助手席は君に



「ただいま」とリビングのドアを開けた瞬間、電話のベルが鳴り、哀は慌てて受話器を取った。
「……はい、阿笠です」
「哀君か?わしじゃ」
「博士……どうしたの?」
「急な話で悪いんじゃが、ちょっとベルリンへ行く事になってのう」
「ベルリン?」
「知り合いの博士が出席する予定の会議だったんじゃが、昨夜遅く奥さんが倒れてしまったそうでの。ピンチヒッターに指名されたんじゃ」
耳を澄ますと空港のアナウンスらしきものが聞こえてくる。
「……それで?帰国はいつになるの?」
「その……会議自体は一週間なんじゃが……」
「せっかくベルリンまで行くんだからフサエさんのアトリエまで足を延ばしたい……違う?」
「ハハハ、哀君には敵わんの……」
電話の向こうで顔を赤くする阿笠の姿を想像するのは容易な事で、哀は思わずクスッと微笑んだ。
「こっちの事は心配しないで。工藤君には私から言っておくわ」
「これ、もう『工藤君』ではなかろう?」
「あ……」
阿笠の指摘に思わず言葉を飲み込む。コナンの誕生日に籍を入れ、正式に夫婦となって二週間あまり経つが、長年の癖はなかなか抜けるものではない。昨日も「もう『江戸川君』じゃないでしょ?」と歩美に突っ込まれたばかりだ。
とはいうものの、わざわざ言い直すのも照れ臭く、哀はコホッと咳払いすると、「とにかく……気をつけて行って来てね。フサエさんによろしく伝えて頂戴」と会話を続けた。
「しかし……残念じゃのう」
「え……?」
「今日は一週間に一度の肉料理が堪能出来る日じゃったのに……」
大真面目に溜息をつく阿笠に思わず吹き出しそうになる。
「外国へ行く人に『お肉は一週間に一度』なんて言わないわよ。でも、食べ過ぎには注意してね」
「心配せんでも摂生するわい。君達の子供の顔を見るまでは死ぬ訳にはいかんからの」
「博士……」
「じょ、冗談じゃ。それでは留守を頼むの」
都合が悪くなった事を敏感に悟ったのか、阿笠はさっさと電話を切ってしまった。
「……ったく。一言多いんだから」
フッと息をつくと受話器を戻す。
「それにしても……もう一人の家族は一体どうしちゃったのかしらね?」
どうやらコナンはまだ帰宅していないようだ。朝食は一緒にとったものの、「悪ぃ、オレ、今日学校パス」と言って哀より先に出掛けてしまった。どうせ事件絡みだろうと何も聞かなかったのだが、電話もメールも寄越さないのは珍しい。
「……夕食、二人分だけならそんなに急いで支度する必要もないわね」
哀は肩をすくめると地下の自分の部屋へ降りて行った。



ドアの呼び鈴が鳴ったのは、哀がリビングで昨日アメリカから届いた医学書に目を通していた時だった。コナンが呼び鈴を鳴らすはずはなく、阿笠は今頃空の上だ。
「誰かしら……?」
読みかけの本に栞をはさむと玄関へ向かう。
「はい……」
チェーンを掛けたままドアを開けると、スーツ姿の男性が立っていた。
「こんばんは。京極自動車ですが、納車に参りました」
「納車……?」
阿笠から車を買い換えるなどと言う話は聞いていない。
「あの……家じゃないと思うんですけど……」
「米花町2丁目22番地の阿笠さんのお宅ですよね?」
「え、ええ……」
「あ……失礼、ご購入者は阿笠様ではなく江戸川様なんですが……お心当たりはありませんか?」
「え……?」
男性の口から出た思わぬ名前に言葉を失った時だった。「すみません、こちらから時間を指定したのに……」という声が聞こえたかと思うと、コナンが駆けて来る。
「あ、どうも……」
どうやらコナンとは顔見知りらしく、男性はホッとしたような笑顔を見せた。
「配達先、間違えたかと思いましたよ」
「車買った事、妻には内緒にしていたものですから……」
コナンの口からさりげなく出た『妻』という言葉に、哀は先ほどの阿笠とのやり取りを嫌でも思い出してしまった。
「それではこちらにサインを……」
差し出されたボールペンを受け取るとコナンが名前を記す。
「……はい、確かに。ところで、車はどちらに?」
「あ……自分で動かしますからそのままにしておいて下さい」
「分かりました。それでは私はこれで失礼します」
男性は二人に頭を下げると立ち去って行った。



