「宮野博士、到着いたしました」
運転手の声に閉じていた瞼を開いた志保は瞳に映る黒いドアに悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「看板もネオンサインもない地下酒場……なるほど?いかにも彼が好みそうなバーね」
「お迎えは何時に?」
「そうね、二時間後でも構わないかしら?」
「かしこまりました」
後部座席から降り、テールランプを見送るとドアベルを鳴らす。
「Welkom」
「Ik ben Miyano」
さすがに完全予約制の店だけあり、名乗るや否や黒いベルベットカーテンの奥へと通される。目の前に現れた黒いシックなカウンターバーの隅に目当ての人物を発見すると、志保は小さく肩をすくめ、店の奥へと歩を進めた。
「全く……あなたの『使えるものは何でも使う』っていう図々しい所、十年前と少しも変わっていないのね」
そんな愚痴を零しながらこれまた黒いスツールへ腰を降ろす彼女に「そう言うなよ、たまたまオメーがオランダにいるって聞いたから頼っただけじゃねーか」と愛想笑いを浮かべる男の名前は工藤新一、今や日本のみならず世界にその名を轟かす名探偵だ。
「IPF本部があるハーグからアムステルダムまで一時間弱はかかるのよ?日本の隣町とは訳が違うんだから……」
もっともな言い分にも無関心な様子の新一に志保は小さく溜息をつくと「はい、これ」とバッグからUSBを取り出した。
「頼まれたデータよ。原本と一般の人が見ても分かるように解釈を加えた物、両方入れてあるわ」
「サンキュ。さすが宮野、頼りになるぜ」
「調子いい事言っちゃって……」
早速タブレット端末にUSBをセットする新一をジロッと睨んだその時、カウンター内のバーテンダーから「Plaatsen van een bestelling?」と声を掛けられる。
「え?あ……」
「Breakfast Club Fluff,dank u」
「ちょっと……人のオーダーを勝手に入れないでくれる?私、この後まだ仕事が……」
「一杯くらい平気だろ?騙されたと思って飲んでみろよ」
自分好みのものを半ば強引に勧めて来るところも変わっていないようで、志保は「……それじゃ、あなたのおごりって事で」と肩をすくめた。その様子に満足そうな笑みを浮かべると新一が早速ファイルをチェックし始める。こんな場所で機密ファイルを開く彼の図太さに呆れるものの、このファイルの内容を理解出来るのは世界でもごく限られた人数の専門家だけで、一般人に見られたところで有名教授の論文を読んでいるようにしか見えないだろう。そんな事をぼんやりと考えていると「Ik bleef wachten」という声とともにオーダーしたカクテルが差し出された。
「へえ……」
「何だよ?」
「あなたの事だから『アムステルダム』でも薦めて来ると思ってたんだけど……まさかフレーバー系とはね。十年経って少しは女性の扱いにも慣れたって事かしら?」
「オメーな……」
ジュネヴァ・ジンを使ったショートドリンクの名を遠慮なく挙げる志保に「ま……種明かしすると単純にこの店の看板メニューってだけの話なんだけどさ」と肩をすくめた。
「看板メニュー?」
「ああ、ボルス・アラウンド・ザ・ワールドで優勝したみてえだぜ?」
「『みたい』って……あなたは飲んだ事ない訳?」
「ったりめーだろ?干しぶどうで香りづけした酒が入ったカクテルなんて飲めっかよ」
「……どうやらレーズンが苦手な所も変わってないみたいね」
悪戯っ子のような笑みを浮かべるとグラスに口を付ける。さすがにワールドコンペティション優勝カクテルだけあり、志保は自分でも気付かないうちに「美味しい……」と呟いていた。
「どうやら味にうるさい宮野の口にも適ったみてえだな」
「それにしても意外だわ。ビール王国で有名なオランダにこんなお洒落なバーがあったなんて……」
「二年くらい前の話だったか……事件絡みでトルコへ行った時、アムステルダムを経由したんだ。トランジットの時間潰しに空港内のカフェで読んだ雑誌にこの店が載っててさ、日本を発つ前に知り合いを通じて予約して来たんだ」
「完全予約制っていうのもあなたみたいな職業の人には好都合って訳ね」
「ああ、尾行してる奴がいても巻けるからな」
「尾けられてるの?」
「探偵なんて因果な商売だからな。プライベートな時間でもそうそう気は抜けねえよ」
「それでも辞める気はないんでしょう?」
しばし言葉を選ぶように沈黙を守っていた新一だったが、「ああ」ときっぱり答えるとグラスに残っていた『アンダルシア』と呼ばれる琥珀色のショートカクテルを飲み干した。
「Geef me nog een kop」
