Get over together



「……ったく。さすがのオレでもこれだけの長編だぜ?15時間じゃ一回読むのがやっとじゃねーか……」
携帯の通話を切れるや否やブツブツ呟くコナンに哀は読みかけの雑誌から顔を上げた。
「15時間?高木警部に『明日警視庁まで来てくれると嬉しいんだけどなぁ』とでも言われたの?」
「んな事なら逆に大歓迎だっつーの」
不穏な台詞を平気な顔で言うコナンに哀は「確かにね」と思わず苦笑した。
「それにしても……大好物の推理小説の新刊を前にあなたが断れない用事なんて珍しいわね」
「断るも何も……」
コナンが盛大に溜息をつくと「母さんだよ。今からロスを出れば大体15時間後だろ?」と恨めしげに壁際の時計を見る。
「なるほど?確かに断れる相手じゃないわね」
「どーせ父さんと夫婦喧嘩でもしたんだろ?開口一番『優作ったら……せっかくロンドンで授与式があるっていうのに一緒に連れてってくれないのよ!』って叫んでたしな」
「そういえば国際的なミステリー大賞を受賞されたそうね。ネットの記事で見たわ」
「父さんの事だからたまには母さんから解放されて久し振りに小説家仲間同士で盛り上がりたいってところだろうけど……母さんの行動パターンくらい読めるはずだろ?オレにだって都合ってもんが……」
「有希子さんからすれば自宅に帰って来るだけの話だもの。ブツブツ言ったところで仕方ないじゃない」
「そんな涼しい顔してていいのか?オメーだって母さんに振り回される事になるんだぞ?」
「私はあなたと違って実の親子じゃないもの。多少愚痴を聞かされるか買い物に付き合わされる程度で済むでしょ?」
「……」
不服そうに黙り込むコナンに哀が「そろそろ夕飯にしましょうか?」とソファから立ち上がる。
「シンクの上にサラダボールが用意してあるからテーブルへ運んでくれる?取り分け用のスプーンとフォーク、お箸の用意もお願いね」
「あ、ああ……」
「……工藤君?」
「あ、何でもねーよ。それよりドレッシングは何にする?」
「お任せするわ」
「今日は博士もいねーし……サウザンにすっか」
誤魔化すような笑顔を向けるコナンに哀は「そうね」と返すのが精一杯だった。



その約15時間後。工藤邸のリビングには仏頂面で哀手作りのクッキーを口一杯頬張る有希子の姿があった。
「リージェント大通りから一歩入った裏道に素敵なお店がオープンしたって聞いて楽しみにしてたのよ。なのにあの抜け作ったら…!」
こういう時の母に何を言っても無駄である事は百も承知でコナンは乾いた笑いを浮かべる事しか出来ない。
「それにしても……美味しいわね、このクッキー。博士のダイエットがなかなか進まないのも仕方ないんじゃない?」
「ハハ……」
「ねえ哀ちゃん、もう少し頂ける?」
「よかったら紅茶のお代わりもお持ちしましょうか?」
「さっすが気が利く〜v」
ニッコリ笑う有希子に軽く会釈すると哀がリビングを後にする。その瞬間、コナンの脇腹に鈍い衝撃が走った。
「イテッ!何すんだよ?」
「し・ん・ちゃんvね、どこまで行ったの?」
「は?」
「ミネルバさんの結婚式で6月にロンドンまで行って来たんでしょ?哀ちゃんも一緒だったって話だし、さすがに『何もなかった』……な〜んて事はないんじゃない?」
「そ、それは……」
「あらヤダ!真っ赤になっちゃって!白状しなさい!」
興奮する母親に苦い思い出を掘り起こされ「白状するも何も……」とコナンが口ごもったその時、哀がドアから顔を覗かせた。
「今、紅茶の準備をしていますからクッキーだけとりあえず先に……」
「お、サンキュ」
美しく盛られた皿にコナンが手を伸ばした瞬間、哀がビクッと身体を硬直させる。
「そ、そんなに気を遣って頂かなくて結構よ。お湯が沸くまでもう少しかかるし……」
それだけ言ってさっさとテーブルに皿を置き、リビングを後にする哀の様子に有希子が「ふ〜ん……」と意味ありげな視線をコナンへ投げる。
「な、何だよ?」
「私がここへ到着した時、玄関で哀ちゃんがスリッパ薦めてくれたじゃない?あの時、偶然先に掴んだ新ちゃんの手と触れちゃって……てっきり普段無頓着な新ちゃんの気配りに哀ちゃんが驚いたのかなって思ったんだけど……」
「……」
「ひょっとして新ちゃん、哀ちゃんに変なプレイでも強要したんじゃない?」
「バ、バーロー、んな訳ねーだろ!」
「あら、じゃあ何があったの?」
父、優作ならまだしも母親とはいえ異性である有希子に事情を話す気にはなれず、押し黙るしかないコナンを救ったのはポケットの中の携帯が告げる着信音だった。
「はい、江戸川です」
電話の相手は高木警部補。一昨日米花一丁目で起こった事件の容疑者を絞り込んだものの鉄壁のアリバイがあるらしく、知恵を貸して欲しいという。
「あ……わざわざ迎えなんて必要ないですよ。現地集合ならボクの方が到着も早いでしょうし。では後ほど」
通話を切った瞬間、有希子がヒラヒラ手を振ってみせる。
「突っ込みたいのは山々だけど新ちゃんから事件を取り上げられるとは思わないし。行ってらっしゃい。ただし帰って来たら……」
「……」
不敵な笑みを浮かべる母に黙ってリビングを後にすると哀がいるキッチンへ顔を出す。
「悪ィ、高木警部補に呼ばれちまった」
「はいはい。帰れる目処が立ったらメール頂戴」
文句の一つも言わず送り出してくれる哀に「母さんが変な事言い出すかもしれねえけど……無視しとけばいいからさ」とだけ言い残すとコナンは家を飛び出した。



