最初の挨拶



横溝警部の事情聴取を終え、静岡から帰宅すると東の空はすでに明るくなり始めていた。
「やれやれ……さすがに疲れたのう」
リビングのソファに腰を下ろすと阿笠がホッとしたように息をつく。夜の道を約300キロも運転し、おまけに殺人事件に巻き込まれたのだから無理はあるまい。
「博士、コーヒーでいいか?」
「ミルクと砂糖を多めにしてくれんかの?」
阿笠の健康を考えると本当は好ましくないのだろうが、さすがに今の状況で控えろというのも憚られ、コナンは黙って言われた通りにするとコーヒーカップを差し出した。
「しかし…大丈夫かのう」
「あん?」
「あの娘の事じゃよ。随分落ち込んだ様子じゃから……」
「そうだな……」
静岡からの帰路、シェリーと名乗った少女はコナンと阿笠の視線を避けるように後部座席にうずくまり一言も口をきこうとしなかった。阿笠邸に到着してからも一人地下の部屋に閉じこもってしまい出て来る様子は全くない。元組織の人間である彼女に対し、全く警戒心がなくなった訳ではないが、姉を想い自分の胸で号泣した少女にさすがのコナンも胸が痛んだ。
「それにしても君があの娘の姉さんと関わっていたとは……」
「ああ……苦い思い出さ」
「縁とはまこと不思議なものじゃて……」
「……」
昨日巻き込まれた偽札事件で『黒ずくめの女』という言葉に件の女性を思い出していただけに、感慨めいたものが湧き上がり、しばし黙ってコーヒーカップを口に運ぶコナンだったが、「それはそうと……」と、溜息とともに阿笠を睨んだ。
「博士、あの女の事、もっと早くオレに連絡してくれても良かったんじゃねえか?」
「そう簡単に言うでない。大体、君は出掛けとったじゃろうが」
「『出掛けとった』って……おい博士、あの女を保護したのは一体いつの話なんだよ?」
掴みかからんばかりの勢いのコナンに阿笠はのんびりとした口調で「確か…あれは10日の夜の事じゃったと思うが……」と呟くと思い出すように視線を宙へ投げた。



「雨、上がったみたいですよ」
行きつけのレストラン『ポアロ』の店長の声に外を見ると、さっきまでの激しい雨は嘘のように静かになっていた。
「マスター、すまなかったのう。閉店時間はとっくに過ぎておったのに……」
「いえいえ、あの大雨じゃ傘は役に立たなかったでしょうし。さすがに博士が着れるサイズのレインコートはウチにはありませんからね」
からかうような視線に思わず苦笑すると、会計を済ませ、店を後にする。
独身の阿笠にとって夕食を『ポアロ』で取る事は日常茶飯事で、店と家を往復する道もすっかり決まっていた。しかし、雨宿りをしていて時刻が狂ったせいか、今夜はいつもと勝手が違うようだ。酔っ払いとすれ違いざま絡まれそうになったり、細い道を車が凄いスピードで飛び出して来たり、危険な事この上ない。
(米花町も物騒になったもんじゃのう……)
思わず溜息をついたその時、阿笠の目にそれは飛び込んで来た。
「はて…?」
隣人、工藤家の前に何やら白いものがうずくまっているのが見える。
(誰かが荷物でも落としていったんじゃろうか……?)
現在、工藤邸の住人は事情があって全員自宅に住んでいない事もあり、このまま黙って放っておく訳にもいかない。やれやれと肩をすくめ拾い上げようとそれに近付いて行った次の瞬間、阿笠は驚きのあまり立ち尽くした。
「なんと…!!」
物だと思っていたそれは小学生くらいの女の子だったのである。