間髪を容れず追加オーダーを入れる新一のグラスから漂うツンと鼻につくシェリーの匂いとブランデー独特のアルコール臭に志保は思わず眉根を寄せた。
「ちょっと……あんまり飲むと知らないわよ?」
「心配すんなって。これでも結構強いんだぜ?」
「あなたの『心配するな』って言葉ほどあてにならないものがどれだけあるっていうのよ?」
「んな事より……せっかく十年振りに会ったんだ。オメーの話も聞かせろよ」
「幸か不幸かあなたに報告する事なんて何もないわ。新薬開発に必死になって気が付いたら十年経ってた……それだけよ」
「ノーベル化学賞や医学生理学賞を取ってもおかしくない成果を次々と上げてるそうじゃねーか。ノミネートされても断ってるって噂……本当なのか?」
「本当……お喋りはどこの国にもいるものね」
志保は呆れたように呟くとカクテルに口を付けた。
「確かに……ノミネートのお話は頂いたわ。でもAPTXの存在を封印する事と引き換えに無罪放免になった私にその資格はないし。罪を償えないって逆にキツイわね」
「宮野……」
「でもね、吉田さんから未だに届く灰原哀宛のメールに頑張ろうと思えるし……何より年に一回、博士の誕生日にフサエさんの自宅に集まって開くパーティーがとても楽しみなの。他人から見たら些細なものだろうけど……」
「そういえばオメー、博士の家を出てからどこに住んでるんだ?」
「住所はフサエさんの自宅になっているわ。でもほとんどそこにはいないわね。日本に帰ってもホテル住まいだし……ま、借りたところでホテルには戻れず研究所で徹夜って事も多いんだけど」
「だったらホテルなんか借りずに博士の家へ帰ればいいじゃねーか。博士だって喜ぶと思うぜ?」
「それは……」
返答に詰まる志保に新一は「ひょっとして……オメー、オレと蘭に遠慮して……?」と彼女の顔を覗き込んだ。
「バカね、どうして私があなた達に遠慮しなくちゃいけないの?確かにあなたが『江戸川コナン』だった当時、あなたと彼女に散々辛い思いをさせている事を申し訳なく思っていたわ。でも組織が崩壊し、解毒剤を完成させて元の身体に戻ったあなたは晴れて彼女と恋人同士になった……その時点で私のあなた達二人に対する負い目は無くなったの。そんなものを抱く必要がなくなったって言う方が適切かしら?」
「けどよ、オメーさ、オレの事……」
「何?」
「その……自惚れてるつもりはねえんだけど……オレを一人の男として意識してくれてたんじゃねーのか?」
「……どうしてそう思うの?」
「昔、母さんに言われたんだ。オメーがオレの顔を何回も見つめてたって……女が男を見つめるのはそいつの顔に何か付いてるかそいつに恋してる時だってな。それに……実は園子にも似たような事指摘されて……」
「え…?」
「元の身体に戻ったオメーが帝丹高校に編入して二週間くらい経った頃の話だったか……『宮野さん、ま〜たアンタの事見つめてたわよ。ひょっとしてアンタに気があるんじゃない?』って……蘭には『あんな才色兼備な人がこんな推理オタクに興味持つ訳ないじゃない』って笑って片付けられちまったし、オレ自身、当時は解毒剤服用直後のオレを気遣って観察してるだけかと思ってたんだけど……今思えば完成した解毒剤を自信作とまで言い切ったオメーがそこまでオレの姿を追うのも不自然な気がして……」
「……だったらどうだっていうの?」
「え…?」
「十年前、仮に私がそんな可愛い感情をあなたに抱いていたとしたらどうだっていうの?」
「そ、それは……」
途端にしどろもどろになる新一に志保は小さく吹き出すと「バカね、もしそうだったとしても所詮は過去の話、今更知ったからって何がどう変わる訳でもないでしょ?お互い今の生活があるんだし。博士の家で寝泊まりしないのは博士を私の不規則な生活に巻き込みたくないから……それだけの話よ」
きっぱりとした口調でそれだけ言うと志保は「それはそうと……あなたの方はどうなの?」と新一に視線を向けた。
「オレ?」
「探偵業は盛況のようだけどプライベートの方はどうなの?あなたの事だから相変わらずの鉄砲玉で彼女に寂しい思いばかりさせてるんじゃない?」
「それはねーだろ。実は蘭のヤツ、半年くらい前に看護師に復帰したんだ。『やっぱり私、デスクワークより身体を動かしてる方が似合ってるみたい』だってよ。お陰で事務仕事は溜まる一方でさ。求人は出してるんだけど……帯に短し襷に長しでなかなかな」
「贅沢言ってる場合?あなたみたいに次から次へと事件を呼び込む探偵のお守を引き受けてくれる人なんてそうそういないと思うわよ?」
「……ったく、辛辣な言葉をズケズケ言うところは十年経っても変わってねーのな」
昔を懐かしむように笑う新一だったが、フッと寂しそうな表情になると「最近さ……」と独り言のように呟いた。
