開幕ベルは鳴らさずに



「君……確か1年B組の灰原哀さんだったよね?」
一日の授業を終え、下足場へと廊下を歩いていた哀を呼び止めたのは、この二学期から産休代替として帝丹中学校へやって来たばかりの男性教師だった。
「そうですけど……」
「あ、美術の河口先生…!」
素っ気無く答える哀とは対称的に彼女の横を歩いていた歩美がその名を口にするとパッと顔を輝かせる。
28歳、独身。背が高く、整った顔立ち、しかもその態度はどこまでも紳士的……そんな河口は赴任以来、女子生徒の注目を独占していると言っても過言ではなかった。勿論、歩美もその一人で、放課後もクラスメイトとこのモデルのような教師の話題に花を咲かせていたばかりである。
「あの……私に何か?」
「実は君に絵のモデルになって欲しくてね」
「私が、ですか…?」
「ああ。今度描こうと思っている絵のイメージにピッタリなんだ。お願い出来ないかな?」
「でも……私……」
迷うように言葉を濁す哀に「やりなよ、哀!」と歩美が元気な声を上げる。
「サッカー部のマネージャー、哀一人って訳じゃないんだし。大丈夫だって!」
「それはそうだけど……」
「河口先生、二科展にも入選した事がある実力者なんだよ!そのモデルが出来るなんて滅多にないチャンスじゃない!」
「……」
少しの間、考え込むように沈黙を守っていた哀だったが「……そうね、たまには珍しい事に挑戦するのも悪くないかもね」と肩をすくめると、「分かりました。夕飯の支度の時間までという事でしたら」と、彼の申し出に応じた。



その翌日から放課後、美術室の隣の準備室へ通うのが哀の日課となった。
「灰原さん、疲れたら遠慮なく言ってくれればいいからね」
「はい」
じっとしている事が決して苦手ではない哀だが、さすがに同じポーズを長時間保つのは疲れる。幸い絵のテーマが『読書をする少女』という事で、日頃なかなか読めない本をじっくり読むにはいい機会となった。勿論、本にはブックカバーがかけてある。内容を見ればその方面の知識がない人間にもその本がとても中学生に理解出来る代物ではないと分かってしまうからだ。
午後5時。テニス部の練習を終えた歩美が「ひょっとして哀もそろそろ帰る頃かと思って……」と顔を出した。今回のモデルの話は自分が薦めた事もあり様子が気になっているのだろう。何だかんだ言って歩美は毎日哀を迎えに来る。
「先生、すみません、私そろそろ……」
「ああ、もうこんな時間か」
河口は時計を見ると「じゃ、続きは明日」と笑顔を見せた。
「失礼します」
頭を下げ、部屋を後にすると早速歩美が「ね、哀、河口先生と毎日どんな事話してるの?」と興味津々な様子で尋ねて来る。
「話すも何も……私はただ座って適当に本を読んでいるだけだし……」
「え〜、全然話さないの?」
「そうね、ほとんど何も話さないわね」
哀の答えに歩美は明らかに不満そうな表情になると「せっかくイケメンとツーショットだっていうのに……」とブツブツひとりごちた。
「歩美、あなた、一体何を期待しているの?」
「ん〜、たまにはコナン君に思いっきりヤキモチ妬かせるのも悪くないんじゃないかなぁと思って」
返って来た想像通りの台詞に哀は「残念でした」と涼しい表情で肩をすくめた。



それから約二週間が経った。最初の一週間こそ河口とほとんど会話らしい会話を交わさなかった哀もここ数日は休憩時間に世間話程度は交わすようになっていた。どうやら歩美が言う『実力者』というのも大袈裟な話ではないようで、学生時代はパリに留学した事もあるらしい。
「……それじゃ灰原さん、そろそろ再開しようか」
河口がそう呟いた時、スカートのポケットに入れた携帯が振動しメールの着信を告げる。
「あ……先生、ちょっとお手洗いに行って来てもいいですか?」
「勿論だよ」
せっかく持った筆を再び下ろす河口に「すみません」と頭を下げると哀は近くのトイレに駆け込んだ。個室に入り、鍵を掛けると携帯を取り出す。受信したメールの内容に苦笑すると哀は準備室へ戻って行った。



