Heart Delivery



「そろそろ……ね」
灰原哀は読んでいた雑誌を閉じると椅子から立ち上がった。「たまには肉も食べたいのう……」と寂しそうに呟く昨夜の阿笠を思い出し、スーパーで手に取った牛もも肉のブロック。特売品でなければ決して購入しなかった高級品だ。
下ごしらえを終えて肉と野菜を入れた鍋を火にかけ、アクを取りながらコトコト煮る事約2時間半。付け合わせ野菜を切り始めるにはちょうどいい頃合いである。人参、玉葱、マッシュルームとまな板の横に並べたその時、テーブルの上に置かれた固定電話の子機が着信を告げた。
「博士かしら…?」
今朝早くいきなり訪ねて来たコナンに「悪ぃ博士、ちょっと車出してくれねえか?」の一言で連れ出されてしまった同居人は鉄砲玉の名探偵と違い大体何時に帰れるか必ず連絡をくれる。昼過ぎに「どうやら新一のヤツ、犯人が分かったようじゃ」と言っていた事から推察するにそろそろ帰宅の目途も立ったのだろう。
が、哀の予測も虚しく開口一番阿笠の口から「すまんのう、哀君」という言葉が漏れた。
「どうかしたの?」
「それが……新一君が犯人と目星を付けていた人物が殺されてしまったんじゃ」
「それじゃあ……」
「どうやら今夜は帰れそうもないのう……」
折角ご馳走を作って待ってたのに……喉元まで出掛かった言葉を何とか飲み込むと哀は「……そう、分かったわ」と肩をすくめた。
「哀君一人家で待たせるのは心配なんじゃが……」
「何言ってるの、子供じゃあるまいし」
「それはそうじゃが……哀君の事じゃからわしらの夕飯も作って待っておったんじゃろう?」
「まあね。でも気にしないで。煮込み料理だから保存もきくし」
「本当にすまんのう……」
「博士が謝る事じゃないでしょ?それじゃ今夜は冷えるから風邪引かないように気を付けてね」
「哀君も気を付けるんじゃぞ」という言葉と共に通話が切れた瞬間、思わず溜息が出る。
(全く……どこまで事件を呼び寄せれば気が済むのかしら?)
あの名探偵が一度関わった事件を途中で放り出すとは考えられず、連続殺人事件ともなれば数日間は帰って来ないかもしれない。今夜自分が食べる分以外は最初から冷凍してしまおう……そんな事を考えながら哀が子機を充電台に戻した瞬間、それを待っていたかのように再び着信音が響いた。
「博士…?」
どうせ阿笠が何か言い忘れた事でもあってかけ直して来たのだろうと思っていた哀は受話口から聞こえて来た「あら…?」という女性の声に「あ……」と慌てて言葉を切った。
「すみません、てっきり家の者だと……失礼ですがどちら様でしょうか?」
「ウフv誰だと思う?」
哀の周囲にこんな反応を返す人間は一人しかいない。電話の向こうで愉快そうにクスクス笑う相手に哀は「博士なら早朝からあなたの息子さんに駆り出されて留守ですが……何かご用でしたか?」と小さく肩をすくめた。
「あらヤダ、もうバレちゃった……つまんないの〜」
不貞腐れたような声を出したのも一瞬、コナンの母、工藤有希子は「哀ちゃん、久し振りね!そっちはみんな変わりない?」と一転して明るい声になる。
「お陰様で……もっとも工藤君は相変わらず事件に遭遇してばかりですけど」
「それも含めて変わりないって事ね」
「そうですね」
「それはそうと……哀ちゃん、博士は今夜何時頃帰って来るか聞いてる?」
「それが……ついさっき電話があったんですけど今夜は帰れないそうです。ひょっとしたら2、3日は帰って来ないかも……」
「ええっ!?」
珍しく慌てた様子の有希子にさすがの哀も驚きを隠せない。
「あの……何か急ぎの用でも?」
「ね、ねえ、さっき新ちゃんに駆り出されてって言ったわよね?って事はまさか新ちゃんも……」
「は、はい……」
「もう!事件が起きると他の事は全部忘れちゃう所まで優作そっくりなんだから……!」
コナンの猪突猛進な所は母親似のような気がしなくもないが……頭の片隅でぼんやりとそんな事を考えるが、今それを追求すれば厄介な事になるのは間違いなく、哀は「あの……博士か工藤君でないと分からない用件なんですか?」とさりげなく話の流れを戻した。
