邂逅〜18Years Before〜



花の都と謳われるパリ、しかもそのシャンゼリゼ大通りのど真ん中で不機嫌そうにしている日本人はおそらく自分くらいのものだろう。そんな思いを抱きつつ、工藤優作は本日何度目かの溜息をついた。
「今のでちょうど100回目ねv」
そんな台詞とともに優作の方に振り返るのは日本屈指の有名女優で、実は優作の婚約者でもある藤峰有希子。その極上の笑顔に優作は「……そりゃ溜息ぐらいつきたくなるってもんだろ?」と顔をしかめた。
「あら、飛行機は往復ビジネスクラスだし、ホテルは一流どころだし……何か文句ある?」
「『文句ある?』って……」
優作はワナワナと身体を振わせると、ジャケットのポケットに入れていた日程表を取り出し、「これだよ、これ!」と有希子の目の前にそれを突き出した。
「俺は君がロンドンへ行くって言うからついて来たんだぞ?それなのに……」
「事情は優作さんだって理解してくれたはずでしょ?それに最後の二日間はロンドンなんだからいいじゃない」
「『いいじゃない』って……この日程じゃ自由時間なんか……」
「大丈夫よぉ。ロンドンでは私の出番はほとんどないし、優作さんが行きたがってるホームズ博物館に行く時間はちゃんと確保してあげるからv」
「……」
事も無げに笑う恋人に優作は本日101回目の溜息をついた。



話の発端は一週間前。締め切りギリギリで原稿を仕上げ、出版社へFAXを送っていた優作の元へ有希子が飛び込んで来た事に遡る。
「……その様子だと空港からここへ直行して来たみたいだな」
「え?どうして分かるの?」
「服装はラフだし、化粧もほとんど崩れてる。おまけに息が弾んでるしな」
「ご名答。さすがね」
「北海道、どうだった?」
「良かったわよ〜、空気は綺麗だし、海の幸は美味しいし、最高v」
ニコニコ笑って今回のロケの様子を話していた有希子だったが、突然、言葉を切ると「そんな事より……ね、優作さんも一緒に行こ!」と身を乗り出した。
「『一緒に行こ!』って……目的地がどこかぐらい言ってくれないと俺だってどうにも……」
「次の映画のロケで行くパリとロンドンよ。あの作品、優作さんの原作じゃない?アドバイザーとして一緒に行ってもらいたいって監督にダメもとでお願いしたらOKしてくれたの。パリとロンドン、それぞれ5日間ずつの滞在よ。どう?」
「ロンドンか……」
ホームズ好きの優作にとってロンドンは魅惑の地だ。ましてや将来書きたいと思っている『闇の男爵』シリーズの主人公は世界を股にかけ活躍する設定で、未だかつてニューヨークしか行った事がない身としては願ってもいない機会である。
「今、抱えてる仕事ってそんなにないんでしょ?」
「見ての通りちょうど原稿を送ったところさ。半月くらいは次回作の構想期間という事で休ませてもらう事になってるよ」
「それじゃあちょうどいいじゃない。プロットを練るくらいならどこだって出来るでしょ?せっかくだから行きましょうよ!」
「あ、ああ……」
かくして有希子に押し切られる形でヨーロッパ行きが決定し、出版社との打ち合わせやら出発準備やらに追われ、一週間はあっという間に過ぎ去った。そしてパリのシャルル・ド・ゴール空港で撮影隊と合流した優作はそこで愕然とする事になる。夢だったロンドン滞在はたったの2日、残りの8日はパリとその近郊で過ごす日程に予定が変更されていたのだ。
「あー、優作さん、拗ねてる〜」
さすがに不機嫌な表情を隠せないでいる優作に有希子が茶々を入れ、それが余計に彼の神経を逆撫でした。
「そりゃ……」
「予定が変わった事は申し訳ないと思ってるわ。でもお願い、スタッフを責めないで。みんな少しでも優作さんの原作を損なわないよう、必死に頑張ってくれたんだから」