準備室の扉を開けた瞬間、哀は河口が自分が読んでいた本を手にしている事に驚き、一瞬その場に立ち尽くした。
「あ……君がどんな本を読んでいるか気になってね」
河口が慌てて本を閉じると取り繕うような笑顔を浮かべる。
「いくら先生でもプライバシーの侵害だと思いますけど?」
「ごめんごめん。それにしても君は随分難しい本を読んでいるんだな」
下手な事を言えば余計な詮索をされるのがオチで、哀は「そうですか?」とはぐらかすと河口から本を取り返そうと手を伸ばした。が、逆にその手を掴まれてしまう。
「……!?」
「益々……君に興味が沸いてきたよ」
河口の目がまるで獲物を狩るハンターのように鋭くなったかと思った次の瞬間、哀の身体は強い力で床に押し倒されてしまった。
「何をっ…!?」
「『何を』だって?中学生ともなればこの状況が意味する事くらい分かるだろう?」
面白そうにクックッと喉を鳴らす河口にかつて経験した忌まわしい記憶が蘇り、哀の中に恐怖が広がる。しかし、ここまで来て今更引き下がる訳にはいかない。
(しっかりしなさい…!)
哀は心の中で自分を叱咤激励すると「放して…!!」と、自分の自由を奪っている男を睨みつけた。
「そうはいかないな。初めて君を見た時から君の事が気になって仕方なかったんだから……」
河口がいやらしい笑みを浮かべると哀の首筋に口付けを落とし右手を彼女の太腿に這わせて来る。さすがの哀も反射的に身体を硬直させずにはいられなかった。
「ヤッ!!誰かッ…!!」
「助けを呼んでも無駄だ。ここは職員室から一番遠いし今日は美術部も休みだからな。おまけに教員幹部は会議で会議室に籠っている」
「……」
その言葉に哀は観念したかのように身体の力を抜いた。そして「……ねえ」と呟くと河口の顔を正面から見据える。
「何だ?」
「一つだけお願い……聞いてくれる?」
「お願い?」
「その……優しくしてね……」
はにかんだ表情で頬を赤く染め、視線を逸らせる哀に河口が苦笑する。
「灰原哀と言えばクールな少女だと専らの噂だが……可愛いところもあるんだな……」
「……」
愉快そうに呟く河口の指が哀の下着に掛かったその時、ガチャ−ンというガラスの割れる音が聞こえたかと思うと何物かが彼女の自由を奪っていた男の身体を吹っ飛ばした。
「あ……」
ホッと息をつき、身体を起こした哀の瞳に窓を飛び越えて来るコナンの姿が映る。
「灰原、大丈夫か?」
「ええ……」
乱れた衣服を整えつつ周囲を見回すと、河口は顔面を強打され完全に意識を失っていた。
「……ちょっとやりすぎなんじゃない?これじゃいつあの男の意識が戻るか分からないわよ?」
「バーロー、いくら芝居だと分かってるとはいえこんな状況を大人しく眺めていられるほどオレは大人じゃねえんだよ」
「『大人じゃない』ねぇ……あなたの場合あんまり自慢出来る話じゃないと思うけど?」
「うっせーな……」
「それにしても……そんな博士の発明品に頼らなくても今のあなたなら普通に蹴るだけで充分じゃなくて?」
哀の苦言を無視するようにコナンは黙ってキック力増強シューズのスイッチをオフにすると「やっぱ今日がXデーだったな」と得意げな笑みを浮かべた。
「え…?」
「『河口の野郎が襲って来るとしたら今日に違いないから注意しろ』ってさっきメールしてやったろ?」
「……そういえば随分失礼な内容のメールを頂いたわね」
「あん?」
「『オメー、本当にウブな女子中学生のフリなんて出来るんだろーな?』だなんて普通書く?」
「日頃の態度を思えば嫌でも心配になっちまうからな」
「心配って……あなた、そういう心配しかしてなかった訳?もしこの男がボールを避けてあなたに殴りかかってでもいたらどうなってたか分かってるの?」
「このオレのコントロールを信じてねえのかよ?大体、万一避けられたとしてもこのオレがこんな野郎にやられる訳ねーじゃねーか」
「その自信、一体どこから来るのかしらね……」
呆れたように哀が溜息をついたその時、「……残念だけど夫婦漫才の続きは後で聞かせてもらう事にしようかな?」と、からかうような声が聞こえた。気がつけばいつの間にか高木美和子警部が夫、渉警部補とともにこちらの様子を面白そうに見つめている。
「哀ちゃん、ご苦労様」
「いえ……」
「コナン君も。それにしても相変らずその靴の威力は凄いわね」
「すみません、ちょっと強く蹴りすぎたみたいで……」
哀は白々しく答えるコナンを無視すると「どうします?この様子じゃ当分意識は戻らないと思いますけど……」と美和子の方に振り返った。
「大丈夫よ。そのために非番のこの人を連れて来たんだから」
美和子がニッコリ笑うと「……という事で、よろしくね」と夫にウインクしてみせる。
「ぼ、僕が?」
「最近太り気味のあなたにはちょうどいい運動じゃない。さ、頑張ってv」
妻の容赦ない指摘に高木はトホホと情けない表情で肩を落とすと意識のない河口に手錠を掛け、やっとの思いでその身体を持ち上げた。