「え…?」
「私でよければ代わりに伺いますけど……」
「他に頼める人もいないし……お願いしちゃおうかなv実は明日の午前中指定で博士宛てに送った物があるんだけど、それをある人に渡して欲しいの」
「『ある人』といいますと……?」
「ロスの家で新しく働いてもらう事になったハウスキーパーさんよ。私達がこっちへ来てからずっと勤めていた方が家の都合でニューヨークへ行く事になってね、慌てて求人を出したって訳。優作の話じゃ幸い条件にピッタリの方が見付かったらしいんだけど、その方、海外に出た経験がないらしくて……」
「パスポートが出来るのを待っていたという訳ですね?」
「ピンポーン♪さすがねvで、昨日彼女から優作にパスポートが出来た旨の連絡があって急いで航空券を博士宛てに送ったのはいいんだけど……」
「……?」
「あの抜け作、『インターポールの友人から興味深い事件の話を聞いたからちょっとロンドンまで行って来るよ。有希子、ハウスキーパーさんの件はよろしく頼む』な〜んて言い残して突然出掛けちゃったのよ!こっちは写真をチラッと見ただけでその子の名前も知らないのに……!」
「でも……航空券をこちらへ送った事を博士は知ってるんですよね?だったらご主人から名前くらい聞いてるんじゃ……」
「それがややこしい事に博士は全く事情を知らないのよね」
「え…?」
「本当は新ちゃん宛てに送るはずだったの。でも探偵事務所に送られると小五郎君や蘭ちゃんの目があるからってうるさいから仕方なく博士宛てに送ったって訳」
「それって……つまりその方に航空券を渡すのは工藤君の役目だったという事ですか?」
「そうなの。明日渡してもらわないと困るって念を押したのに……あ〜、『ああ、その人なら知ってるよ。博士宛てに送ってくれればオレが渡してやるぜ?』なんて言葉を信用した私がバカだったわ!」
「……」
届いた航空券を見れば相手の名前は分かるだろうが、他人が開けるべき封書を勝手に開封するのは気が引ける。名前も顔すらも知らない人間と落ち合い大事な書類を渡して欲しいという無茶難題にさすがの哀も眩暈を覚えた。
(でも……)
話を聞いた上で『さすがにそれは……』と断っても有希子は何とも思わないだろう。しかし、工藤夫妻には色々世話になっている事もあり、自分が力になれるならなりたかった。
「……分かりました。何とかします。工藤君はどこで何時に会う約束をしていたんですか?」
「本当に……お願いしていいの?」
「はい、それらしい方に声を掛けてみますから」
「でも……そんな事したら哀ちゃんが変な目で見られちゃうんじゃない?」
「こういう時、小学生の姿を利用しない手はないと思いますけど?」
哀の言葉に少しの間沈黙する有希子だったが、「……ありがとう、哀ちゃん。恩に着るわ」と明るい口調になった。
「その代わり今度優作が日本へ行ったら遠慮なくおねだりしてちょうだいねv」
悪戯っ子のように言う有希子に哀は「はい」とクスッと微笑んだ。



翌日。
国際宅配業者から航空券を受け取った哀は簡単に昼食を済ませると阿笠邸を後にした。
(それにしても……国内ならともかく国際配達で時間指定まで出来るとは便利な世の中になったものね)
念のためもう一度バッグに入れた封書を確認すると米花駅へ急ぐ。
有希子によると待ち合わせにコナンが指定したのは午後1時に杯戸町にある有名なカフェでとの事。確かに午前中に届けば充分過ぎるくらいの時間だが、それは相手の顔や名前を知っている場合であり、何の手掛かりもない状態で会うには少々心細くなる設定だった。おまけに今日は配達が多かったのか航空券が届いたのは12時5分前。昼食前に身支度を終えていたのは幸いだった。
駅に着いて腕時計を見ると12時半を少し回っている。何とか待ち合わせの時間には間に合いそうだ。
「……この貸しは高いわよ、工藤君」
独り言のように呟くと哀は改札を通った。



杯戸デパートを抜け3本目の路地を右に曲がり細い路地を進む事約300メートル。一見したところ普通の住宅にしか見えないが、その小さな建物こそ知る人ぞ知る高級カフェ、『La fleur d'espoir』だった。