「どういう事だ…?」
「実は出演する予定だった英国人俳優が病気で倒れちゃったらしいの。で、その彼が演じるはずだった場面を他の俳優が演じても物語が不自然にならないよう、脚本を急遽差し替えたんですって」
「なるほど……」
事情が事情だけに自分を納得させようとするものの、やはりロンドン滞在が短くなるという事実に不満は拭い切れない。そんな優作の本音を見透かすように有希子はニッコリ笑うと、「ホームズ大好きな優作さんが一日でも長くロンドンに滞在したいのは分かるけど、優作さんが書きたいと思ってる闇の男爵は世界中を暗躍する人物なんでしょ?だったらパリにゆっくり滞在するのも将来的にきっとプラスになるんじゃないかしら?」と、反論の余地を奪ってしまった。
「それはまあ……」
「それにね」
なおも不満を隠せない優作を無視するように有希子が言葉を続ける。
「まだオフレコなんだけど、私、この映画で女優を引退しようと思ってるの。だからその最後の仕事を優作さんに見て欲しくって」
「引退…!?俺と結婚するからって別にそんな必要はないだろう。一体なぜ…!?」
「ひ・み・つv」
有希子はクスッと笑うと、「さ、行こ!」と優作の腕を引っ張った。



シャンゼリゼ大通りを一本入った、ブランドショップが連なる事で有名なフォーブール・サントレノ通りを歩いていると、ふいに有希子が細い路地へと入って行く。その様子に優作は「おい、せっかく来たのにどの店も見ないつもりか?」と声を掛けた。一方、有希子は自分が呼ばれていると気付いているのかいないのか、さっさと路地を奥へと進んでしまう。
さすがに日本人観光客が多く、ここで「有希子」とその名を口にすればいくら変装しているとは言え、すぐに周囲にばれてしまうだろう。一人ボーっと立ち尽くす訳にもいかず、優作は慌てて彼女の後を追った。
5分ほど歩いただろうか。有希子が小さな店の中へと入って行く。アンティークの小物を扱っている店のようで、優作にその価値は分からなかったが、さりげなく壁に書かれた外国の有名俳優のサインがその店が知る人ぞ知る名店である事を物語っていた。
「私が来たかったのはこのお店なの」
茫然と店内を見回す優作に有希子が笑顔を向ける。
「ただのアンティークショップじゃないか。ブランド物のバッグとか欲しいんじゃなかったのか?」
「ブランド物もいいけど、日本人のおばさんだらけの店で買いたいとは思わないわ。唯一見たいと思うエルメス本店の博物館は予約が必要だしね」
「どうしても欲しい物があればおばさんパワーに負ける有希子さんじゃないけどv」……悪戯っ子のように有希子が微笑んだその時、カランという鐘の音とともに店の扉が開き、優作と同年代と思われる日本人男性が姿を見せた。その瞬間、「黒羽先生…!?」と有希子が驚いたように声を上げる。
「これは珍しい所で珍しい方にお会いしましたね」
果たして彼女とどういう関係なのか、訝しげな表情の優作に有希子が慌てて「優作さん、こちらは黒羽盗一先生。昔、私が変装術を教えて頂いた天才マジシャンよ」と紹介する。
「変装術…?」
「女優になりたての頃だったかな?女スパイの役をもらってね。その時お世話になったの」
「スパイ役?初耳だな」
「そりゃそうよ。だって優作さんと知り合う前の話だもの。あ、黒羽先生、この人は……」
「工藤優作さん。新進の推理小説家の先生ですよね?」
「なぜ俺の事を……?」
「世界中を飛び回っている関係でどうしても色々な本を読みますからね。あなたの作品は最近かなり話題になっていますし、新刊が出る度に読ませて頂いていますよ」
柔和な表情でそう呟く盗一だが、どこか隙がない様子に優作は「……それはありがたいお言葉ですね」とだけ呟いた。
