Like the KING of beasts



組織の中枢に潜入し、コナンと別れてどれくらいの時が経つだろう?灰原哀は膨大なデータが蓄積されたコンピュータールームでジョディ・スターリングと共にAPTX4869のデータを探していた。
FBIとCIAが中心になって計画された組織の掃討作戦には日本警察だけでなくインターポールも参加している。そんな大掛かりな捜査体制が組まれる中、組織の被害者と造反者とは言え、一個人に過ぎない二人がその作戦に加わる事が出来たのは、APTX4869という薬の存在をこの世からきれいさっぱり消去したいという哀の強い願いを汲んでの事だった。確かに今の人類にとってAPTX4869は諸刃の剣で、その存在が明るみになれば世界大戦すら起こりかねない。最終的に今回の作戦の総責任者であるジェイムス・ブラックの判断によりコナンは赤井と、哀はジョディと常に行動を共にするという条件付きで同行が認められたのである。
「どう?アイ、ファイルは見付かった?」
コンピュータールームの入口で見張り役をしているジョディの緊張した声に哀は「……残念ながらそう簡単には出て来てくれないようね」と肩をすくめた。
「ホストコンピューターを丸ごと交換したみたいだわ。多分、私がデータを消しに来るのを予測してたんでしょうけど……」
「へえ……あなたでも予測される事があるのね」
「え…?」
「私にはあなたの行動パターンはさっぱり読めないから」
「クールキッドの事ならお見通しなんだけどね」と笑うジョディに昨日、彼女に見付かった時のコナンの驚いた顔が脳裏に蘇り、哀は思わず苦笑した。が、緊張が緩んだのも一瞬、どおんという地響きのような音に現実へと引き戻される。
(どうやら始まったみたいね……)
おそらく警視庁特殊部隊SATが突入したのだろう。遠くの方で聞こえる銃撃戦の音に哀は思わず懐に忍ばせた拳銃の存在を確認した。出来る事なら使いたくないが、この組織の中枢でそんな甘い事は言っていられない。ずっしりした重みに緊張が走ったその時、ポケットに忍ばせた探偵バッジから信じられない言葉が聞こえて来た。
<蘭…!>
「な…!?」
「アイ、どうしたの?」
「工藤君の前にジンが現れたみたい……探偵事務所の子を人質にしてね」
「何ですって…!?」
思いがけない事態にさすがの哀も一瞬頭の中が真っ白になったが、自分でも気付かないうちに「ジョディ先生、彼の所へ行って!」と叫んでいた。
「ここは私一人で何とかするから!」
「え…!?」
「彼女が人質になっていたら工藤君は一歩も動けない……この状況で彼を援護出来るのはあなたしかいないわ!だから…!」
「でも…あなたを一人にするなんて……」
「そんな悠長な事言ってる場合じゃないでしょう!?今の状態じゃ彼だけじゃない、あなたの仲間も殺されてしまうのよ!!」
「……」
哀の切羽詰まった口調にジョディも覚悟を決めたのだろう。
「アイ、もう一度だけ確認させてもらうけど……約束、守ってくれるわよね?」
「約束…?」
「『逃げたくない』っていうあなたの言葉……」
自分を真剣に見つめるジョディに哀は肩をすくめると「少し前までは最悪の場合、ここのデータと心中するつもりだったんだけどね……」と苦笑した。
「私…まだ死ぬ訳にはいかないの。データさえあれば博士にも解毒剤くらい作れるでしょうけど、やっぱり工藤君が元の身体に戻った事を自分の目で確認したいし。それに……」
「アイ…?」
「私にはまだ生きてやらなくちゃいけない事が残ってる……そう言ったのはあなたでしょ?」
真っ直ぐ自分の目を見て答える哀にジョディも何かを感じたのだろう。「……どうやら余計な心配だったようね」と優しい微笑みを浮かべる。
「お言葉に甘えて行かせてもらうわ。アイ、あなたも気を付けてね」
「ええ」
GPSを頼りにコナン達の元へ駆け出して行くジョディを見送ると哀は再びパソコンのモニターに向き直った。



