かけがえのないもの



「あなたね、早起きしたならカレンダーくらい捲ってくれない?」
ビリッという紙が破れる音に顔を上げると哀がコナンを睨んでいた。
「あ……」
そういえば昨夜、夕飯の席で今月も今日で終わり云々話していた事を思い出し、「悪ぃ、新名香保里の新刊出たからつい……」と頭を掻く。
「新刊って……どうせあなたの事だから昨夜のうちに読破したんでしょう?」
「バーロー、推理小説ってーのはなぁ……」
「『朝起きた時の二度読みが堪んねえんだぜ』でしょ?名探偵さん」
「……」
不機嫌な表情を隠そうともしない哀にコナンは思わず溜息をついた。もっとも彼女の機嫌が悪いのも無理はない。久し振りにディナーの約束をしたものの、二週間前は高木警部補に、一週間前は大阪の服部平次に『事件』の一言で潰されたのだから。
何の言い訳も立たないと黙って本に視線を落とすコナンに哀は「別にいいわよ。あなた、毎年この日だけは何があっても付き合ってくれるから」と肩をすくめ、カレンダーに付けられた小さな印を見つめた。
「そっか、今月は……」
「ええ。お姉ちゃんの命日」
「今年は十三回忌だからお経をあげてもらおうと思って」という哀の言葉にコナンは「本当……月日が経つのは早いな」と読んでいた本を閉じた。
「なあ、義姉さんの墓参り……毎年日帰りだったけど今年は近くの温泉で泊って来ないか?」
「え…?」
「結婚したとはいえさすがに高校生じゃまずいと思って昨年は言わなかったんだけどよ、あの近くに美味しい料理で有名な温泉旅館があるんだ。だから……」
コナンの言葉に哀は一瞬驚いたように目をしばたたかせたが、「そうね、あなたと遠出する機会なんてそうそうある訳じゃないし……」と微笑んだ。
「せっかくだから色々調べておくわ。今年から車で行けるし、多少の回り道も構わないでしょ?」
「ああ」
すっかり機嫌が良くなったらしい妻にコナンは内心ホッと息をつくと、「朝食の準備、手伝ってくれる?」という言葉に「おう」と立ち上がった。



その電話がかかって来たのは宮野明美の命日3日前の事だった。
「敢ちゃんも諸伏警視もお手上げでね。もう君だけが頼りなの」
長野県警、大和由衣警部補の言葉にコナンの好奇心が掻き立てられる。
「分かりました。今からそちらへ向かいます」
「ありがとう。それじゃ駅まで迎えに行くから……」
「いえ、車で行きますから迎えは結構です。長野県に入ったらこちらから連絡しますので……」
由衣の携帯電話の番号をメモすると「……って事で哀」と一歩後ろを歩く妻の方に振り返る。
「はいはい、今年は私一人でお参りに行って来ますから」
「何言ってんだよ。義姉さんの墓参り、オレも行くに決まってんだろ?」
「え…?」
「さすがに長野まで行って帰ってまた出掛けるのは効率悪いからさ、途中で落ち合おうぜ」
コナンの言葉に哀はしばらく黙っていたが、「いくらあなたでも大和警視や諸伏警視が手こずるほどの事件をそう簡単に解決出来るかしら?」と疑いの眼差しを投げた。
「バーロー、オレを誰だと思ってんだよ?んじゃ落ち着いたら連絡すっからよ」
なおも疑わしそうな表情の哀に手を上げてみせるとコナンはキャンパスから駆け出した。



視界に映る真っ白い天井が眩しい。
(オレは……?)
暗闇に意識が浮かんでいたのも一瞬、コナンはハッと我に返ると「ヤベッ…!」と身を起こした。途端に激痛が全身を走り「痛ッ!」と表情を歪ませる。
「良かった…!意識が戻ったのね!」
安堵したような声にその方向へ視線を向けると大和敢助、由衣夫妻の姿があった。
「大和警視、オレ……」
「ったく、コウメイもコウメイだがお前も無茶しやがって……!」
敢助の口から零れた『コウメイ』という名前にコナンの記憶が蘇る。
(そうだ、オレは諸伏警視と暗号を解いて……)
犯人を追い詰めたまでは格好良かったが、逆上した犯人が諸伏に向け発砲した。弾道を逸らそうと我知らず飛びついたコナンは崖から転落し、意識を失ったのである。
「大和警視、諸伏警視は……?」
「心配すんな。掠り傷一つねえよ」
「そうですか……」
忌々しそうな口調とは裏腹に嬉しそうな敢助の様子に笑顔を見せたコナンだったが、視界に映った白い百合の花に「由衣さん、ひょっとしてアイツに……?」と恐る恐る切り出した。
「アイツって……奥さんの事?」
「はい」
「連絡したに決まってるでしょ?大切なご主人が大怪我したんだもの」
決して破ってはいけない約束を放り出した上、怪我で入院とはさぞかし怒っている事だろう。思わず「ハハ……」と顔を引きつらせるコナンの心中など知る由もなく、「哀さん…だったわよね?お会いするのは随分久し振りだけど本当、綺麗になって……」と由衣が笑顔を見せる。
「あなたの容体が落ち着いたのを見届けてホッとしたのね。『仮眠室で少し休ませてもらいます』ってさっき出て行かれたわ」
「奥さんのためにも後の事は俺達に任せてお前は怪我を治す事だけ考えろ」
「諸伏警視も後で顔を出すって言ってみえたわ。それじゃ私達はこれで」
病室を後にする大和夫妻に笑顔を取り繕うコナンだったが、パタンというドアが閉まる音に溜息を落とすと頭から布団を被り、目を閉じた。