「ところで有希子さん、今回のパリはプライベートで…?」
「残念ながら仕事ですわ。この後ロンドンへ移動する予定です」
「ほう。それで工藤先生がついて来られた訳ですね」
盗一の思わぬ言葉に優作は「え?」と目を丸くした。
「あなたの作品を拝読しているといかにホームズフェチか伝わって来ますから……」
「……」
せめてホームズフリークと言って欲しいものだと頬を膨らませる優作だが、さすがにそれを表に出す事はなく、「そういう黒羽さんはパリにはどんなご用で?」と話を切り返した。
「明後日行われるマジックの国際大会に出場する予定になっていましてね」
「優作さん、黒羽先生はね、『東洋のマジックハンド』と呼ばれるほどの実力者なのよ」
解説を加える有希子に盗一は苦笑すると、「そういえば有希子さん、最近音沙汰がないから心配しているんだが、シャロンは元気かい?」と話題を変えた。
「ええ、今度アカデミー賞を獲った有名な監督の映画に主演するって言っていましたわ」
「そうか、きっと素晴らしいものになるだろうね」
盗一の台詞に有希子が「ええ」と頷く。そんな有希子に盗一は「さて……それでは私は一足先に失礼するよ」と穏やかな微笑みを浮かべると、恋人への土産なのか少々値が張る指輪とブレスレットを購入し、店から立ち去って行った。



その夜。撮影のためタクシーでロケ地へと向かった優作と有希子は、目的地が警察によって封鎖されている事に驚いた。見れば他の役者や撮影隊も困り果てた表情でその様子を見つめている。
「どうしたの?」
「あ、有希子さん…!」
有希子のマネージャーが駆け寄って来ると、「実はロケ地近くの美術館に宝石を盗むという泥棒の予告状が届いたようで、辺り一帯が封鎖されてしまって……」と声を潜めた。
「泥棒の予告状!?」
「……予告状とは今時随分レトロな行為をする人間もいるもんだな」
「優作さんったら!感心してる場合じゃないでしょ?このままじゃ予定が全部狂っちゃうわよ?」
「全部……?」
下手をしたら夢にまで見たロンドン行きが露のごとく消えてしまうかもしれない。そんな自分本位な理由で危機感を募らせた優作は、「ちょっと失礼」と近くにいた警官を呼び止めた。英語ほどではないがフランス語も日常会話程度ならこなせるよう勉強しておいたのは幸いだった。
「何か?」
明らかに不審者に向ける眼差しで自分に寄って来る警官を刺激しないよう、優作は穏やかな微笑みを浮かべると、「捜査の責任者の方に会わせて頂けませんか?」と申し出た。
「え?」
「私の名前は工藤優作と申します。あまり知られてはいませんが、こう見えても日本では知る人ぞ知る探偵でしてね。何かお力になれるかと」
「……」
優作の言葉にその警官は一瞬考え込んだような表情になったが、「……ちょっと待ってて下さい」とだけ言い残し、美術館の中へと姿を消した。ほぼ同時に「ちょっと、優作さん」と有希子が優作の腕を引っ張る。
「探偵だなんて……あんな嘘ついて大丈夫なの?」
「嘘じゃないさ。目暮警部補に頼まれて俺が始終警察の捜査に協力している事は君だって知ってるだろ?」
優作の反応に有希子は呆れたと言いたげに目を丸くしたが、「……それじゃ、探偵『工藤優作』の腕前、たっぷり拝見させてもらおっかなv」と微笑んだ。



声を掛けた警官に紹介されたのはパリ市警のアレクシ・ゼヴァルドという名の警部だった。
「工藤優作さん、ですか?日本で探偵業を営んでおられると聞きましたが……」
「本業は推理小説家なんですが、警視庁の知り合いに頼まれて時々事件を解決しています。これまでに解決した事件はざっと200件くらいかと……」