組織を牛耳る黒幕の潜伏先を突き止め、明日はいよいよ乗り込むという前日。阿笠邸ではコナンと哀が潜入する際に必要と思われる物資の準備に追われていた。
「本当に君達二人だけで乗り込むつもりなんじゃな?」
心配そうに様子を見守る阿笠にコナンは「ああ」と頷くと既に何度目になるか分からない説明を繰り返す。
「日本警察ならともかく、正体を言ったところで一民間人に過ぎないオレをFBIが捜査に加えてくれるとは思えねえからな。ましてや奴らに命を狙われている灰原の同行を許してくれるはずねえだろ?」
「それはそうじゃが……」
「心配すんなって。オレ達の目的はAPTX4869のデータだけなんだからよ」
「絶対にそれ以上首を突っ込まないと誓えるんじゃな?」
「こんな身体じゃジンの野郎とまともにやり合えねえしな。『先に元の身体を取り戻して正面から対決してやる』って言っただろ?」
「オレの事、信用出来ないのかよ?」と言いたげなコナンの視線に「……博士が心配するのも無理ないんじゃない?」という皮肉な声が応える。言わずもがな声の主は哀だ。
「あなたの性格を考えると組織に潜入して何もせずに帰って来ると考える方が不自然だと思うけど」
「うっせーな……」
反射的にそう返すが、それを一番疑問視しているのはコナン自身だった。危険と分かっている場所へ哀を連れて行くのは本意ではなかったが、だからこそ今回は彼女に同行を求めたのである。
「懐中電灯、麻酔銃の針とボール射出ベルトの予備、追跡眼鏡のバッテリー、手榴弾に閃光弾、探偵バッジ、非常食に水、消毒スプレーに絆創膏、包帯……用意するのは大体こんなところかしら?」
自分を無視して準備を進める哀にコナンは「灰原、お前の分だ」と一丁の銃を差し出した。阿笠が改良したのか、子供の手の大きさに合わせた小型のリボルバーだった。
「……随分物騒な物まで用意したのね」
「敵の総本山に乗り込むんだ。用心に越した事ねーだろ?」
「……」
「灰原…?」
「あ、いや、何でもないわ」
哀はコナンから拳銃を受け取るとリュックバッグの中にそっと忍ばせた。



