緋色の魔法



赤みがかった月が街を幻想的な光で包み込む夜。夕飯を終え、キッチンで洗い上げをしている哀の耳に電話のコール音が響いた。
「博士、出てくれない?」
リビングに向かって声を掛けるが、家主の返事はない。そういえば近くのコンビニまで買い物に行って来ると言っていた事を思い出し、哀は急いで水に濡れた手をタオルで拭くと子機を取った。
「はい、阿笠です」
「お久し振りね」
聞き覚えのある声にカレンダーを見ると「……もうそんな時期なのね」と思わず苦笑する。
「いつも貴女の方から一ヶ月前には連絡をくれるのに今年は掛かって来ないから心配になって電話したんだけど……お変わりなさそうね」
「ええ、お陰様で身体に異常は見られないわ。私も彼も。でも……」
「でも…?」
「この時期が巡って来た事を忘れるなんて……私、すっかり平和ボケしちゃってるみたいね」
「貴女の今までの人生を考えると少しくらい平和ボケしても許されると思うけど?」
電話の向こうでクスッと笑ったのも一瞬、相手の声が「それで?」と真剣なものに変わる。
「今年も…って事でいいのかしら?」
「ええ、お願いするわ」
「そう……私には貴女にとって辛い選択としか思えないんだけど……」
「辛いも何も……私が彼に出来る事はこれくらいしかないもの」
きっぱり言い切る哀に電話の相手はしばらく黙っていたが、「それじゃ、一週間後」とだけ告げた。
「ええ」
哀は静かに子機を置くとリビングのカレンダーに小さなバツ印を付けた。



一週間後。阿笠邸の玄関は急な遠出の準備に追われる家主とそれをフォローする哀の姿があった。
「急な話ですまんのう、哀君。明日の夜には帰って来られると思うんじゃが……」
「そんなに心配しなくても子供じゃないんだから大丈夫よ」
「それはそうじゃが……」
「博士の方こそ気をつけてね。この季節じゃ山梨はまだ雪が残ってるでしょうし。それから言わなくても分かってるでしょうけど……」
「『高カロリーなものは控えるように』じゃろ?分かっとるよ」
苦笑いを浮かべ、愛車を発進させる阿笠に哀はふぅと息を吐くと門の扉を閉めた。どこまでも優しく心配性な養父をこうやって見送るのは何度目の事だろう?
「そろそろ私も出掛けないとね……」
リビングへ戻り、時計を見ると午後二時を回ったところだった。約束の時間に辿り着くにはそろそろ出掛けないと間に合わないだろう。上着を羽織り、用意してあったバッグを手にすると哀は阿笠に続き家を出た。組織の影を恐れ、日用品の買い物以外で単独行動する事など滅多にないからか嫌でも緊張が走る。
「バカね、こんな昼中彼らが行動するはずないのに……」
自嘲するように呟くと哀は顔をキッと上げ、努めて普段のペースで米花駅への道を歩き出した。