話は遡って二学期が始まって間もなくの頃。学校から帰ったコナンと哀は自分達を待っていた人物に目を丸くした。
「高木警部…!?」
「ご無沙汰しています」
相変らず様々な事件に首を突っ込んでいるコナンと違い哀が美和子と顔を会わせるのは久しぶりだった。
「本当、哀ちゃんとは久しぶりね」
「いつも工藤君がご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
「いつも迷惑って……灰原、毎度毎度『事件だ』って突然連れ出されて迷惑してるのはオレの方だぜ?」
「あら、あなたの一番の大好物を持って来てくれる高木警部を前にそんな事言っていいのかしら?」
早速始まるコナンと哀の漫才に美和子がプッと吹き出す。その様子に二人は「あ……」と慌てて言葉を飲み込んだ。
「……それで高木警部、今日は一体どんな事件をオレに手伝えと?」
「残念だけど今回私が頼りたいのはコナン君じゃなくて哀ちゃんなの」
「私?」
目を丸くする哀に美和子が一枚の写真を差し出した。
「河口慎吾。今度帝丹中に産休代替として赴任する事になった美術教師よ」
「そういえば美術の西条先生、二学期から産休だって言ってたな」
「高木警部、この先生が何か……?」
「実はこの河口って男、前任の杯戸中学で教え子の何人かに暴行した容疑があるんだけど、尻尾が掴めなくて困ってるの。強姦は親告罪だから被害者が被害届を出さない限りこちらは手が出せないし……勿論、被害者達には届けを出すよう説得はしてるんだけど、年頃の女の子達ばかりでしょ?なかなか応じてくれなくてね……」
美和子の話に哀は「なるほど、それで私に囮を?」と先回りするように呟いた。
「さすが哀ちゃん、話が早くて助かるわ」
ニッコリ笑う美和子に「でも、高木警部、一つ問題があると思いますけど……」とコナンが口を挟む。
「問題って?」
「果たしてコイツがこの河口って男の標的になるかどうか……この通り可愛げの欠片もないヤツですから」
さっきのお返しだと言わんばかりに言うコナンに哀が反論するより早く「帝丹中一の美人と噂の哀ちゃんがターゲットにならないはずがないじゃない」と美和子が一蹴した。
「勿論、哀ちゃんの事は私達が陰からがっちりガードするわ。女の敵をこれ以上のさばらせておかないためにも協力してくれないかしら?」
「……」
美和子の言葉にしばし考え込むように黙り込んでいた哀だったが、大きく息をつくと「分かりました。ただ……」と彼女を見た。
「『ただ』……何?」
「博士にはこの計画の事、黙ってて頂けませんか?どう説得しても絶対許してくれないと思うので……」
哀の言葉に美和子が「……本当、この家は相変らずね」と苦笑する。そして自分抜きでさっさと話をまとめられてしまった事に拗ねているのか苦虫を噛み潰したような表情でコーヒーを飲んでいるコナンに「コナン君も協力してくれるわよね?」と視線を投げた。
「そりゃ……ある程度条件が整った日はオレも様子を窺うようにしますけど……」
「『ある程度条件が整った日』って……どういう事?」
「さすがに最初の数日は襲って来る事はないでしょう。犯行に及ぶとしたら灰原の警戒が緩む頃、そしてなおかつ美術部が休みで教師達が会議などで一箇所に集まり美術室に近寄る人間がいない日だと思います」
「つまり君はそのXデーを推理してその日だけガードに当たるって事?」
「さすがのオレも毎日サッカー部をサボる訳にはいきませんから……」
「うーん、それもそうよね……だったらコナン君が手伝ってくれる日はその旨を私か高木君に連絡してくれる?こちらも他に哀ちゃんをガードする人間がいる事を把握しておきたいし」
「分かりました」
美和子はコナンに自分と夫、渉の携帯電話の番号のメモを渡すと「それじゃ、こちらの体制が決まり次第また連絡するわ」と、阿笠邸を後にした。