目を覚ますと時計の針は午前2時を指していた。
(……さすがの私でも緊張するみたいね)
哀は思わず苦笑するとベッドから起き上がった。傍らに置かれているカセットデッキを膝の上に乗せ、ヘッドフォンを装着する。
(このテープを聞くのも今夜が最後かもね……)
らしくなく感傷的になる自分にフッと苦笑したその時、哀の耳に信じられない声が聞こえて来た。
「志保」
「お姉ちゃん…!?」
気が付けばいつの間にか姉、明美が哀と並んでベッドに腰掛けている。
(私…まだ夢を見ているの……?)
戸惑う哀に明美は優しく微笑むと「志保、あなたの不安な心が私の魂を呼び寄せたのよ」と、彼女の手をそっと握りしめた。
「え…?」
「誤魔化してもダメ。志保、あなた自分があの男を殺すんじゃないかって不安なんでしょ?」
「……本当、お姉ちゃんに隠し事は出来ないわね」
「当たり前でしょ。志保は私のたった一人の妹なんだから」
懐かしい姉の言葉に哀は肩の力を抜くと重い口を開いた。
「お姉ちゃん、私……怖いの。組織に潜入してもしあの男に……ジンに会ったら自分で自分をコントロール出来なくなりそうで……」
「……なるほど?だからさっき彼から護身用の銃を受け取るのを躊躇ったのね」
黙って頷く哀に明美は納得したような表情を浮かべると、「心配しなくても志保なら大丈夫よ」と笑顔を見せた。
「大丈夫って……ジンは…アイツはお姉ちゃんの命を奪ったのよ!そんな男を目の前にしたら私……」
「あなたの気持ちは嬉しいわ。でも志保、あなた、APTXの事を彼に責められた時ハッキリ言ったじゃない。『毒なんか作ってるつもりなかった』って。そのあなたが人殺しの罪を犯すつもり?」
「それは……」
「もっとも……今のあなたに人殺しなんて出来ないと思うけど」
「え…?」
「だって一昔前の志保だったら何の迷いもなくあの男を殺してたんじゃない?」
明美の口から出た言葉に哀は愕然とした。確かに実際、姉が殺された直後はジンのグラスに毒を盛る事ばかり考えていた。それなのに……
(私……)
黙って視線を落とす妹に明美は「……その様子だともう大丈夫ね」と安心したような笑顔を見せる。
「他人の命を気にするのは自分の命を大切に思っている事の裏返しだから……生きる事に自暴自棄だった志保が前向きになってくれて嬉しいわ」
「お姉ちゃん……」
「もしかしたら志保にとって生きていく事は死を選ぶより辛いかもしれない……でもやっぱり志保には生きて欲しいの。志保自身の人生を……お父さんとお母さんもそう願ってるわ」
「私自身の…人生……」
「大体、心配しなくても彼が一緒なんでしょ?」
「彼って…工藤君の事?」
「彼にとってあなたがストッパーであるようにあなたにとっても彼はストッパーなの。あなた達、相棒なんでしょ?」
「そ、それは……工藤君が勝手に私を都合のいい女扱いしてるだけで……」
プイとそっぽを向いた瞬間、哀の手を包んでいた温もりが消える。
「お姉ちゃん…?」



山道を抜けると無機質な建物が並ぶ広大な敷地が視界に映る。深い森の木々に隠れるように愛車を止めると阿笠が「着いたぞ、新一」とコナンの方に振り返った。
「……どうやら先回り出来たみてーだな」
「当たり前じゃない。FBIがこの場所まで掴んでいるとは思えないわ。ここは組織でもごく限られた人間しか知らないんだから」
哀の言葉にコナンは気を引き締めるように懐の拳銃を確認する。
「んじゃ行ってくっから。博士は間違っても入って来るんじゃねーぞ」
「無事に帰って来るんじゃぞ」
「心配すんなって。こんな所でくたばる訳にいかねえしな」
「哀君も……」
「ええ。信じて待ってて。私達が生きて帰って来る事を」
「灰原、お前……」
自分の顔をしげしげと見つめるコナンを「失礼ね」と睨むと哀は組織の建物に視線を投げた。
「私……生きていきたいの。生きて自分の罪を償いたい……だから……」
「灰原……」
「それに解毒剤を完成させないまま死んだら誰かさんに恨まれるしね」
「……本当、可愛くねーヤツ」
リュックサックを手にコナンが車を降りようとした時だった。「そこまでよ」という声とともに誰かがビートルのドアを掴む。
「ジョディ先生…!?」
「クールキッド、やっぱりアイと二人だけで乗り込むつもりだったのね」
押し黙るコナンに代わり「どうしてここが分かったの?」と口を開いたのは哀だった。
「あなた達を尾行させてもらったの。さすがにこの場所までは掴めなかったから」
「変じゃのう、後をつけて来る車など見当たらんかったが……」
「以前クールキッドに携帯を借りた事があってね、その時ちょっと細工をさせてもらったの」
ジョディの言葉にコナンは驚いたように携帯の電池パックを取り外した。シリアルナンバーをめくると超小型の金属片が現れる。
「GPSかよ……」
携帯を返してもらった際、すり替えられた事に気を取られ発信器が仕掛けられている事まで気が回らなかったのは迂闊だった。
「……で?案内は済んだからさっさと帰れってか?」
「FBIの捜査官としては本来そう言うべきなんでしょうけど……心配しなくてもあなた達を排除するつもりはないわ」
「え…?」
「作戦会議よ。あなた達の言い分もその時ゆっくり聞いてあげるから一緒に来てくれない?」
有無を言わせないジョディの口調にコナンと哀も素直に従うしかなかった。