東都環状線から私鉄に乗り換えると哀はシートに身を委ね、車窓を流れる景色をボーっと見つめた。米花町から目的地までは地下鉄を利用した方が効率的なのは充分承知しているが、何となく回り道をしてしまうのは用件が用件だからに違いない。
感傷的な自分に思わず苦笑したその時、哀の目に見覚えのあるホームが映った。突然、現実に引き戻されたような錯角に捕われ、慌てて脱いでいた上着を羽織ると電車を飛び降りる。
改札を出ると哀は駅の案内表示を見る事もなく何の目印もない住宅街を歩き出した。以前は地図がないと到底辿り着けない場所だったが、何度も訪れているうちに足が自然と覚えてしまったらしい。
歩く事約二十分。突然、目の前に住宅街には場違いと思われる深い森が現れた。午後三時過ぎとは思えない薄暗い道を進むと古びた洋館が出現する。玄関の呼び鈴を鳴らすと「はい」というしゃがれた声が応答し、ギイという音と共に中から重厚な扉が開けられ執事とおぼしき老人が現れた。
「ご主人と午後四時にお会いする約束をしている者ですが……」
「灰原哀さんですね?お嬢様がお待ちです。どうぞ……」
玄関に入り、羽織っていた上着を脱ぐと壁際にどっしりとした暖炉が構えられたリビングへ通される。「いらっしゃい」という優雅な微笑みとともに哀を迎えたのは長い黒髪と赤みがかった吊り目が印象的な美少女だった。
「相変らず鬱蒼としてるわね、この屋敷は。もっとも……あなたが住むにはぴったりなのかもしれないけど?」
皮肉めいた言葉に少女は「褒め言葉と受け取っておくわ」と肩をすくめると哀に紅茶を勧めた。
「今年一年、貴女にとってどんな年だったのかしら?」
「どうって……相変わらずよ。工藤君は事件を呼び寄せては解くのに夢中だし、探偵事務所の彼女は工藤君の帰りを律儀に待ってるし……」
「それもこれもあなたのお蔭だけどね」と肩をすくめると、哀は出された紅茶を口に運んだ。
「その様子だと……決心は固いみたいね」
「電話でも言ったでしょう?『私が彼に出来る事はこれくらいしかない』って」
会話を断ち切るように言う哀に少女が何か言いかけたその時、「お嬢様、準備が整いました」と、先ほどの執事が奥の部屋から顔を出した。
「早速だけど始めましょうか?」
「ええ」
紅茶のカップを皿に戻すと少女の案内で部屋を移動する。中央に大きな魔方陣が描かれ、アンティークな燭台が四隅に配置されたその部屋は何度訪れてもここが自分達が暮らす世界とは思えない空間だった。
大きな水晶玉が置かれたテーブルの前に腰を下ろすと、黒いマントを身に纏った少女が哀の正面の椅子に座り、ネックレスに手をかけ詠唱を始める。
冥府魔道を彷徨う禍々しき亡霊よ……紅の盟約に従いその躯を炎と化して我に従え……
唱えられる呪文に反応するかのように蝋燭に火が点り魔方陣が紅く染まる。逆流の中、自分だけが何かに縛られたような感覚に眩暈を覚えたその時、少女がピクッと眉を動かした。
「どうしたの?」
「……どうやら招かれざる客がいるみたい」
「え…?」
含みのある言い方に嫌な予感に囚われ、哀は椅子から立ち上がると入って来たドアを思い切り開けた。「ヤベッ…!」と声が聞こえた次の瞬間、転がり込んで来た人物に流石の哀も目を丸くする。
「工藤君、どうして…!?」