建物の割に重厚な扉を開け、店内へと足を踏み入れるや否や珈琲の芳しい香りが哀を包み込む。カウンター上のサイフォンで珈琲を入れていたバリスタは哀の姿を認めると一瞬怪訝そうな表情になったものの、「この香り……エクセルマウンテンですか?」という彼女の問いに「ストレートとはいえ香りでこの豆が分かるとは……どうやらお嬢さんの周りにはよほどの珈琲好きが集まってみえるようですね」と笑顔を見せた。
店内は決して広いとは言えなかったが、5つあるテーブルのうち4つが埋まっており、更にカウンターは満席である。ランチをやっている訳でもないのにこんな昼食の時間帯に賑わうカフェは珍しく、逆に言えばそれだけこの店の珈琲が美味しいという事だろう。客の中で一番多いのは背広姿のサラリーマン。昼食を早めに済ませ食後の珈琲を楽しんでいるのだろう。他にはセンスのいい服を着こなした老夫婦が一組、時間調整をしている様子の中年女性が一人。カウンターに座っている客達はバリスタと楽しそうに話している事から全員常連と思われた。
哀は一つだけ空いていたテーブル席に腰を降ろすとバリスタの背後に並ぶ豆の中からブルボンナチュラルをセレクトし、入口の扉へと視線を向けた。有希子から聞いた条件に当てはまる人物は今のところ見当たらない。この店の客層を考えると案外簡単に絞り込めるかもしれない……そんな事を考えていた哀はいきなり店内に現れた二人の女性にギョッとなった。
「すみません、今度社長が出席される会議があってその準備をしているんですけど、課長から『とにかく珈琲に五月蠅い方だから』と釘を刺されてて……何かお勧めありますか?」
「この店へ度々足を運んで下さるあなた方なら大丈夫ですよ」
「でも……」
「自信を持ってお選び下さい」
バリスタの笑顔に励まされるように店の奥へと引っ込んで行く二人だったが、間もなくそれぞれ珈琲豆の名前を書かれたカードを手に戻って来た。
「レッドマウンテンにブルーパインフォレスト……ですか。失礼ですがその会議はどれくらいの時間を予定しているものでしょうか?」
「大体一時間……長くても二時間はかからないと……」
「でしたらそう何杯も必要ないでしょうからブルーパインフォレストを選択されてはいかがですか?レッドマウンテンは比較的どの店も扱っておりますが、ハイチの珈琲はヨーロッパで好まれる事もあって日本にはあまり入って来ませんから。焙煎はハイローストがおススメです」
バリスタの助言に二人の女性は「やっぱり……」「こっちの方がいいですよね」と笑顔になると再び店の奥へと歩いて行った。
(この店……まさか奥にも席が……?)
慌てて椅子から立ち上がり、二人の背中を追い掛けた哀の目に広がったのはシックなインテリアで統一された珈琲豆のセレクトショップだった。どうやらこの『La fleur d'espoir』という店は道を一つ挟んで反対側に建つ店舗と繋がっており、自由に行き来が出来るようになっているようだ。
(うっかりしてたわ……)
哀は小さく舌打ちするとテーブルへと戻って行った。有希子によると今日哀が会う予定の女性は以前別の屋敷で家政婦として働いていたらしい。当然、珈琲や紅茶についても詳しいだろう。セレクトショップ側の入口から入って来る事も充分考えられる。
(ショップ側から来られたら気付けないかもしれない……)
嫌な予感に哀が思わず肩を落としたその時、『La fleur d'espoir』の扉が遠慮がちに開けられると一人の女性が入って来た。
「いらっしゃいませ」
「あの……すみません、私、ここで待ち合わせの約束してて……」
オドオドした声に思わず視線を向けた哀は「あ…!」と声を上げそうになった。



「そうねぇ、写真を見た限りでは20代前半から中頃って感じかしら?」
「さすがに年齢だけでは……何か特徴はありませんか?髪が長いとか眼鏡をかけているとかホクロがあるとか……」
「眼鏡はかけてなかったわね。髪は……履歴書の写真はまとめ髪だったからなぁ。どれくらいの長さか見当が……あ!」
「どうされたんですか?」