その夜。自室のパソコンで一人気ままに研究を続けていた哀はコンコンッというドアのノック音にキーボードを打つ手を止めた。
「はい?」
「ちょっといいか?」
ドアが開きコナンが顔を見せる。
「今、手が放せないんだけど……」
そんな哀の反応を無視するようにコナンはさっさと彼女の部屋に入って来るとベッドに腰を下ろしてしまう。その様子に哀はやれやれと肩をすくめるとパソコンをシャットダウンした。
「こんな夜更けに一体何の話?」
「オメーに聞きたい事があってな」
コナンは哀の顔を正面から見据えると「なんであの話受けたんだよ?」と、問い詰めるような口調で呟いた。
「何の事?」
「今回の囮役の話さ。オメー、河口に襲われた時マジで怯えてたよな?」
「そんな事あるはずないでしょ?大体、高木警部があの話を持って来た時、人の事を『可愛げの欠片もない』って言ったのはどこのどなただったかしら?」
「それとこれとは話が別だ。強がって演技なんかしやがって……何でいつも無理ばっかすんだよ?」
「別に無理なんて……」
「他の誰の目は騙せてもオレの目は誤魔化せないぜ?」
「……」
コナンの真剣な表情に哀はフッと息をつくと「……本当、探偵ってつくづく嫌な人種ね」と肩をすくめた。
「正直な話……高木警部から今回の話を持ち掛けられた時点で迷ったわ。私……実は昔、ジンに襲われそうになった事があって……」
「なっ…!?」
哀の口から出た思わぬ言葉にさすがのコナンも一瞬絶句してしまう。
「だったら……どうして引き受けたんだよ!?そんな辛い過去があるならどうして……!?」
「だって私が囮役を引き受けなかったら被害者が益々増えるかもしれないでしょ?」
「そりゃ……」
「それに信じてたから。あなたや高木警部達が守ってくれるって」
「……」
穏やかに微笑む哀にコナンは頬を赤くすると「……ああ、守ってやるよ。何があっても絶対な」と照れたように呟いた。そのまま自然な仕草で哀を抱き寄せる。視線と視線がぶつかり、どちらからともなく目を閉じたその時、まるでタイミングを計ったかのようにテーブルの上の携帯が鳴った。
「……ったく、誰だよ?」
悪態をつくコナンに哀はクスッと笑うと携帯を手に取った。
「はい?」
「あ、哀?私」
「歩美?どうしたの?こんな夜遅くに」
「高木警部に聞いたよ、事件の事…哀の囮役の話も……!」
「そう……」
「『そう』じゃないよ!それならそうと私にも少しくらい事情を説明してくれれば良かったのに……!」
「事件の内容が内容だもの。事情を知っている人間の数は可能な限り少なくしたかったの。それに大体、私が絵のモデルなんて引き受ける訳ないでしょ?」
「あなたの私に対する認識もまだまだ甘いようね」……反論の余地なき哀の台詞に歩美の機嫌はますます悪くなる。そんな親友に哀は「そんなにへそを曲げないで。あなたに言わなかった理由はもう一つあるんだから」と、なだめる様に呟いた。
「もう一つ?」
「万一私が失敗したら次はあなたに囮になってもらうつもりだったの」
「……それって哀も高木警部も少しは私の事、認めてくれてるって事?」
「ま、そういう事ね」
「そっか、それなら……まぁ許してあげるかな?」
勿論、歩美の囮役の話など哀の口から出た出まかせで普通の中学生である彼女にそんな事をさせるはずがなかったが、それをすっかり信じ機嫌を直す親友に哀は思わず苦笑した。
「それはそうと……今回の事で改めてコナン君が哀にベタ惚れだって分かったねv」
「え…?」
「だってコナン君、哀がモデルに通い出してからずーっとサッカー部の練習、サボってたもん。こっそり哀の様子を窺ってたんだよ、きっと」
「ずっと…?そんなまさか……」
「だって元太君が言ってたもん。『コナンのヤツ、毎日部活サボってるくせにオレより帰りが遅いんだぜ』って。『ひょっとして何か事件ですか?』っていう光彦君の突っ込みにも妙に歯切れの悪い態度だったし」
「……」
黙って自分の方に振り返る哀にどうやら会話の内容を察したらしくコナンは彼女の視線から逃げるようにあさっての方向を向くと、「その……オレ、そろそろ寝るからさ」と、足早に部屋から立ち去ってしまった。
「……本当、相変らずかっこつけなんだから」
「え?哀、何の話?」
さすがにこの真実を歩美に話すのは可哀想かもしれない。
「……なんでもないわ。気にしないで」
哀はクスッと笑うと「それより歩美、あなた私に今度の週末、買い物に付き合って欲しいって言ってたわよね?」と話の矛先を変えた。



あとがき



「コ哀同盟」様(閉鎖)の絵茶会に出席した際、イラストが描けないこつぶ様と私がお題を出させて頂く事になりました。せっかくなのでそのお礼にテキスト書き二人が7枚のうちから1枚を選び、SSを書かせて頂く事に。7枚の素敵イラストを前にどれを選ぶか本当に迷ったのですが、パッとプロットが浮かんだ四谷様のイラストを選ばせて頂きました。ちなみにお題は「コナンを凌ぐ演技派哀ちゃん」。一応、四谷様が書かれた「やさしくしてね」という台詞も頑張って入れてみたのですが、いかがでしょう?
それにしても一見18禁と疑われそうな内容ですが、中身は18禁にはほど遠いですね@爆笑