「それにしても……車を買うなら買うで一言くらい言っておいて欲しかったわね」
呆れたように自分を見つめる哀にコナンは「おめえをびっくりさせようと思ってさ」と笑顔を見せた。
「勝手に決めちまった事、怒ってんのか?」
「別に。それにしても……あなたにしては随分地味な車を選んだものね。BMWやフェラーリみたいな車がお好みなんじゃなかったの?」
「バーロー、そんな派手な車、尾行に使えねえだろ?」
「……なるほど。でも、肝心な物を忘れてるんじゃない?」
「あん?」
「免許証。いくらハワイでお父さんに習ったとはいえ、免許がないと話にならないわよ?」
「ああ、それなら……」
コナンはポケットからパスケースを取り出すと哀に差し出した。
「今日取って来たさ。ただ、自動車学校行ってねーだろ?学科試験に加えて実技試験も受けなきゃなんねえから丸一日かかっちまったんだ。おまけに帰ろうと思った時、偶然由美さんに会っちまって……」
「そういえば白鳥警視正、この春警視庁に戻って来たんだったわね」
「相変わらずオレの事はうるさいガキ扱いだけどな。それはそうと……博士、ベルリンだろ?」
「どうしてそれを……?」
「帰って来る途中、会議に行くはずの野中博士が米花総合病院から出て来るのを見かけたんだ。あの人は心臓の弱い奥さんと二人暮らしだったはずだし……そこから考えれば答えは簡単だろ?」
「……相変わらずお見事ね、探偵さん」
「それより……さ」
コナンが何か企むように哀の顔を覗き込む。
「え……?」
首を傾げた次の瞬間、ふいに抱き上げられたかと思うと、哀の身体は車の助手席へ押し込められてしまった。
「ちょ、ちょっと……!」
「その様子だと夕食の支度まだだろ?ドライブがてら外で食おうぜ」
コナンは哀に有無を言わせないかのようにさっさと玄関の錠を掛けると、運転席に乗り込み、車を発進させてしまった。
「……本当、相変わらず強引なんだから」
哀は思わず苦笑するとシートベルトを締めた。



「……東京の夜景もまんざらじゃないわね」
コナンが運転する車がレインボーブリッジへ差し掛かると、ふいに哀が呟いた。
「考えてみればおめえと二人っきりで出掛けた事ってあんまりなかったな」
「博士が車出すと聞いてあの子達が黙ってるはずないし……」
「本当、アイツら遠慮ってものを知らねえからな。この前だって……ま、今日は邪魔されなかったから良しとすっか」
「え?」
「生まれて初めて自分の運転で出掛けるんだぜ。好きな女と二人っきりの方がいいに決まってるだろ?」
「あら、あなたでも普通の男の子みたいな願望を抱く事があるのね」
「普通の男の子って……おめえな」
「……冗談よ。一番最初に助手席に乗せてもらえて光栄だわ」
クスッと笑う哀に「……本当、可愛くねえの」とコナンは苦笑した。
「そういえば……昔、犯人を追っている途中であなたにモーターボートの操縦を代わってくれって頼まれた事があったわね」
「ああ」
「あの時、さも当たり前みたいに言ったけど、もし私が操縦出来なかったらどうするつもりだったの?」
「おめえなら何とかすると思ったさ」
きっぱり言うコナンに今度は哀が苦笑する。
「それはそうと……夕食、どこで食べる気?」
「何か食いたいものあるか?」
「特にはないけど……肉がメインじゃない方がありがたいわね。今夜使うはずだったお肉、出来れば明日使いたいから」
「……相変らずしっかりしてるな」
コナンはフッと笑うと「だったら……」とハンドルを右に切った。