「そういえば彼女、哀ちゃんと髪の色がちょっと似てたような……」
「私に……?でも染めている可能性も……」
「履歴書用の写真だもの。まず地の色なんじゃない?」
「……」
「チラッと見ただけだからそれくらいしか覚えてないんだけど……可愛らしい感じのお嬢さんだったわ。ウフッ、一足早く娘が出来た気分を体験出来そうで楽しみにしてるの♪」



髪の色が手掛かりになったのは勿論、何よりの決め手はコナンが言っていた『その人なら知ってる』という台詞だった。確か彼が解決した事件関係者の一人で、探偵団の三人と一緒に警視庁で事情聴取を受けた際、廊下ですれ違った記憶がある。哀は椅子から立ち上がると思い切って「失礼ですが……ロスに住む工藤夫妻のハウスキーパーに採用された方ですか?」と声をかけた。
「え、ええ……」
「灰原哀といいます。江戸川君の代理で来ました」
哀の口から出た『江戸川君』という名前に安心したのだろう。女性が「良かった…!待ち合わせ場所、ここで合ってたのね?」と一瞬で笑顔になる。子供のようなあどけなさに哀は「家政婦の経験があるっていうからてっきりご存知だと思ったわ」と苦笑すると向かい側の椅子をすすめた。
「それが最初にお世話になったお宅は紅茶を好まれる方ばかりだったし、その後お世話になったお宅はご家族の好みを覚える前に……」
「覚える前に……?」
「……う、ううん、何でもないの。それより自己紹介がまだだったわね。私、米原桜子。よろしくね、哀ちゃん」
「……」
「あ……私、何か変な事言った?」
「え…?あ、そういう訳じゃ……」
阿笠や歩美、工藤夫妻といったごく限られた人間しか口にしない『哀ちゃん』という呼び方をいきなり初対面の相手にされ、さすがの哀も困惑は隠せなかったが、不思議と嫌な気分にはならなかった。おそらく桜子の天真爛漫な性格が大きいのだろう。
(ま……半年もすれば工藤君や私の事情を知る事になるでしょうし……)
哀は小さく肩をすくめると「忘れないうちにこれを……」とバッグから封書を取り出しテーブルの上に置いた。
「ありがとう」
「念のため航空券の名前を確認した方がいいと思うわ」
「え…?」
「あのご夫婦、結構天然なところがあるから。綴りが間違ってたら飛行機に乗れないわよ?」
「そ、そんな事になったら……ただでさえパスポートが出来るまで待って頂いたのに……!」
哀の言葉に桜子が慌てて封を切り航空券を取り出す。が、勢いの余り同封されていた2枚の紙片が花びらのように床に舞い落ちた。
「あ…!」
オッチョコチョイなところが小さな親友そっくりで、哀はやれやれと息をつくとそれらを拾い上げた。
「ごめんなさい……」
「江戸川君がいつも言ってるけど……本当、あのお二人の金銭感覚ってズレてるわね」
「え…?」
「日本からロスへ移動するだけなのよ?航空券はあるんだし……こんなに要らないでしょ?」
そんな言葉とともに哀がテーブルの上に置いたのは額面100万円の小切手と「心ばかりの金額だけど旅費の足しにして下さい。道中気をつけてね。お会い出来るのを楽しみにしています。 有希子」というメモ書きだった。桜子は驚きのあまり「ひゃ…100万……?」と言葉を失ってしまっている。その手が握る航空券にチラッと視線を送ると『J』という表記が見えた。さすがにファーストクラスではないものの、ビジネスクラスの中でもプレミアムとされるワンランク上の座席だったはずだ。
相変わらずの工藤夫妻に苦笑する哀だったが、ふいに桜子の様子がおかしい事に気付いた。
「米原さん?」
「え…?」
「なんだか顔色が悪いような……」
「……」
少しの間、言おうか言うまいか迷っていた様子の桜子だったが、抱えている悩みを持て余しているのだろう。「こんな事、哀ちゃんみたいな小さい子に言うべきじゃないんだけど……」と重い口を開いた。
「私ね、今回のハウスキーパーの仕事……お受けしていいのか分からなくて……」
「何か不安でもあるの?」
「実は……私、短大を卒業してから今まで数件のお宅で家政婦として雇って頂いたんだけど……お勤めさせて頂く度にそのお宅に不幸な事件が起こってね、警察の人にも死を呼ぶ人間みたいに言われちゃって……」