びしょ濡れの服を脱がせ、すっかり冷え切ってしまっている小さな身体を毛布で包むと阿笠はホッと息をついた。
「さて……どうしたもんかのう」
幼い子供を保護したとなれば本来なら警察に届けるのが筋だろうが、少女が着ていた衣服にそれを躊躇う。小学生が白衣というだけでも充分おかしな話ではあるが、その上サイズが成人のものだったからだ。
(もしこの娘が新一君と同じじゃとすると下手に事を公に出来んし……)
少女の事が世間に知れたらコナンの事がばれるのも時間の問題だろう。コナンの身の安全のため、それだけは絶対に避けなければならない。
唯一相談出来るコナンはこの週末どこかの別荘へ出掛けているはずで、やれやれと天井を仰いだその時だった。
「ん……」
小さな呻き声とともに少女が大きな瞳をゆっくり開くと身体を起こす。
「気が付いたようじゃな?」
「私…一体……?」
「新一君の家の前で倒れておったんじゃよ」
「新一君って……高校生探偵の工藤新一?」
「ああ、そうじゃ」
「そう……なんとか目的地まで辿り着けるなんて、私にもまだ運が残っていたようね」
皮肉な笑みを浮かべる少女に阿笠は思い切って「君も新一君と同じなんじゃな?」と切り出した。
「……知ってるのね?あの薬の事」
「新一君とは隣同士という事もあって昔から家族同然の付き合いをさせてもらっておるからの。彼の事情は知っておるよ」
「なるほど、あなたが彼の協力者だったって訳ね」
少女は納得したようにフッと小さく笑うと「あなた、一体何者なの?」と阿笠に鋭い視線を投げた。
「わしは阿笠博士、発明家じゃ。良かったら聞かせてくれんかの?君の素性と、それからどういう事情で例の薬を飲まされたのかを」
「……飲まされたんじゃないわ。自分で飲んだのよ」
「なんじゃと!?」
「私のコードネームはシェリー……工藤新一が飲まされた毒薬の開発者よ」
「じゃ、じゃあまさか君は例の組織の…!?」
「……だったらどうする?」
驚きのあまり言葉を失う阿笠に少女はクスッと笑うと「……心配する必要はないわ。私、もう組織を抜けたから」と肩をすくめた。
「……どういう事じゃ?」
「詳しい事情を話すのは工藤新一がここに来てからにしてもらえないかしら?何度も同じ事を説明するのは面倒だし、そっちも聞きたくないでしょう?」
「そりゃ……じゃが今すぐ新一君に来いというのは無理じゃよ。遠出すると言っておったし……」
突然、少女が派手なくしゃみをすると、寒そうに毛布を手繰り寄せる。その様子に阿笠は彼女が何も着ていない事を思い出した。
「いかんいかん、このままでは風邪をひいてしまう。先に風呂に入って身体を温めて来なさい。話はそれからじゃ」
「……随分お人好しなのね」
「新一君はわしの大切な友人じゃ。その友人を頼って来た人間を邪険にする訳にはいかんよ」
「……」
驚いたように目を丸くする少女に阿笠は穏やかに微笑んだ。



風呂に入り少しだけリラックスしたのだろう。「……ありがとう。生き返ったわ」と表情を和らげる少女に阿笠はホッと息をついた。
「わしのパジャマではブカブカじゃろう?」
「そうね。ダイエットした方がいいんじゃない?」
遠慮ない物言いに思わず苦笑する。
「ところで一つ聞きたいんじゃが……」
「何?」
「新一君に事情を話すはいいが、その後君はどうするつもりなんじゃ?」
「さあ、どうしようかしら?」
「どうしようって……どこか身を隠すあてがあるんじゃろ?」
「……」
阿笠の言葉に少女が黙ってテレビのチャンネルを切り替える。画面に現れた映像と製薬会社炎上の文字にさすがの阿笠もハッとなった。
「ここへ来る途中、偶然ニュース速報を見かけてまさかとは思ったんだけどね……」
「まさか……組織は君を?」
「ええ、探し出して殺すつもりよ」
何でもない事のように言う少女に阿笠の方が言葉を失ってしまう。
「分かるでしょ?私の存在はどこへ行っても迷惑なだけなの。ここへ来たのは自分と同じ状況に陥った工藤新一なら力を貸してくれると思ったからなんだけど……考えてみれば彼に恨まれこそすれ、歓迎されるはずがないのよね。むしろ厄介者だわ」
「それは……」
「安心して。明日にでも出て行ってあげるから」
淡々とした口調とは裏腹な、どこか寂しげな少女の横顔に少しの間何も返せずにいた阿笠だったが、意識する前に口が動いた。
「じゃったら……わしと一緒にここで暮らさんか?」
「あなた…自分が何を言ってるか分かってるの?」
少女が信じられないものを見るような目で阿笠を見つめる。
「これも何かの縁じゃと思うしのう」
「縁って…何バカな事言ってるのよ!?私と一緒にいればいつ危険な目に遇うか分からないのよ!?たまたま保護したからってあなたに私を匿う義理なんかないじゃない…!」
「それはまあそうなんじゃが……危険に晒されておると分かってて君を放り出すなどわしには出来んよ。なあに、心配せんでも新一君が守ってくれるはずじゃ」
「でも……」
「それに君にもしもの事があったら新一君は一生元の身体に戻れなくなってしまうかもしれんしの」
「……」
阿笠の言葉に少女はフッと苦笑すると「……本当、救いようがないお人好しね」と肩をすくめた。
「そうと決まれば早速小学校へ入学手続きを取らんとのう。その身体で学校へ通わないでは怪しまれてしまうし……そうそう、名前も決めんといかんの。本名を名乗る訳にはいかんじゃろう?」
「名前……適当に決めてくれて構わないわ」
「適当という訳にはいかん。名はその人を表わす大切なものじゃからの。そうじゃ、新一君に倣って探偵の名前から拝借してみてはどうかの?」
「……その言いぶりだと『江戸川コナン』なんてふざけた名前を考えたのは工藤新一本人のようね」
「その通りじゃが…君どうしてその名を……?」
「……」
阿笠の問いに少女は何も答えず「……さ、どんな名前にしようかしら?」と、紙と鉛筆を手繰り寄せた。