「尾けてたのね」
家主の計らいでコナンとリビングで二人きりになると哀は呆れたように呟いた。
「米花駅の前で偶然見かけてな。いつも敏感なオメーにしては随分隙だらけだったじゃねーか」
「余計なお世話だわ」
素っ気無い哀の返事に苦笑するコナンだったが、テーブルの上に置かれた珈琲カップを口に運ぶと表情を一転させる。
「あの女……一体何者なんだ?まさか……」
「心配しなくても彼女は組織とは無関係よ。解毒剤に必要な成分を調べている時に偶然知り合ってね」
「奴らの仲間じゃないって事くらい気配で分かるさ。それよりオレに内緒でこんな所までコソコソ出向いて一体何やってんだ?」
「言わなきゃいけない?」
「オメーが言わねえならこっちから調べるだけの話だがな」
「……」
コナンの言葉に哀はしばし沈黙を守っていたが、自分を真っ直ぐ見つめる瞳に『負けた』と言いたげに小さく肩をすくめると「……工藤君、あなた、携帯持ってるわよね?」と一言呟いた。
「あん?何を急に……」
「以前は博士が作ってくれたイヤリング型携帯電話を使ってたんじゃなかったかしら?」
「それが何だってんだよ?」
「携帯だけじゃないわ。インターネットもメールも……気が付けば当たり前のように使っている物が多いと思わない?」
「何が言いたい?」
「私にとってあなたに『工藤新一』を取り戻させる事は義務だと言っても過言じゃないわ。だからこそ解毒剤も必死で開発してるし……」
「んな事分かってるよ。感謝もしてるさ」
「それがどうした?」と言いたげなコナンに哀は「でも……それだけじゃダメなのよ」と寂しげな表情で呟いた。
「どういう意味だ?」
「あなたが元の身体を取り戻したとしても『工藤新一』を取り巻く人達が変わってしまったら……すべてを修復した事にはならないわ。だから毎年この日、彼女に頼んであなたとあなたに関わる人達の時を一年巻き戻していたの。あなたのご両親、探偵事務所の彼女とその家族、鈴木財閥のお嬢様、西の高校生探偵さんとその彼女、目暮警部を始めとする警視庁の人達、博士や吉田さん達三人、そして私……他にも言い出したらキリがないわね」
「バーロー、んな魔法みたいな事……」
呆れたような目で自分を見るコナンを無視するように哀は言葉を続ける。
「逆に言えばあなたとそんなに深く関わっていない人達は普通の時の流れの中を普通に生活しているわ。その証拠に技術は進歩してるでしょ?小さくなった当初、携帯なんて使っていなかったはずだし。記録メディアだって随分コンパクトになっているわ。フロッピーディスクがMOになったかと思えば今はメモリーカードが当たり前でしょう?ビデオテープはDVDに取って代わられ、カメラだってアナログからデジタルに移行したわ」
「それは……」
なおも信じられない様子のコナンに追い討ちをかけるように哀は「夏目漱石……」と呟いた。
「覚えてる?私と出会ってあなたが初めて解決した事件のキーワードよ」
「銀ギツネとかいう女の偽札事件だろ?被害者がアジトの場所を千円札に描かれた夏目漱石になぞらえ…!?」
愕然としたように言葉を失うコナンに哀は「工藤君、お札のデザインなんてそうそう変わるものじゃないわよね?」と淋しそうな笑顔を向けた。
「そ、それじゃおめえが言う通り……」
「ええ。あなたとあなたに関わった人達はもう何年も同じ時を繰り返していたの。勿論、そうとは気付かずにね」
「……それじゃ蘭がオレの帰りを大人しく待ってるのも……」
「そうよ。人の心なんて時と比例して経てば経つほど離れて行ってしまうものだもの。時が止まっているからこそ彼女は『工藤新一』の帰りを待っていられる……」
哀の言葉にコナンはしばし返す言葉を失っていたようだが、「だったら……『江戸川コナン』との関係性はどう説明すんだよ?」と絞り出すように呟いた。
「え…?」
「小さくなった当初、オレにとって元太達三人はお荷物以外の何物でもなかった。それがいつの間にかすっかり大切な仲間になっちまってる。それだけじゃねえ。憎むべき相手だったオメーとの関係だって『相棒』と呼べるまでに変化してる。おかしいじゃねーか」
「それは……」
「時は繰り返していても時間は流れているからよ」
答えに窮する哀を救うようにリビングへ入って来たのは屋敷の主だった。小泉紅子と名乗ると優雅な仕草でリビング中央のソファに腰を下ろす。
「行方不明になっている『工藤新一』と違って『江戸川コナン』は日々生活して生きているんだもの。関係性が変化するのは当然でしょ?それに……」
紅子は言葉を切ると「だからこそ解毒剤の研究も進んでるみたいだしね」と哀を見た。
「研究が進んでるって……灰原、まさか……!?」
「残念だけど完成までは至ってないわ。APTX4869だって開発に半世紀近く掛っているんだもの。そう簡単に行く訳ないわよね」
「そっか…そうだよな……」
弱々しく肩を落とすコナンを無視するように紅子は「それより……これからどうするつもり?」と哀に鋭い視線を投げた。
「どうって…?」
「バレちゃった以上、彼の記憶を操作してすべて忘れてもらう他ないでしょ?」
「それは……」
紅子の提案に肯定も否定も出来ない様子の哀にコナンは「……ったく、一人で勝手に苦しんでんじゃねえよ」と真っ直ぐな瞳を向けた。
「前に言ったろ?『たとえ蘭の中からオレの存在が消える事になってもアイツの涙は見たくねー』って。あの言葉は蘭のためでは勿論あるが……オメーのためでもあるんだぜ?」
「私のため……?」
「蘭が泣くのを見るのは確かに辛い。けどよ、その状況を作り出したと勝手に責任感じてるオメーの方がオレなんかより辛い思いをしてるんじゃねえかって気付いちまったからな」
「勝手に責任って……随分失礼ね」
「この際だから言っておくが、ジンの野郎にAPTX4869を飲まされこんな身体になっちまったのはオレが好奇心で事件に首を突っ込んだからだ。オメーのせいだなんてこれっぽっちも思ってねえよ」
「工藤君……」
「おめえの気持ちは嬉しいけどよ、進まない時間なんて死んじまってるのと変わらねーよ。結果がどうあれ生きている限り人間は前へ進むべきだ。違うか?」
きっぱり言い切るコナンに哀はしばし黙っていたが、「本当、強い人ね」と両手を広げて見せた。
「後悔しても知らないからね」
「上等だ」
「どうやら……話はまとまったみたいね」
「ええ。今までありがとう。感謝してるわ」
哀の言葉に紅子は柔らかな微笑みを浮かべると「工藤君と言ったかしら?」とコナンを見た。
「ああ」
「貴方の時を止める事で彼女が守って来たものは貴方と貴方の周囲の人々の関係性だけじゃない、貴方が追う組織からも貴方を守って来たの。時を進める事で今までより危険性は増していくわ。その事を忘れないでね」
「なるほど?どうりでいくら追っても組織との距離が縮まない訳だぜ」
「……本当、強いところまで彼とそっくりね」
「彼…?」
コナンの疑問を無視するように紅子は哀の方を見ると「私もそろそろ踏ん切りをつける時が来たみたいだわ」と、穏やかな笑みを浮かべた。
「踏ん切り…?」
「こっちの話。そんな事より……そろそろ帰らないと小学一年生の姿では目立つんじゃない?」
紅子の言葉に窓の外を見ると周囲はすっかり暗くなってしまっている。
「ヤベッ…!蘭のヤツに何の連絡も入れてねー!」
「それじゃ私達はこれで……」
「ええ。また何か困った事があったらいつでもいらっしゃいな」
執事から受け取った上着を羽織ると哀はコナンとともに屋敷を後にした。