「200件ですか……果たしてあなたの年齢でその数が多いのか少ないのか私には分かりませんが……」
「知り合いが私に持ち込んで来るのは迷宮入り直前の事件ばかりでして……数こそ多くはありませんが、難事件ばかりだったと自負しています」
堂々とした態度の優作にゼヴァルド警部はしばし黙って彼を見つめていたが、「……届いた予告状のコピーです」と、懐から一枚の紙を取り出した。
「失礼」
紙を受け取った瞬間、優作は心の中で「なるほど」と呟いた。おそらく自分がここに立ち入る事を許されたのはこの予告状の事もあったからだろう。なぜならそれは英語でもフランス語でもなく、日本語で書かれていたのだから。
<咲かぬ薔薇と愛する女を捨てた愚か者が眠る墓所の前庭を線対称に位置するパリ万博の遺産と古き駅舎。明朝午前2時、その駅舎にゲストとして招かれたアムリタを頂きに参上する。 我は名も無き怪盗>
まるで暗号のような予告状に優作の興奮が高まる。
「『咲かぬ薔薇と愛する女を捨てた愚か者が眠る墓所』とはナポレオンが眠るアンヴァリッド。『パリ万博の遺産』と言えばエッフェル塔……つまり『古き駅舎』とはこのオルセー美術館という訳ですね?」
「ほう……一瞬でそこまで解読するとはなかなかのものですね」
ゼヴァルド警部が感心したように優作を見たその時、「ねえ、どうして古き駅舎がこの美術館なの?」という無邪気な声が聞こえた。気が付けばいつの間にか有希子が優作の背後から彼が手に持っている予告状を覗き込んでいる。
「有希子、どうして…!?」
「ウフッ、さっきの警察官に『工藤探偵の助手です』ってスタッフに通訳してもらったら入ってもいいって言ってくれたのv」
「……」
相変らずびっくり箱な有希子に思いっ切り脱力してしまった優作だったが、「オルセー美術館は元々駅舎として建築されたんだよ」と、気を取り直すように美術館にしてはやけに大きな壁時計に視線を向けた。
「駅舎?」
「ああ。1900年のパリ万博に合わせてオルレアン鉄道の終着駅としてね」
「そうなんだー。……で?『咲かぬ薔薇と愛する女を捨てた愚か者が眠る墓所』がどうしてそのアン……何だっけ?」
「アンヴァリッド」
「そうそう。それがどうしてそのアンヴァリッドになる訳?」
「ナポレオンが皇帝にまで上り詰める事が出来たのは彼の妻で、薔薇のコレクターとしても有名だった妻・ジョゼフィーヌの献身的な努力あってのものだったんだ。ところがジョゼフィーヌはナポレオンより6歳年上でね、結婚から13年経っても2人の間に子供は出来なかった。皇帝の地位を世襲し、ボナパルト家を名門貴族にする野望を抱いていたナポレオンはジョゼフィーヌと離婚してしまうんだよ。そして新しい妻を得、子供も生まれたが、その妻と上手くいかなくてね、愚かにも別れた妻、ジョゼフィーヌの元へ通ったんだ。当然、新しい妻がそれを黙っているはずがない。結局、ナポレオンはストレスが溜まり、それが原因ですべてを失ってしまったんだよ」
「ふうん……」
有希子は感慨深げに呟くと、「……じゃ、そういう点では私が優作さんに捨てられる心配はない訳だv」と、悪戯っ子のような視線を優作に投げた。
「『そういう点で』って……有希子、俺達にはまだ……」
思わず苦笑した優作だったが、次の瞬間、「まさか…君が引退すると言い出した理由は……」と真剣な目で有希子を見つめる。
「さあ、どうかしら?」
「『どうかしら?』で済む問題じゃないだろ?おい……」
「お取り込み中の所申し訳ありませんが……」
コホッと咳払いするとゼヴァルド警部が二人の会話に割って入って来た。
「我々はどうしても解けなかったのですが……探偵さん、あなたは最後の『ゲストとして招かれたアムリタ』がどういう意味かも分かったんですか?」