「あった……」
膨大なファイルの中からようやくそれらしき物が見付かり、哀は思わず安堵の溜息をついた。さすがの組織もこのファイルの扱いには困っていたのだろう、保存場所は変わっていたが彼女が残したデータは「Sherry」というフォルダにそのまま移植されていた。
アクセス制限がかけられているものの、哀にとって解除など容易い事だった。ファイルを開きパスワードを入力するとスクリーンに化学反応式が現れる。それは紛れもなく彼女が組織にいた頃研究していたAPTX4869のデータだった。
「急がないと……」
哀はリュックサックからポケットサイズのパソコンを取り出し、ホストコンピューターに接続すると探偵バッジで阿笠を呼び出した。
「博士…?」
「哀君か!?」
「APTX4869のデータを見付けたわ。今からそっちへコピーを転送するから」
「転送って……どういう事じゃ?何があるか分からんからメールは使いたくないと言っておったのは哀君、君じゃろうが」
「ちょっと事情が変わってね、今から工藤君と合流しなきゃいけないの。コピーを持ったままだと私に万一の事があったら困るでしょ?」
「万一って……」
声をオロオロさせる阿笠に胸が痛むが、毛利蘭を人質に取られた以上、コナンを放っておく訳にはいかない。哀は小さく息をつくと「……大丈夫よ、心配しないで」と語りかけるように呟いた。
「必ず生きて帰るから。工藤君の事は勿論、私、まだ博士に何の恩返しもしてないしね」
「哀君……」
目を見張るスピードでメールを作成するとデータを添付し、送信ボタンを押す。ほどなくして阿笠から「哀君、確かに受け取ったぞ」という声が返って来た。
「ありがとう。それじゃあ引き続き後方支援頼むわね」
通話を切るとパソコンをホストコンピュータから切り離し、代わりにメモリースティックをセットする。保存されているのはあのノアズ・アークを改良したプログラムだ。プログラマーの意志を実行するノアズ・アークを改良すれば一瞬にしてAPTX4869のデータを完全に消去する事も可能ではないかというコナンの父、優作の意見で阿笠が開発したプログラムだった。エンターキーを押した途端、目に見えて破壊されていくデータに哀の目から涙が零れそうになる。組織を脱出して以来、どれほどこの瞬間を待ち望んだ事だろう……?
(しんみりしてる場合じゃないわね……)
自分を叱咤するように頭を振ると哀は追跡眼鏡を掛けた。FBIがGPSで捜査員を把握しているのに対し、コナンと哀は探偵バッジで互いの場所を確認する道を選んだ。組織の干渉を受ける危険性が限りなくゼロに近い探偵バッジは二人だけでなくこの敷地に足を踏み入れたすべての人間にとって最後の命綱とも言えよう。
どうやらコナン達は哀がいるコンピュータールームとさほど離れていない場所にいるようだ。
懐から拳銃を取り出し、セーフティを解除する哀の頭に「心配しなくても志保なら大丈夫よ」という明美の声がこだまする。
(お姉ちゃん……)
何かを決意するように大きく深呼吸すると哀はコンピュータールームから駆け出した。



あとがき



アニメ「マクロスF」は全く見ていないのですが、坂本真綾さんがOPを、中林芽衣さんが歌唱を担当した事から歌だけはよく聴いています。最初は「トライアングラー=三角関係」で哀と蘭を絡めて何か書こうかな〜と思っていたのですが、「ライオン」を聴いているうちにこっちの方が先にプロットが固まってしまいまして@爆 
段々前向きになっている哀嬢ですが、残念ながら原作ではまだ「生きていきたい」という言葉は彼女の口から出ていません。いつかそんな日が来るといいのですが……