「窮地を事件に救われるなんて……探偵って本当、因果な商売よね」
紅茶のポットを載せたトレーを手に哀がリビングへ入って行くと有希子が呆れたように呟いた。
「窮地って…?」
「二人の様子がおかしいから新ちゃんを問い詰めてたのよ。『ロンドンで喧嘩でもしたんじゃない?』って」
「そんな……ご心配して頂くような事は……」
「誤魔化してもダ〜メ。もう何年の付き合いになると思ってるの?」
「……」
「二人とも充分大人なんだし、ただの喧嘩なら放っておくわよ。でも……そうじゃないんでしょ?」
ふんわりと微笑む有希子に哀は一呼吸置くと「……悪いのは私なんです」と呟いた。
「実はロンドンで初めて彼に言われたんです。『お前が欲しい』って……本来なら20代半ばの男性である彼が付き合っている女性に対してそういう感情を抱くのは当然だと思います。彼が私にそういう欲望を抱いてくれているというのはある意味嬉しい事ですし……でも……」
「でも…?」
「あの日は自分自身が生理中で期待に応えられる状態じゃなかったですし、何より普段かっこつけな彼のあまりに余裕ない様子がおかしくって……いつも通りの態度で接する事が出来たんですけど……帰国してから彼と接近する度に身体が震えてしまって……食器の手渡しとかそんな些細な事も出来なくなっちゃって……」
「……」
「心は許しているのに身体が勝手に拒否して……工藤君には申し訳ないし……私、一体どうしたら……」
「哀ちゃん……そんなに自分を責めないで。ね?」
有希子がハンドバッグからハンカチを取り出し、哀に差し出して来る。自分でも気が付かないうちに涙が零れていた事に哀は驚きのあまり息を呑んだ。
「哀ちゃん、あなた昔、組織の人間に乱暴されそうになった事があるそうじゃない?」
「どうしてそれを……」
「何年か前、新ちゃんが『アイツに無理ばっかさせて……』って珍しく殊勝な事言ってたから気になって……勝手に聞き出した事は謝るわ。ごめんなさい」
黙って首を横に振る事しか出来ない哀に有希子は彼女の肩をそっと抱くと「実はね、私にも似たような経験があるの」と穏やかな口調で呟いた。
「え…?」
「今でいうところのストーカーってヤツね。海外ロケまで尾けて来て追い回されて……本当、怖かったわ。最後の撮影場所になったロンドンでは滞在ホテルまで調べ上げられて……どこで聞きつけたのか私がその作品を最後に引退する事や優作との婚約まで知ってて本当に驚いたわ。突然、ホテルのロビーで『君を殺して俺も死ぬ!』ってナイフを持って突進して来たの。幸い優作が間一髪で助けてくれたんだけど……その時、お腹には新ちゃんもいたし、今思い出してもゾッとしちゃう」
「そんな事が……」
「商売柄仕方ない部分もあるんだって心では理解してても身体が……ね。事件後すっかり他人に対して構えるようになっちゃって……優作にさえ作り笑いする日々が続いて……本当、辛かったわ」
「あの……」
「なあに?」
「有希子さんはその恐怖をどうやって克服されたんですか?」
「克服なんて大層な事はしてなくてよ」
「え…?」
「ぜ〜んぶ素直に言っちゃったの。『本当は優ちゃんにベタネタ甘えたりスキンシップしたいのに勝手に身体が震えちゃうの。ごめんなさい』って。そしたら優作が言ってくれたわ。『人間には心の記憶と身体の記憶があってどちらも大事なものなんだ。有希子の身体が怖い記憶を乗り越える日を僕は信じてるよ。だから無理をしないで欲しい』って」
「素敵な言葉ですね」
「数年後、『実はあの言葉、尊敬する女流作家の受け売りだったんだ』って白状されたけどね」
面白そうに言う有希子に哀も思わず笑顔になる。
「い〜い、哀ちゃん。男なんて鈍感だからハッキリ言ってやらないと伝わらないのよ。新ちゃんなんて優作以上に鈍感なんだから面倒でも一から説明してやらないと分からないんじゃないかしら?」
「そうかもしれませんね」
有希子の言葉に哀は一息ついて紅茶を口に含むと「有希子さんのお話を伺って謎が一つ解けました」と肩をすくめた。
「謎?」
「数年前、工藤君が初めてロンドンへ行く事になった時、『父さんは海外に色々連れてってくれたけどロンドンはまだだったからな』って言っていたのを聞いて凄く違和感があったんです。親子揃ってあれだけのホームズフリークならロンドンなんて真っ先に選びそうな行き先なのにどうして?って……」
「私に気を遣ってロンドンは避けてたのよ。こっちはあの事件の事なんかとっくに乗り越えてるっていうのにね」
ふいに有希子が悪戯っ子のような笑顔になるとソファの横に置いてあったスーツケースに手をかける。
「決めた!私、今からロンドンの優作を追いかけてやる!」
「え…?」
「哀ちゃんのウブな相談に乗ってたら私も新婚時代に逆戻りしたくなっちゃったvそれじゃまたね。新ちゃんにヨロシク♪」
携帯でタクシーを呼び、リビングを後にする有希子の後姿に哀は目を丸くする他なかった。



