坂の姿が見えた。相手も自分を認識したのだろう、真っ直ぐこちらへ向かって来る。
「探偵の工藤新一さんですね?高木警部から大方の事は伺っています」
「有坂さん、早速で申し訳ありませんが問題の文書データは?」
「ここに……」
有坂はセカンドバックを空けるとUSBを取り出した。
「犯人からあなたに直接連絡はありましたか?」
「はい、家を出ようとしたらポストに携帯が放り込まれていてここへ到着直前にメールが……『開演直前にホールへ入り舞台正面のドアに背を向けて立て。姿を確認次第次の指示を送る』と……」
有坂から見せられたメールの文面に新一の中に疑惑が広がった。有坂をホールの中に招いてしまったら彼は休憩時間まで外に出る事は出来なくなる。ホール外側に待機させた方がUSBの受け取りもスムーズに行くのではないだろうか……?
「工藤さん、私は一体どうすれば……」
「そうですね、時間も迫っていますし有坂さんはお嬢さんの無事が確認されるまで犯人の指示に従って下さい。ボクは今から二人が軟禁されているかもしれない場所を当たってみますので」
「よろしくお願いします」
有坂が小さく頭を下げホールの中へ姿を消したその時、四階を捜索中の志保から探偵バッジに連絡が入った。
「そうか、そっちは手がかりなしか」
「ええ……それはそうと一つお願いがあるんだけど」
「お願い?」
「私……舞台袖に行ってもいいかしら?」
「あん?何でそんな所に……」
「あなたがホール外側にいるなら私は内側にいた方が何かあった時対処出来るでしょ?探偵バッジなら連絡も取れるしね。それに……コナン君、あなたと違って繊細だから心配なの」
「……」
続く言葉を催促した自分を呪いつつも互いにホールの外側と内側で待機するという志保の案は悪くない。新一は「わーったよ」とふて腐れた声を返すと目指す部屋へ駆け出した。



志保が舞台袖を覗くと本番直前という事もあって独特の緊張感に包まれていた。忙しそうに動き回る出演者やスタッフの隙間を縫うように歩を進めると心細そうにバイオリンを抱き締めるコナンを見付け、自分の選択が正しかった事にホッと息をつく。
「コナン君」
「志保お姉ちゃん……」
志保の姿を認めた瞬間、コナンは泣き出しそうな笑顔を浮かべると「やっぱり……ボクには無理だよ……」と消え入りそうな声で呟いた。
「優勝したっていっても所詮州大会、それもジュニアの部だよ?その程度の実力しかないボクにこんな大舞台が務まる訳ないよ……」
雰囲気に呑まれ、すっかり萎縮してしまっているコナンに志保は優しく微笑むと「確かに……緊張するなっていう方が無理な話よね」とその隣の椅子に腰を下ろした。
「やっぱり事情を話して蓮希お姉ちゃんに弾いてもらった方が……」
「私はそうは思わないわ」
きっぱり言い切る志保にコナンが「え…?」と目を瞬かせる。
「怜子さんはコナン君だから一緒に舞台に上がる事にしたんじゃないかしら?」
「ボクだから……?」
「藤堂さんが正式に代役を頼んだのがコナン君、あなただからよ。コナン君、彼の前で『Amazing Grace』を弾いたって言ってたでしょ?」
「でも……そんなに長く弾いた訳じゃないし……」
「その短い時間で充分だったのよ。自分の代わりが務まるバイオリニストだと判断したから藤堂さんはコナン君を指名したの。そして藤堂さんを信用しているからこそ怜子さんはコナン君と舞台に上がる選択をした……そもそも彼女なら四曲くらいアカペラで簡単に乗り切れると思わない?」
「その通りよ」
凛とした声にその方向へ視線を向けると怜子が志保とコナンの傍へやって来た。
「藤堂が認めた君だから伴奏を任せるの。それに私自身、彼が嫉妬したとまで言う才能に興味があるしね」
「……」
「君はそんなに固く考えないで普段通りの演奏をしてくれればそれでいいの。大体今夜のコンサートなんて私の歌だけで充分お釣りが出るんだから。たとえ伴奏者が藤堂であってもそれは変わらないわ」
宣言するようにきっぱり言うと怜子はさっさと背を向け立ち去ってしまう。
「志保お姉ちゃん、ボク……やってみる!」
「コナン君?」
「ボクはともかく藤堂さんの演奏まで歌のおまけみたいに言われるのは口惜しいもん……!」
炊き付かれると熱くなる性格は新一に負けず劣らずのようで、志保は「頑張って」とその肩を軽く叩いた。