「……で、まあいくつかの候補から『灰原哀』を選んだという訳じゃよ。わしは『哀愁』の『哀』より『愛情』の『愛』を勧めたんじゃが……」
「んな事どうでもいいってさっきも言っただろ?」
呆れたように自分を睨むコナンに阿笠は「そうじゃったそうじゃった」と照れ笑いを浮かべた。
「大体、オレに相談もせずに黒ずくめの女を一緒に住まわせるなんてよぉ」
「何言っとる、君だってさっきあの娘に『下手に外をうろつかれる方が迷惑だ』と言っておったじゃろう?」
「そ、それは……」
阿笠の突っ込みにコナンはオホンと咳払いすると、「とにかく……しばらくそっとしておくしかねえな。博士、悪いけどあの女の事頼んだぜ」と話の方向を変えた。
「分かっておる。横溝警部からフロッピーが返って来るまでしばらくかかるじゃろうし、その頃にはあの娘も落ち着いてくれるじゃろう」
「……ったく。博士、お人好しも程々にしておかねえと痛い目を見るぜ?」
小さな身体の少年少女からこの数日で何度『お人好し』と言われただろう?そんな思いに阿笠は思わず苦笑した。



少女が地下の部屋から出て来たのはそれから丸一日経った後の事だった。
「……さすがにお腹減っちゃってね」
はにかんだ表情でそう呟く少女に阿笠は「どうやら元気になったようじゃな」と微笑んだ。
「え…?」
「誰かが言っておった言葉じゃが食べるという行為は前へ進むための本能じゃからのう。お姉さんの事は気の毒じゃったが、君は生きておるんじゃから」
励ますように言う阿笠に少女は黙って頷くと、「……昨夜はごめんなさい」と頭を下げた。
「工藤君の推理を聞いてたら抑えられなくなっちゃって……みっともないところを見せちゃって反省してるわ」
「反省だなんて……わしも新一君もそんな事を気にするような男ではないぞ。それに……」
「……?」
「ここへ来てからずっと鎧を被っておった君が初めて素顔を見せてくれて嬉しかったしの」
「……」
阿笠の言葉に少女は照れたようにプイッと顔を背けると「……キッチン、借りるわね」とソファから立ち上がった。が、ふいに何かを思い出したように立ち止まると「ねえ」と振り返る。
「何じゃ?」
「私もあなたの事『博士』って呼んでいいかしら?」
「勿論じゃよ、哀君」



あとがき



サイト10万打オーバー記念に初期の頃から訪れ、励ましてくれた第2創作人のリクを受けさせて頂きました。「出会ってすぐの哀ちゃんと博士」というリクに対し、当初は怯えてしまい、何も反応しない哀ちゃんを書いていたのですが、ちょっと違うぞと思い直し、結局こういった形に。彼女の場合、怯えていてもそれを見せないように鎧をかぶってしまうんじゃないかな、と思ったんですよね。
今回初めて原作の時間軸の中の二次小説を書かせて頂いたのですが、結構難しかったです。妄想は「その後」の方が簡単みたいですね@爆