「我々が傍にいながらご主人には本当に申し訳ない事をしました」
耳元で聞こえる声に目を開くと諸伏高明が誰かと話している様子が映った。
「気にしないで下さい。彼、昔から悪運だけは強いので」
怪我人を前に同情の余地なしといった口調であっさりそんな台詞を吐くのは声で判断する間でもない。
「たまにこうやって病院送りになるのもいい薬なんです。一人で何でも出来ると信じている自信家なところがありますし」
「……」
遠慮ない物言いに面食らう諸伏に哀はクスッと笑うと、「それに……どうやら私の悪口に耳を立てる余裕も出来たようですから」と、ベッドに横たわるコナンに悪戯っ子のような視線を投げた。
「……ったく。旦那が怪我で入院したってーのにその言い草はねえだろ?」
少々痛みを我慢すれば何とか起き上がれるようで、コナンは哀の助けを借りてベッドに起き上がった。
「あら、大和警視の話だと由衣さんが止めるのも聞かずに諸伏警視と二人で犯人の潜伏先に乗り込んだそうじゃない」
「それは……」
「奥さん、ご主人をあまり責めないで頂けませんか?あの状況では犯人が自殺する恐れがあったので我々は仕方なく……」
「……」
言葉を飲み込む哀に諸伏は穏やかに微笑むと、「そろそろ失礼します。これ以上いるとお邪魔のようですから」と病室から出て行った。二人きりになり、しばしの沈黙が流れたがそれを破ったのはコナンだった。
「悪かったな、義姉さんの墓参り、おめえまですっぽかさせちまって……」
「あら、私はすっぽかしてなんか……」
「バーロー、探偵なめんなよ。百合なんて見舞いには敬遠される花が飾ってあるだけでピンと来たぜ。おめえが墓参りに行く予定を急遽変更してオレの元へ駆けつけてくれたんだってよ」
「わざわざ着替えまでしたのに……本当、探偵って厄介な人種ね」
哀は苦笑すると「ちょうどお墓参りに出掛けようとした時だったわ」と思い出すように呟いた。
「書斎で何かが倒れるような鈍い音がして慌てて駆けつけたら本棚が倒れてて……あなたが大事にしているホームズの初版本が床に散乱してたの」
「んなバカな……」
「私だって自分の目を疑ったわよ。本棚にはきちんと耐震対策がしてあるし。でも……もしかしてお姉ちゃんが凶弾に倒れた時と同じなんじゃないかと思うと不安になって……」
「え…?」
「あなたには言ってなかったかしら?実はお姉ちゃんがジンに撃たれたちょうどその時、私、研究室で試験管を割っちゃってね……その事を思い出して嫌な予感に駆られた瞬間、電話が鳴って……由衣さんからあなたが大怪我したって連絡を受けて居ても立ってもいられなかったわ。『下手な薬を投与されてあなたにもしAPTXの副作用が現れたら……』って考えただけでも恐ろしくて……気が付いたら長野行きの電車に乗ってたって訳」
哀がどれだけ自分を心配してくれたか思い知らされ、何も言えなくなってしまったコナンは「フフ……これでお姉ちゃんとおあいこになっちゃった」と笑う彼女に思わず「おあいこ……?」と眉をひそめた。
「昔ね、一度だけお姉ちゃんに約束をすっぽかされた事があるの。待ち合わせの喫茶店に入ろうとしたら『志保、ごめんね。大君がどうしても会いたいって言うから』ってメールが入って……ちょうどその頃、研究が行き詰まってた事もあって気晴らしにお姉ちゃんとゆっくり過ごすつもりだったから頭に来ちゃってね。『恋人とはいえどうして妹の私より他人の彼を優先するの?』って……普通の姉妹と違って私達はなかなか会う事も出来なかったし。でも……今の私にはあの時のお姉ちゃんの気持ちが分かるから……だからこれでおあいこね」
「哀……」
どうやら自分も彼女にとってかけがえのない存在になれたのかもしれない……コナンはフッと笑うと「怪我が治ったら一緒に義姉さんの墓参り行こうな」と、哀の手をそっと握り締めた。



あとがき



2010年「宮野の日」企画投稿作品です。当初参加の予定は全くなかったのですが、初代主催者ぐり様最後の主催という事で掲示板参加させて頂きました。私としては哀ちゃんにいつまでも悲しいままでいて欲しくないので明美さんの死を受け入れ、それでも亡くなった姉を大切に思う、そんな作品になっています。それにしても私が書くと男性陣は揃いも揃って尻に敷かれてますね@爆