「……何をそんなに考え込んでいるの?名探偵さん」
深い森を抜け住宅街の明かりが微かに見えると、哀は沈黙を破り自分の一歩前を歩くコナンに話し掛けた。
「別に考え込んでなんか……」
「誤魔化しても分かるわよ。どれだけ長い付き合いだと思ってるの?」
哀の言葉にコナンは「長い付き合いか」と苦笑すると小さく肩をすくめた。
「なあ、オメーがあの女と知り合ったのってオレと知り合った後だよな?」 
「そうよ」
「当然、あの女にオレの時を巻き戻して欲しいって頼んだのもそうなるよな」
「何が言いたいの?」
「なんだかオレの時はもっと早い段階から操作されてたような気がして仕方なくてさ」
「まさか……」
「間違いねえ。でないとあの予告状はありえねえからな」
「予告状って……まさか怪盗キッド?」
「ああ。オメーと知り合う少し前、初めて奴とやり合ったんだが……その時の予告状に書かれてたんだ。『April Fool』ってな。普通ならオレはその時点で小学2年生になってるはずだろ?」
「それじゃ……」
「オメーに出会う前からオレはあの女に干渉されてたんだ。しかし、一体いつから……?」
しばし考え込んでいた様子のコナンだったが、「待てよ、キッドと言えば昔、目暮警部に連れられて湊署管内で……」と思い出したように呟いた。
「どうやら心当たりがおありのようね」
「ああ。あの時のコソ泥はキッドだったんだ。どうやらあの女が干渉しているのは奴のようだな」
「そういえば彼女、『私もそろそろ踏ん切りをつける時が来た』とか言ってたわね。もしかして……」
自分にとってコナンがそうであるようにあの魔女にとってキッドは特別な存在で、敵対するものから彼を守っているのかもしれない……喉元まで出掛かった哀の言葉はコナンの「しっかし分からねえな」という言葉に遮られた。
「何が分からないの?」
「あの女がキッドに干渉する理由さ。奴に借りでもあるってんなら分からなくもないが……」
「……」
「何だよ?その目」
「……本当、どうしてあれだけ他人の心を見透かす人が女心には疎いのかしらね?」
「女心…?」
「そうよ。あなたにとっては最大の謎ってところかしら?」
悪戯っ子のようにクスッと笑うと哀は街灯で照らし出された路地を駅へ向かって歩き出した。



あとがき



アンソロ本タイトルが「LOVE CHRONICLE」だった事から思い付いたネタです。当時あとがきに「サザエさん状態な原作に対する問題作」と書かせて頂いたのですが、まさかその数年後の今、「灰原の願い+紅子の力」が相方贔屓の暁美ほむら嬢に被るとは思ってもいませんでした@爆笑