「あの時……解毒剤を飲まずにコナンのまま生きていたらオレの人生はどうなっていたのかなって時々思うんだ。それはそれで面白かったんじゃねーかって……」
「らしくない事言うのね。何か嫌な事でもあったの?」
「そういう訳じゃねーんだけど……」
「だったら私の努力を踏みにじるような事は言わないでくれる?あの当時、事ある毎に『解毒剤100錠寄越せ』なんて言ったのはどこのどなただったかしら?」
「悪ぃ、そんなつもりは……」
「大体あなたにはあなたの帰りをずっと待っていた彼女がいたのよ?『江戸川コナン』のままで生きるなんて選択肢はなかったはずだけど?」
「……」
カウンターに置かれた空のグラスを黙って見つめる新一に志保は残っていたロングカクテルを一気に飲み干すと腕時計に視線を落とした。
「……それじゃ私、そろそろ失礼するわね」
「え?まだ一時間も経ってねーじゃねーか」
「悪いけどそんなに暇じゃなくてね。やりかけの仕事も気になるし……このカクテル、あなたのお薦めにしては美味しかったわ。ご馳走様」
それだけ言うと志保はスツールから立ち上がり、バーを後にした。



「……そうなの、思ってたより早く片付いて……タクシーを拾って帰るから迎えは結構よ。気にしないで、二時間後って指定したのは私なんだし。それより予定を狂わせてしまってごめんなさいね……え?明日?分かったわ、後で予定を確認しておくから……ええ、ありがとう。それじゃ、おやすみなさい」
IPF本部で自分の運転手を務めてくれているヤンセンとの通話を切ると志保は携帯の電源を切り、ムント広場に向かって歩き出した。途中に建つホテルの前まで辿り着くとラッキーな事に一台のタクシーがちょうど客を降ろしているところだった。
「Centraal Station,alstublieft」
運転手に行き先を告げると流れて行く車窓の景色をぼんやりと見つめる。
(本当、察しがいいのも良し悪しね……)
新一の左手薬指で光るマリッジリングを見た瞬間、志保は新一とその幼馴染の結婚生活が上手く行っていない事に気付いてしまった。名探偵を自認する彼が自ら妻帯者である事を宣言するような危険な真似をするはずがないし、何より結婚してからずっとはめたままなら指輪はもっと汚れているはずだ。
果たしてあの名探偵はなぜそんな真似をしたのだろうか?以前の彼を基準に考えるなら自分に余計な心配をかけまいとしての行動だろう。新一とその幼馴染を一年に満たない短い期間だったとはいえ会えない状況に追い込んだのはAPTX4869である。新一が元の身体に戻った後、志保が二人の様子を観察出来たのは約半年。その間特に変わった様子は見受けられなかったのだが……
(私が気付かない所で二人の間に亀裂が生じていたのかもしれない……)
会えなかった一年が原因と知れば志保が自らを責めると思い、夫婦仲が上手く行っているフリをした……そう考えれば筋は通る。
が、その一方、新一が自分を一人の男として意識していたのではないかと今更尋ねて来た事が引っ掛かった。志保の本音を探り、嫉妬心を煽る目的で指輪を小道具に使ったのだとしたら……
そこまで考えて急に馬鹿らしくなり、志保は邪念を振り払うように手帳を取り出すとページを繰って行った。
(所詮は過去の話……私には関係ないわ)
そういえば先程の電話でヤンセンが明日の15時に急遽会議の予定が入ったと言っていた。確かその時間は空いていたはずだが……
(10時に来客、17時からプレゼン……これなら大丈夫ね)
予定が書かれたカレンダーにホッと息をついた次の瞬間、その日付に志保はハッと目を見開いた。今日は6月1日、解毒剤が完成してちょうど十年目に当たる日だったである。
(嫌な偶然ね……)
十年目のこの日、彼と再会するなんて何かが動き出す予兆なのだろうか……?
答えの見えない問いに志保は小さく頭を振ると背中をシートに預け、目を閉じた。



あとがき



サイト開設10周年という事で相方と「解毒剤を飲んだ新志or飲まなかったコ哀」というお題で競作する事になりました。
書きやすいコ哀を選びたかったのですが、「解毒剤完成が6月1日(サイト開設日)」というありがた〜い設定が加わったため新志を書かざるをえなくなったという@爆
タイトルの「Misschien Morgen」とはオランダ語で「多分明日は」、梶浦由記さんの素敵ソング「Maybe Tomorrow」から頂きました。互いに仕事は上手く行っているんだけどなんとなく私生活が寂しい、「明日は明日の風が吹く」そんな風に思って日々生活している新志を書いてみたつもりです。果てさてこの後二人はどうなるのか……読んで下さった方のご想像にお任せします。
最後になりましたが素敵な挿絵を描いて下さったしふぉん様に感謝申し上げます。
(フルサイズのイラストはこちら!)