警備主任の秦と合流し、貴賓室の前へ辿り着くとドア越しに中の様子を伺う。が、さすがに重厚な作りになっているのか中の人間が話す声は全く聞こえて来なかった。
(どうする……?)
犯行グループは少なくとも三人、そのうちの一人は有坂を見張っていると考えられる。果たしてどのように制圧するか考えあぐねていたその時、「工藤君!」という聞き慣れた声がした。
「高木警部……!」
高木美和子警部が部下を二人引き連れて走って来る。心強い援軍の到着に新一はホッと息をついた。
「この部屋に犯人と人質が……?」
「おそらく……」
「ここは私達に任せて工藤君と警備員さんは下がっててちょうだい」
美和子がジャケットの内側から拳銃を取り出すと部下に頷き、勢いよくドアを開けた。
「動くな!警察よ!」
突入する美和子達に続いて部屋へ足を踏み入れた新一は驚きのあまり目を丸くした。どうやら見張り役は一人だけだったようで、その男も両手を上げて抵抗する様子もない。人質二人はリラックスした様子でソファに身を沈め、ほのかに至っては紅茶を飲みながら女の子向けの雑誌を読んでいる。
「富樫ほのかちゃん……よね?」
「……」
優しく問いかける美和子だったが、ほのかは警戒心を隠そうともせず、いきなり立ち上がると横に座る藤堂の背後に姿を隠してしまった。その様子に藤堂が「そうです、有坂議員のお嬢さんに間違いありませんよ」と苦笑する。
「それじゃああなたが彼女と一緒に連れ去られたという……」
「藤堂均です。どうやらコナン君にあのメッセージは伝わったようですね」
にこやかに対応する藤堂に「ね、ねえ工藤君、拉致された二人ってこの人達の事よね?」と美和子が戸惑ったように新一を見る。さすがの新一も想定外の展開に考え込んでしまった。
(見張りがいたと言ってもその気になれば部屋から逃げ出す事くらい出来たんじゃねーか……?)
人見知りが激しい少女が大人しく本を読んでいた点も気にかかる。
「ほのかちゃん……ひょっとして犯人は君が良く知っている人物なんじゃないか?」
「……!」
どうやら新一の指摘は図星だったようで、ほのかはビクッと身体を震わせるとますます藤堂の背に隠れてしまった。
(ひょっとして狂言誘拐か……?だがそれなら有坂さんをホール内に招き入れる必要が……)
そこまで考えた時パズルの最後のピースが埋まり、新一は自分でも気付かないうちにホールへ向かって駆け出していた。
「クソッ!なんでオレはその可能性を考えなかったんだ!?」
「ちょ、ちょっと工藤君!?」



ピンライト一本のステージ。アカペラで『Amazing Grace』を歌い上げた怜子に観客は惜しみない拍手を送っている。志保とともに舞台袖でその様子を見ていたコナンはキッとした表情になると「志保お姉ちゃん、行って来ます!」とバイオリンを手に立ち上がった。
「行ってらっしゃい」
譜面台を手にするスタッフに続いてコナンが舞台へ出て行くと観客席からどよめきが起こった。今夜ここに来ている観客の中には怜子と藤堂の共演を楽しみにしていた人間も少なからずいるのだから仕方あるまい。
(コナン君、頑張って……!)
舞台袖ギリギリまで近寄った瞬間、志保の目にその光は映った。銃口が舞台正面に立つ人物を狙っている。
「あの人……ほのかちゃんのお父さんだわ!」
探偵バッジに呼び掛けようとしたその時、志保の耳に懐かしい音階が飛び込んで来た。
「この音階……」



ヘンデル作曲、歌劇『リナルド』からアリア――奏でられている伴奏にも関わらず突然全く異なる音階を歌い出す怜子にコナンは思わずバイオリンを弾く手を止めてしまった。次の瞬間、キンッという金属音がホールの端で響く。
(怜子お姉さん一体……?でも『mi la la la fa』って……)
「コラッ!君まで演奏を止めてどうするの?」
「え?あ、でも……」
コナンの反応に怜子が「どうやら今の音階の意味が君にも分かったみたいね」と満足そうな笑みを浮かべる。
「イギリス音階で『SHOOT』……誰かがほのかちゃんのお父さんの命を狙ってたんだね。それが怜子お姉さんには見えた。だから……」
「さすがあの子の弟ね」
「でも……良かったの?」
「良かったって何が?」
「お客さんには怜子お姉さんが失敗したと思われちゃうよ?」
「私の風評なんかより人の命の方が大切でしょ?さあ、最初からやり直しよ」
きっぱり言い切る怜子にコナンは「うん!」とニッコリ笑った。