台場駅近くに建つホテルの日本料理店。庭園越しに見えるレインボーブリッジが美しい。
「ちょっと、あなた、一応まだ未成年なのよ?」
「いーじゃねえか、少しくらい」
当たり前のように食事とともに日本酒をオーダーするコナンに哀は思わず声を潜めて囁いた。
「少しくらいって……車で来てる事、忘れてるんじゃないでしょうね?」
「心配ねえよ。さっきこのホテルの部屋、予約して来たからさ」
「……トイレと言った割に長かったのはそういう事だったのね」
「博士もフサエさんと仲良くやってんだ。オレ達だって少しは新婚気分を味わってもバチ当たらねえと思うぜ?」
「それにしても……金曜日なのによく部屋が取れたわね」
「さすがにスタンダードは満室だったけどな。スイートは空きがあったんだ」
「また『父さんのカード』?」
「うっせーな……」
顔をしかめるコナンに哀はクスッと笑った。
「仕方ねえだろ?車買ったり保険入ったりしたら貯金なくなっちまったんだから……」
「佐藤警部からの依頼はほとんどタダ働きだものね」
「ああ……」
その時、「お待たせいたしました」という声とともに向付け、汁、ご飯に続き日本酒が運ばれて来た。お互いの盃に酌をしたはいいものの、コナンが一気に飲み干してしまう。
「ちょ、ちょっと……!」
「大丈夫だって。酒、そんなに弱い方じゃねえからよ」
コナンの笑顔に誤魔化される哀ではない。「……お酒の力を借りないと言えない事でもあるのかしら?」と、鋭い視線を投げた。
「それは……」
「本当……正直な人ね。それで?私に何が言いたいの?」
「その……オレ……大学入ったら探偵業本格化させようと思っててさ。車買ったのもそのためなんだけどよ……」
「それがどうしたの?そんな事……」
『今更言わなくても』という言葉を遮るようにコナンが哀の手を握りしめた。
「……?」
「正直……色々迷惑かけると思う。家に帰る時間も保障出来ねえし、いつ危険な目に遭うかもしれねえ。最悪……おめえが狙われるかもしれねえし……『好きだ』って気持ちだけで結婚まで突っ走っちまったけど……その……」
いつにない真剣な表情のコナンに哀は穏やかに微笑んだ。
「そんな事……あなたの人生の助手席に座るって決めた時から覚悟してるわ。大体、私、そんな事で怯む可愛い女じゃなくてよ」
哀の不敵な台詞にコナンは肩をすくめると「……だよな」と苦笑した。
「それより……あなたはどうなの?」
「オレ?」
「私みたいな素直じゃない女の人生の助手席に座った事、後悔してるんじゃない?」
「確かに……おめえに一本取られる度に凹むけどよ、それ以上に受ける刺激がたまんねえからな」
「……物好きね」
「これからもよろしくな、志保」
「こちらこそ……新一」
どちらからともなく盃を手に取り、そっと触れ合わせる。奏でられた小さな音に二人は穏やかに微笑んだ。



あとがき



小学校一年生の姿ですでに車はおろかジャンボ機まで操縦してる江戸川さんですが@笑、考えてみれば免許一つも持ってないんですよね。免許取って初めて車買ったらどんな感じなのかな?という疑問から思いついた小ネタです。最初、単純な日常ネタになってしまい、どうしようかしら?と困っていたのですが、何とか完成させる事が出来ました。ちょっと甘めのお話を目指したつもりだったのですが(←これでか?)、この二人だとこれが限界かもーー;)
ちなみに『京極自動車』というのは鈴木財閥の系列自動車会社って事で@笑