「その予告状には『ゲスト』とあります」
優作は有希子に「とりあえずその話は後で……」と告げると、「今、この美術館で何か特別展は開催されていませんか?」とゼヴァルド警部の方に振り返った。
「確か個人蔵の珍しい彫刻を集めた展覧会が開催されていたと思いますが……」
「犯人の狙いはその中のどれかだと思います。出品されている作品の一覧表みたいな物はありませんか?」
「それでしたらこちらに……しかし『アムリタ』などという名前の作品はありませんよ?」
そんな台詞とともにゼヴァルド警部が懐から取り出したのは美術館が作成したと思われる特別展に出品されている作品のリストだった。作品ごとに写真と簡単な説明文が記されている。
しばし黙ってリストを眺めていた優作が「……これだな」と呟いたのはそれから約5分後の事だった。
「一体どれです?」
興奮を抑えきれない様子のゼヴァルド警部に優作は「この女神の像ですよ」とリストに写っている写真を指差した。
「このブロンズ像がなぜ『アムリタ』だと……?」
「この女神が抱いている宝石はアクアマリンじゃありませんか?」
「ええ、そのようですが……」
「『アムリタ』とは苦悩を除き、長寿を保ち、死者をも復活させると言われている古代インドの甘い飲み物の事です。そしてアクアマリンは永遠の若さを象徴する。だから犯人はこんな表現を使ったんでしょう」 
「なるほど……」
ゼヴァルド警部は感嘆の声を上げると、「探偵さん、良かったら引き続き我々に力を貸して頂けませんか?」と懇願するような視線を優作に向けた。
「乗りかかった船ですね。お手伝いしましょう」
優作は穏やかに微笑むとゼヴァルド警部と握手を交わした。



ゼヴァルド警部が優作をホテルまで迎えに来たのは犯行予告時刻の約2時間前だった。
「それじゃ有希子、行ってくるから」
「優作さん、私も連れてって、ねv」
「駄目だって言っただろ?これは遊びじゃないんだ」
「そんな事分かってるわよ。でも私、優作さんが活躍するところ、見たいんだもの」
「駄目だって言ったら駄目だ。大体……」
「……?」
「とにかく、あの話が本当なら君は早く寝た方がいい」
大人が子供を諭すような口調に有希子はプウッと頬を膨らませると、「もういい!優作さんのバカッ!」と、乱暴に部屋のドアを閉め、中から鍵を掛けてしまった。
「……やれやれ」
「好奇心旺盛な恋人を持つと大変ですね」
苦笑いするゼヴァルド警部に思わず「ええ、まあ……」と本音が漏れる。
「それでは参りましょうか?」
優作は黙って頷くと、ゼヴァルド警部とともに迎えのパトカーが待機するホテルの駐車場へと歩を進めた。



美術館に到着した優作はその厳重な警備体制に驚いた。
「凄いですね……」
「件の像はさる外国の王族の方からの借り物でしてね、フランスの名誉にかけて泥棒などに盗まれる訳にはいかないんですよ」
「なるほど」
裏口から入場すると館内も警官で溢れていた。おそらくパリ市警総動員といったところだろう。
優作が案内されたのは標的となっている女神像があるすぐ近くのスタッフルームだった。そこで館内の簡単な案内や万一盗まれた場合の非常線などの説明を受ける。
「……それではそろそろ移動しましょうか?」
ゼヴァルド警部がそう優作に呟いたのは予告時間の15分前の事だった。女神像がある展示場へと足を踏み入れると、さすがに標的がある部屋だけに警備に当たる警官の数は半端ではない。優作は女神像の側へ歩み寄ると、像の頭から爪先まで真剣に観察した。見たところ細工らしい細工は見当たらない。
「監視カメラ、赤外線センサーも勿論正常に作動しています」