「……」
事件を呼んでいるのはかの探偵である事に疑問の余地はない。だが純粋な桜子の事、「あなたじゃないわ」と言われれば「じゃあ誰が……?」と思ったままの疑問を口にするだろう。『江戸川コナン=工藤新一』という事実を明かせば納得してくれるかもしれないが、今の哀にそれを明かす権利はない。
(どうしたものかしらね……)
さすがの哀も考えあぐねたその時、「お待たせいたしました」という声とともにバリスタがオーダーした珈琲を手に二人がいるテーブルへとやって来た。
「ブルボンナチュラルでございます」
挽きたての豆の香しさに誘われ早速珈琲カップに口をつける。
「美味しい…!」
「ありがとうございます」
穏やかに微笑むバリスタの後姿に桜子も珈琲を口に運んだ。
「本当……美味しいわね。私、こんな本格的な珈琲初めて飲んだわ。そういえば工藤夫妻は珈琲を好まれるそうだけど……私、あんまり珈琲は詳しくないの。お好みの味に淹れられるか不安で……」
「紅茶の銘柄ならある程度分かるんでしょ?」
「え、ええ……」
「だったらそんなに心配しなくても大丈夫よ。何杯も淹れるうちに嫌でも違いが分かって来るから。大体、工藤夫妻だって雇ったばかりの家政婦さんが最初から自分好みの珈琲を淹れてくれるなんて思わないだろうし」
(もっともその息子は博士の家に来れば好みのドリップで淹れた珈琲が出て来て当然と思ってるみたいだけど……)
心の中で愚痴ったその時、『当然』という単語に哀はハッとなった。
(そうだわ……)
何かを悟ったような笑みを浮かべる哀に桜子が「哀ちゃん…?」と彼女の顔を覗き込む。
「米原さん、逆に考えてみたらどうかしら?」
「逆…?」
「自分の事を不幸を呼び寄せる疫病神と思ってるみたいだけど……だったら周囲で事件が起きて当然な環境で働けばいいんじゃないかしら?そういう意味では今回の話は願ったり叶ったりじゃない。何といっても相手は世界屈指の推理小説家、工藤優作なんだもの」
「確かにそうかもしれないけど……」
「その代わりいつどんな事件に巻き込まれても不思議じゃないけどね」
脅すような哀の口調にゴクッと唾を飲み込む桜子だったが、「……応募資格の『身寄りがいない等日本を長期間離れても支障ない方』ってそういう意味もあったんだ……」と独り言のように呟いた。
「米原さん、もしかして……」
「私のお母さん、シングルマザーだったの。あるお宅で家政婦として働いていたんだけど私が高校生の時に病気で死んじゃって……他に身寄りもないし、どうしたらいいのか分からなくて途方に暮れていた私を助けてくれたのが母が勤めていたお宅の旦那様だったわ。『短大くらい出ておいた方がいい』ってアパートを借りてくれた上に学費まで出して下さって……おまけに卒業後は母と同じく家政婦として雇って下さったの」
「……」
「正直、自分に家政婦なんて仕事似合わないし、他に夢もあったけど……その夢が実現する保障なんてどこにもないじゃない?何より路頭に迷っていた私に居場所を作って下さった旦那様に恩返しがしたかったの。だから……」
「……意外だわ。あなたも私と一緒だったのね」
「え…?」
「私ね、ある施設にいるのが嫌で……頼る当てもほとんどない状態でそこから飛び出したの。当然飲まず食わずの状態で何日も動き回れるはずもなく行き倒れになって……」
哀が言う『施設』を児童養護施設とでも解釈したのだろう、桜子は黙って彼女の話に耳を傾けていた。
「そんな私を拾ってくれたのが一人暮らしで自称発明家の老人だったわ。たまたま私が倒れていた場所の近所に住んでいただけなのに……本当、お人好しとしか言いようがないでしょ?」
「憎まれ口を叩く割には幸せそうだけど?」
優しい笑顔で突っ込んで来る桜子に哀は「そう?」とだけ返すと珈琲を口に運んだ。
「ごめんね、辛い事思い出させちゃって……でも哀ちゃんのお陰で踏ん切りが付いたわ。私、ロスで頑張ってみる。私達みたいに身寄りがない人間にとって人の縁って大切だものね」
明るい笑顔を見せる桜子に哀も自然と笑顔になった。