「フ〜ッ……」
銃を構えていた犯人が麻酔銃で眠り込んだのを確認すると新一はフラフラとその場に座り込んだ。舞台上の怜子が歌った旋律に推理が確信へと変わり、彼女の視線と有坂が立つ位置から犯人の居場所を特定したまでは良かったのだが、さすがに正装で全力疾走した経験はなくヘトヘトだった。
(ハハ……ここのところ運動不足だったからな……)
そんな反省に苦笑いしたその時、「28歳にしては体力不足なんじゃない?」という皮肉めいた声が聞こえた。
「志保、やっぱりオメーも気付いたか」
「気付くも何も……あのメロディを最初に吹いたのは私なのよ?」
「そうだったな」
懐かしそうに呟く新一に志保は肩をすくめると「犯人の目的はお金じゃなくて有坂議員の命だったのね」と真剣な表情になった。
「犯人の目星は付いてるの?」
「ああ、主犯はその男じゃねーよ」
「え……?」
「誘拐されたってーのに余裕な様子のほのかちゃん、藤堂さんと怜子さんが揃って聞いた事がある声……これだけ条件が揃えば推理するのは簡単さ。ですよね、有坂議員の秘書、佐々木健史さん?」
新一の言葉にスーツに白手袋をした男が姿を現した。その右目元には防犯カメラに写っていたホクロがある。
「よく気付きましたね、私の存在に」
「ほのかちゃんはあれだけ人見知りの激しい女の子です。藤堂さんの教室へ送り迎えしていたのは同じ人物だったはず……その時思い出したんです。ボクの弟が今日ここへほのかちゃんのお父さんである有坂さんの秘書が送ってくれると言っていた事を」
「……」
「毎回送り迎えしていたのだから当然藤堂さんはあなたの声を知っているはず、怜子さんはおそらく彼に会いに来た際にでも偶然あなたの声を聞いたんでしょう」
「音楽家に声を覚えられていた私の負けという事ですね……」
「それはそうと……あなたの共犯を買って出た人物を教えて頂けませんか?」
「共犯…?」
「弟からあなた達が押し入って来た時の状況を詳しく聞いたんですが、どうもあなたが人の命まで奪う悪人には思えないんです。有坂議員の殺害計画は厚生労働大臣の取り巻きの一人が立て、あなたに無断で進めていた……違いますか?」
新一の言葉に佐々木は「さすが名探偵、すべてお見通しでしたか」とホッとしたように呟いた。



「何ィ!?怜子さん、オレの正体に気付いてる!?」
コンサート本編が無事に終了し、怜子と藤堂がアンコールに応える舞台袖。新一はコナンの口から出たとんでもない報告に思わず大声で叫んだ。途端に周囲のスタッフから睨まれ慌てて口を塞ぐ。
「うん、『絶対音感持ってるくせに音痴な人なんてそうそういないもの。おまけにあれだけ容貌が似てちゃね』だって」
「……」
「コナン君、怜子さん、他に何か言ってなかった?」
絶句する新一に代わって志保が尋ねるとコナンは思い出すように天井を見上げた。
「あ……そうそう、『どうして余分に十歳年取ってるか興味はあるけど厄介事に巻き込まれるのはゴメンだから聞かないでおくわ』って笑ってたよ」
どうやら怜子は新一達の秘密を自分の胸だけに留めておいてくれるようで、志保はホッと息をついた。
その時、舞台スタッフが「コナン君、急で悪い!ダブルアンコールだ!」と三人の元へ走って来た。
「え…?」
「怜子さんがどうしても君のバイオリンをバックにもう一度『Amazing Grace』を歌いたいって聞かなくてさ。何でも十数年前に世話になった人にゆっくり聴いてもらいたいらしくて……」
「ひょっとしてそれって……」
「お兄ちゃんの事じゃない?」と兄をからかう台詞は目の前に差し出されたバイオリンに遮られた。
「藤堂さん…?」
「コナン君、これで弾いてみてくれないか?」
「え?でも……藤堂さんの大切なバイオリンをボクなんかが使える訳……」
「どうやら君は舞台に上がると更に才能を発揮するタイプのようだな。貴賓室で君のバイオリンを聴かせてもらったけど楽屋で聴いた時に比べて格段に素晴らしかったよ。だから今度はコイツで君の最高の音色を聴かせて欲しいんだ」
「私も……コナン君のバイオリン、もう一度聴きたいな」
おずおずと呟くほのかにコナンが「うん!」と笑顔になると藤堂の宝物を手に舞台へ駆け出して行く。
「……ったく、驚かしやがって」
「だから言ったでしょ?」
「あん?」
「『彼女、結構鋭いから気をつけなさい』って」
「……」
ぐうの音も出ない様子の新一に志保はクスッと笑うと舞台上の怜子とコナンを眩しそうに見つめた。



あとがき



という訳で(?)忘れた頃にやって来た「天災シリーズ」です。二万字強と少々長めの短編となりました。
プロットが出来て書き出したのが後の祭り。私、ただでさえ遅筆なのに事件ものだと更に遅くなるんですよね〜@大爆笑
お陰で書いている最中に小話のネタがチョコチョコ降って来る始末。器用じゃないのでこっちを休んで別の物を……という事が出来なくて、結局随分更新の間が開いてしまいました。
この話で一番悩んだのが実は例の「SHOOT」をコナン君が弾くか怜子さんが歌うかという点。結局弟コナン君を江戸川さんみたいなスーパー小学生にしたくなかったので怜子さんに歌って頂きました。
ちなみにゲストキャラの藤堂均さん、「どこかで聞いた名前だな」と思った方はカジウラ―ですね♪