ゼヴァルド警部の説明に天井へと視線を向けると数台のカメラが女神像を捉えている様子が目に映る。
「……これでは私の出る幕はないかもしれませんね」
思わず苦笑したその瞬間、「だーれだ?」という悪戯っ子のような声とともに優作の両目が後ろから誰かの手で塞がれた。
「有希子…!?」
「当たり〜v」
視界が開放され、振り向いた優作の目に勝ち誇ったような笑顔を浮かべる有希子の姿が映る。
「一体…!?」
「ウフッ、入口にいた警察官に優作さんが忘れ物したから届けに来たっていうフランス語のメモを見せて通してもらっちゃったv」
「……」
思わず頭を抱える優作にゼヴァルド警部が「……どうやらそちらのお嬢さんは余程探偵さんの活躍を見たいようですね」と苦笑する。
「すみません、すぐ追い返しますから……」
「いや、時間も迫っていますし、つい先程美術館の入口は完全に施錠してしまいました。お嬢さんが探偵さんの傍で大人しくしていると約束して下さるならこのままここにいて頂いた方が下手な隙が出来ず、我々としても助かります」
その言葉に有希子は「もっちろん約束しまーす!」と敬礼してみせると、「ねえねえ、あれが問題の女神像?」とターゲットを指差す。
「ああ」
「結構大きいんだ〜。でも、ここからじゃ宝石が全然見えないなぁ……」
何とか女神像が抱えるアクアマリンを見ようとその場で一生懸命背伸びしていた有希子だったが、さすがにこの距離では見えないと判断したのか、「エヘッ、ちょっと近くまで行っちゃおv」と、優作が止めるより早く像に向かって歩き出してしまった。
「お、おい、有希子!」
「大丈夫v宝石が見える距離までしか近付かないから」
相変らず天真爛漫な有希子に優作が溜息をついたその時、ふいに館内の照明がすべて落ち、展示室が暗闇に飲み込まれた。非常電源も入らない状況に「何だ!?」「何があったんだ!?」と誰のものとも分からない怒号が飛び交う。
「ゼヴァルドだ、どうした!?」
「それが……誰かが配線に細工をしたようで……」
「警部!赤外線センサーも作動していません!!」
「何だと!?」
優作は慌てて持っていたペンライトを取り出すと標的の女神像が展示されている方向を照らし出した。淡い光の中、女神像が浮かび上がりホッとしたのも束の間、像が抱いていたアクアマリンが忽然と姿を消している。それに気付いた警官の一人が「警部、宝石が無くなっています!」と叫んだ。その声に展示場が騒然となる。
「あの暗闇の中、宝石だけ盗んで行くなんて……」
「警部、一体どうしたら……?」
「慌てるな!犯人はまだそんなに遠くまで逃げてないはずだ!非常線だ!非常線を張れ!!」
ゼヴァルド警部は部下達を一喝すると、無線で非常線の指示を出し、展示室から走り去ってしまった。気が付けば先程まで警官で溢れていた空間は優作と有希子、二人の姿しかない。
「……あーあ、やられちゃったわねぇ」
有希子が小さな溜息をつくと、すっかりがらんどうと化した展示室を女神像の前まで歩いて行く。
「ねえ、優作さん、私達これからどうする?」
「……有希子」
「なあに?」
「ちょっと俺に付き合って欲しいんだが……」
「どうしたの?真剣な顔しちゃって」
「いいから」
優作は有無を言わさないかのように有希子の手を握ると展示室を後にした。



優作が有希子を連れてやって来たのは美術館の屋上だった。
「優作さんったら。こんな所まで連れて来て一体どんな内緒話?」
優作はからかうような口調の有希子を無視すると、「見事だったよ、名も無き怪盗さん。あの暗闇の中、一瞬で宝石が消えたように見せかけるとはな」と呟いた。
「やだ、優作さん、何言ってるのよ?」
「あの時……俺がペンライトで女神像を照らし出した時、宝石はその場にあったんだ」