「あ……そういえば哀ちゃんって千葉っちや苗ちゃんと顔見知りだったわよね?」
「ええ」
「一つお願いがあるんだけど聞いてくれる?」
「私で出来る事なら……」
「これ、私のメールアドレスなんだけど……あの二人がどうなっているか時々教えてくれない?私にとって苗ちゃんは大切な親友なの。それなのに千葉っちったら全然気付いてないみたいだし……」
どうやら桜子も相当のお人好しのようで、哀は「分かったわ」と肩をすくめると差し出されたメモを受け取った。



角を曲がり阿笠邸の前まで歩いて来ると見慣れた黄色のビートルが視界に入った。どうやら哀の留守中にコナンと阿笠が帰宅したようだ。
「ただいま」
リビングへ入って行くとソファに座り、携帯を操作していたコナンが「……オメーな、出掛けるならどこ行くかくらいメモ残せよな」と不機嫌そうに哀を睨んだ。
「あら、心配してくれたの?」
「見た目は小学生なんだし……大体、組織の目がどこに潜んでいるか分からねーだろーが」
「お互い様でしょ?それはそうと……」
「博士ならコンビニへ弁当買いに行ったぜ?『わしらの分も作り置きしてくれておるようじゃが下手に温めて焦がしてしまってもいかんしのう……』だとよ」
キッチンで散々迷う阿笠の姿を想像し哀はクスッと微笑んだ。
「それにしても……博士の留守中にオメーが出掛けるなんて珍しいな。歩美達に付き合わされたのか?」
「全く……あなたって人は事件が起こると他の事はきれいさっぱり忘れちゃうのね」
「あん?」
「『航空券』と言ってあげれば思い出すかしら?」
哀の言葉にコナンの顔が一瞬で真っ青になる。
「ヤベッ!母さんに頼まれた事すっかり忘れてた……!」
想像通りの反応に哀はやれやれと肩をすくめると「はい」と空になったダンボール封筒をコナンに差し出した。
「灰原、オメー、ひょっとして……?」
「中身はそっくり米原さんに渡したから」
「さすが相棒、頼りになるぜ」
「調子いい事言っちゃって」
呆れたような視線を投げると哀はコナンの正面に腰を下ろした。
「彼女、悩んでたわよ。自分の事を新しい家に勤める度に不幸な事件を呼ぶ疫病神だって。事件を呼び寄せているのはあなたなのに……」
「その話、オレも三池さんから聞かされてヤバイと思っててさ。だから父さんからロスの家のハウスキーパーが辞める事になって求人を出すって聞かされた時、彼女を推薦したんだ。明るい彼女なら母さんとも上手くやって行けそうだしな。それに父さんの近くにいれば彼女にもチャンスが巡って来るだろ?」
「チャンス?」
「三池さんの話だと彼女、小さい頃からファンタジー作家になるのが夢だったらしいんだ。趣味で書き続けてるみてえだし、彼女に才能があるなら父さんの所に出入りする編集者が放っておかねえだろ?」
「へえ……いい所あるじゃない」
「今頃気付いたのか?」
不敵な笑みを返すコナンに呆れたような表情を浮かべる哀だったが、阿笠に負けず劣らずお人好しな工藤夫妻に心が暖かくなった。
「さすがに『La fleur d'espoir』のバリスタには敵わないけど食後の珈琲でも準備するわね」
今回の貸しは無かった事にしよう……心の中で呟くと哀はソファから立ち上がりキッチンへ向かった。



あとがき



灰原関連のテキストって『哀ちゃんのために誰かが動く話』が多いような気がするんです。だからたまにはその逆を書いてみようとプロットを練りました。
「誰のために」は解毒剤を届けるためロンドンまで出向いた工藤夫妻が一番自然かなと。そこに米原桜子さんを絡ませたのですが、出来あがったら凄く地味な話になってしまったという@苦笑
桜子ちゃん、好きなんですよ。「人一人死んでる中で非常識」と言い切る常識人だし、(家政婦としては不合格かもしれませんが)隠し事が出来ない正直者だし、おまけに下手なレギュラーキャラより可愛いし。「一回限りの登場じゃ勿体ないなぁ」と思っていたらまさかの再登場。お陰で話の内容に説得力が増しました(By 目暮警部の問題発言)
最後になりましたが、珈琲に関して色々レクチャーしてくれた相方に感謝します。