コナンが帰宅したのはそれから小一時間後の事だった。モグラのように狭い所へ潜り込んで捜査したのだろう、全身泥だらけである。
「悪ィ、バスタオルと下着頼む」
そんな言葉とともに風呂場へと飛び込んだ彼が母親の姿がない事に気付いたのは夕飯のテーブルについた時の事だった。
「あれ、母さんは?」
「優作さんを追いかけてロンドンへ行かれたわ」
「……ったく。だったら最初から直接行けっつーの」
「私は……今日お会い出来て良かったけど……」
「え…?」
「らしくないって笑われちゃうかもしれないけど……あ、あのね、工藤君」
「灰原…?」
「ここ最近あなたを避けるような態度を取ってしまってごめんなさい。本音を言うとね、ロンドンであなたの正直な感情が聞けて凄く嬉しかったの。事件にしか興味ないんじゃないかと思えるようなあなたが私を女として求めてくれた事も。でも……あなたと触れる度ジンに襲われそうになった時の恐怖感が蘇って……身体が勝手に震えちゃって……」
「灰原……」
コナンは黙り込む哀の手に自分の手を静かに重ねると「ま、そんなところだろうって検討はついてたし……気にすんなって」と笑顔を向けた。
「前にも言っただろ?オレはオメーに無理はして欲しくねえって。そのためなら我慢もするさ」
「工藤君……」
コナンの言葉に哀がはにかむような笑顔になったその時、突然足元がグラッと揺れた。
「地震!?」
「でかいぞ!!」
震度4か5といったところだろうか?なかなか収まらない大地の震動に哀は我知らずコナンの腕にしがみついていた。
「震度5強か……震源は千葉県西部……」
いつの間にかコナンが携帯で情報をチェックしている。
「多いわね、最近」
「気候も変だし……どうなっちまってるんだろうな。ま、どっちかっていうとオメーの方が専門分野か?」
「私は化学者。科学者じゃなくてよ」
哀の切り返しにコナンがクスッと笑うと「なあ、灰原」と哀の瞳を覗き込んだ。
「オメー、地震苦手だろ?余震があるかもしれねえし……今夜オレの部屋で寝ないか?」
「え…?」
「心配すんなって。隣で寝るだけ。何もしねえからさ。ガキの身体だった頃の気分に戻ってよ」
安心させるように肩をポンポン叩くコナンを哀は「子供扱いしないでくれる?」と睨み返した。
「別にそういう訳じゃ……」
「……そうね。いつまでも子供じゃないんだもの。誰かさんの理性が働くうちに過去なんて乗り越えないとね」
「人を飢えた狼みたいに言うなよな」
不貞腐れたように呟くコナンに哀は「イビキなんかかいたら遠慮なく蹴っ飛ばすから」と悪戯っ子のような笑顔を向けた。



あとがき



8周年記念リクで「もう少し恋愛要素があっても……」というご意見を頂いていた事や相方が珍しくアダルト路線にチャレンジしているのを見て「よっしゃ、私も何か挑戦してみるか!」と思った結果がこれという@核爆 本当、甘甘やエロに縁がない人間で申し訳ありませんーー;) 
また「『邂逅〜18Years Before〜』の続編を」というお声がきっかけとなって「あの優作さんがどうして新一をロンドンへ連れて行かなかったんだろう?」という疑問にぶつかり、少々後日談など入れてみました。優有に関してはもっと書いてみたい気もするのですが果たして挑戦出来るかどうか……(某様の作品があまりにレベル高過ぎて)
作品の中に出て来る優作さんの「人間には心の記憶と身体の記憶があってどちらも大事なもの」という台詞ですが、Clamp先生の「ツバサ」「xxxHolic」で侑子さんが言っていた言葉だとモコナ達が主人公に伝えたものです。あまりに納得出来る台詞だったので優作さんの尊敬する女流作家さんの言葉として使わせて頂きました。こんな経験がある方、実は多いんじゃないかな?