「そんなまさか……」
優作はその反論を無視すると、「お前がとった行動はこうだ」と続けた。
「あらかじめ天井に設置された監視カメラの中の一台を黒い布で包んでおく。あの展示室の天井はかなり高いし、女神像を守るために設置されたカメラがまさかそんなものに包まれているとは誰も思わないだろう。そして展示室の照明が落ちた瞬間、吹き矢か何かでカメラに刺激を与え、布を宝石の上に落とすよう仕向けたんだ。あの時、微かだがポンッという空気銃のような音が聞こえたしな」
「布を落とすって簡単に言うけど……そんなに都合良く宝石の上に落ちるものかしら?」
「確かに一人では不可能だろう。しかし、警備にあたっていた警官の中にお前の仲間が紛れていたとしたら不可能は可能になる」
「でも監視カメラは正常に作動していたはずじゃ……」
「映像なんか何とでもなるさ。あらかじめ撮っておいたものを流せばいいだけの話だからな」
「……」
「そして警官がいなくなった後、何食わぬ顔で像に近付き、宝石を掠め取った……違うか?」
優作は有希子の姿をした怪盗の方に振り返ると、「本物の有希子はどうした?」と鋭い口調で迫った。
「たいした変装術だよ。オレも一瞬騙された。だがすぐ偽者だと分かったさ。今の有希子がそんなヒールの高い靴を履くはずがないからな」
言い訳出来ない事柄を突き付けられ観念したのだろう。有希子に変装した怪盗は小さく肩をすくめると、「藤峰有希子が引退するという噂を耳にした時はまさかと思ったのですが……なるほど、そういう事情だったんですね」と納得したように呟いた。そして次の瞬間、白いスーツにマント、シルクハットという怪盗本来の姿を現す。しかし、月明かりに白が眩しく反射する上、モノクルをしているせいか、優作の位置からその素顔ははっきり見えなかった。
「有希子さんの事なら心配いりませんよ。今頃ホテルでぐっすり眠っているでしょう」
それだけ言うと怪盗はポケットに忍ばせていた宝石を取り出し、月に照らし出した。そして小さな溜息をつくと「ハズレか……」と独り言のように呟く。そして次の瞬間、驚いた事に持っていた宝石を優作に向けて放り投げて来た。
「なっ…!?」
怪盗の思わぬ行動に優作は宝石を受け止めるだけで精一杯だった。
「探偵さん、その宝石を返しておいて頂けませんか?」
「返すだと?苦労して盗んだ宝石をなぜ…?」
「私が探している物ではなかったからですよ」
「探している物……?」
「あなたには関係ない事です」
きっぱり言い切る怪盗に優作は一瞬言葉を失ったが、フッと苦笑すると、「……宝石を返したからと言って俺がこのままお前を見逃すとでも思っているのか?」と挑戦的な口調で切り返した。そんな優作の挑発を無視するように怪盗は余裕の笑みを浮かべると、「申し訳ありませんが、今はまだ捕まる訳には参りません」と、懐から見た事もないような型の銃を取り出す。射程距離や総弾数が分からない以上、下手に動く事が出来ず、もどかしさに顔をしかめる優作に対し、怪盗は「しかし……これも運命でしょうか?」と穏やかな表情で呟いた。
「運命…?」
「初仕事で未来の大推理作家とあいまみえる事になるとは……運命としか言いようがないと思いませんか?」
怪盗の言葉に優作は「……そんなロマンティックなものじゃないだろう」と苦笑した。
「ただの必然さ」
吐き捨てるように呟くと優作は銃口の向きとトリガーに掛かった怪盗の指に細心の注意を払いながら一歩、また一歩と少しずつその距離を縮めていった。何の武器も持たない自分が銃を持った相手に不用意に近付く事は出来ないが、こちらの動きに関心をひきつけ、時間を稼ぐ事ぐらいは出来るだろうと計算しての行動だった。
が、そんな優作の思惑をあざ笑うかのように突然怪盗の背に翼が現れる。
「ハングライダー…!?」
「工藤優作先生、またお目に掛かれる日を楽しみにしてますよ」
次の瞬間、怪盗は月明かりに吸い込まれるように美術館の屋上から飛び去ってしまった。



「……で?宝石は取り返したものの、その怪盗には逃げられちゃったんだ?」
ホテルに戻り、事の顛末を話すと有希子が面白そうにクスッと笑う。
「嬉しそうに言う話じゃないだろ?」
「だって優作さんと互角に勝負出来る人なんてなかなかいないんだもの。ここはライバル登場を喜ぶべきなんじゃない?」
「ライバルねぇ……」
優作は顔をしかめると、「しかし……あの怪盗、どっかで会った事があるような……」と、考え込むように顎に手を掛けた。
「それ本当?」
「ああ、似たような気配を感じた事がある。しかもごく最近のような気が……」
優作は言葉を切ると「ところで……」と、有希子を正面から見据えた。
「君は全く見ていないのか?」
「『見ていないのか?』って……何を?」
「睡眠薬で君を眠らせた人物の顔さ」
優作の問いに有希子はケラケラと明るい笑い声をあげると、「そんなの無理よ〜。だって美味しいコーヒーでも飲みに行こうと思ってドアを開けた瞬間、ハンカチで後ろから鼻と口を塞がれちゃったんだもの」と手で否定のジェスチャーをして見せる。
(俺の考えすぎか……)
実のところ優作にはあの怪盗が昨日出会った黒羽盗一という男だと思えて仕方がなかったのだ。それ故、彼を師と仰ぐ有希子が彼女を眠らせた犯人の顔を見ていても黙っているのではないかと疑っていたのだが……
そんな優作の胸中に気付くはずがなく、有希子が「……ま、次回のお楽しみって事でいいんじゃない?」と悪戯っ子のように微笑む。その笑顔に優作は彼女が嘘をついていない事を確信した。女優という仕事柄、有希子の心の内を読み取る事は難しいが、プライベートな付き合いを通し、優作には自分は彼女の本音が見抜けるという自負があった。
「……それにしてもその怪盗さん、私に化けてたって話だけど、優作さん、よく偽者だって気付いたわね?」
「びっくりするほど声も姿もそっくりだったよ。だがこの子が教えてくれたのさ」
優作は穏やかに微笑むと有希子の腹部に視線を落とした。
「ところで……大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫って?」
「お腹の子に決まってるだろ?妊娠初期に下手な薬は毒以外の何物でもないからな」
「心配しなくても優作さんと私の子よ?そう簡単にくたばるはずがないじゃない」
「それはまあそうだが……念のため医者に掛かった方がいい」
珍しく慎重な態度の優作に有希子が目を丸くすると、「……どうやらあなたのお父さんはあなたの誕生が楽しみで仕方ないみたいねv」と、まだ膨らんでいないお腹をそっと撫でた。
18年後、その子が世代を超えて白き怪盗と対決する事になるとはこの時の二人が知る由はなかった。



あとがき



「呪文〜」連載の大阪弁を監修して下さった森絢女様のリクで「優作×有希子」です。最初は「あんな渋い優有テキストを書かれた方がなんちゅうリクをしてくれるんだ!」と叫びたくなったのですが、それなら特別ゲストを出してしまおうという安易な考えに至り、引き受けさせて頂く事に。読んで下さった通り、特別ゲストは初代怪盗KIDこと黒羽盗一さんです。あまりに資料がない人物なので、人物像は私の妄想という事でお許し下さい。
それにしても、映画「銀翼のマジシャン」の煽り文句に思いっきり挑戦するような台詞が出て来ますが、ここ最近の私の「XXX HOLiC」病という事でご勘弁を^^;)