撫子



「ねえ哀ちゃん、今度の土曜日の夜って空いてる?」
歩美にそう切り出されたのは火曜日の給食の時間の事だった。
「特に予定はないけど……何?」
「米花神社の夏祭りだよ。昨年、博士に連れてってもらったでしょ?」
「ああ、そうだったわね……」
祭りの帰り道に交わされた蛍の話題が原因で、群馬まで光彦を探しに行った騒動の方が印象深かったせいか、あれから一年も経つ事に哀は内心驚いた。
「今年も行こうよ、ね!」
「でも……私達だけじゃ行けないわ」
「博士に連れてってもらえばいいじゃない」
「……残念だけど無理ね」
「えっ?」
「今日から一週間の予定でフサエさんが来日するのよ。博士がディナーの予約を入れたのが確か土曜日の夜だから」
「そうなんだ……じゃ、蘭お姉さんに連れてってもらう、ってのはどう?」
「蘭姉ちゃんはダメだよ」
哀と歩美の会話に割り込んできたのはコナンだった。
「どうして?」
「園子姉ちゃんが『あのガキんちょ連れて行くとまた事件に巻き込まれるから駄目!』って言ってるんだってさ」
「……なるほど?ま、賢い選択かもしれないわね」
冷静に言い放つ哀に対し、歩美の顔が曇る。
「歩美のお父さんとお母さんはその日は用事があるって言うし……」
「オレん家もダメだぞ。父ちゃんと母ちゃんは店があるからよ」
「ボクの両親もその日の夜は予定が入っていますね……」
元太と光彦が口々に呟く。
「そうなんだ……今年は無理かあ、楽しみにしてたのに……」
「……」
実際は18歳のコナンと哀だが、見かけが小学生である以上、五人だけで行く訳にはいかない。泣き出しそうな歩美に胸が痛むが、二人はそれ以上何も言えなかった。



「ただいま」
「おかえり、哀君」
リビングへ入って行くと、阿笠が穏やかに微笑む。ソファにはフサエ・木之下・キャンベルの姿があった。
「あなたが阿笠君の同居人の哀ちゃんね。こんにちは」
「……こんにちは」
哀はフサエに頭を下げると、「じゃ、私、自分の部屋へ行ってるから……」と呟いた。
「これ、哀君。主役がいなくなってどうするつもりじゃ?」
「主役?」
怪訝な表情の哀にフサエが微笑む。
「実はね、阿笠君にあなたの浴衣を頼まれていたの。昨年の夏祭りに着せてあげられなかったから、って」
「えっ?」
「日本の夏祭りなんて久しぶりだから私も楽しみだわ」
「でも……ディナーの予約入れたんじゃ……?」
「ディナーは前日の金曜日に変更じゃ。フサエさんに哀君の浴衣を頼んだくせに、祭りが今度の土曜だとすっかり忘れておってのう。年はとりたくないもんじゃ」
阿笠が照れたように笑う。
フサエはスーツケースからたとう紙に包まれた浴衣を取り出すと、「気に入ってくれるといいんだけど……」と哀に差し出した。
「開けていいんですか?」
「勿論。あなたの浴衣ですもの」
優しい微笑みに促され、たとう紙を広げると、紺色の生地に白い立涌文と大きな濃いピンクの撫子の花がデザインされた浴衣が現れた。その柄に複雑な思いを抱いた哀だったが、さすがに顔には出せない。二人の好意に水を差す事になる。
手に取ると、その縫い目に驚かされた。
「……これ、フサエさんの手縫いじゃ?」
「あら、やっぱりバレちゃった?」
フサエが悪戯っ子のように微笑む。
「色々カタログ見たんだけど、気に入るのがなくってね。布を取り寄せて自分で縫ったの。手縫いなんて久しぶりだから、腕が鈍っちゃって。粗が目立ってごめんなさいね」
「あ……私、そんなつもりじゃ……」
「気にしないで。いい反省の機会になったわ」
「……」
「思っていたより時間もかかっちゃってね。だからもう一枚はこれからなの」
「もう一枚?」
哀の怪訝な表情にフサエはウインクしてみせると、それを取り出した。



「こんばんは〜!」
土曜日夜6時。少年探偵団の三人が阿笠邸に現れた。
「あら、時間ぴったりね。珍しい」
哀の台詞に、いつも遅刻の原因を作る元太が渋い表情になる。
「わー、哀ちゃん、素敵!」
「……ありがとう。博士とフサエさんからの贈り物なの」
哀の気持ちに気付くはずもなく、歩美は浴衣の美しさに目を輝かせている。
「あれ?コナンのヤツ、まだ来てねーのか?」
「江戸川君なら、今、フサエさんに浴衣の着付けをしてもらっているけど?」
「え?今年はコナン君も浴衣ですか?」
「え、ええ……」
その時、「待たせたな」という声とともに部屋の奥からコナン、阿笠、フサエが現れた。
「へえ、コナン君と博士の浴衣、お揃いなんだ」
「あ、ああ……」
コナンと阿笠の浴衣は縹色(はなだいろ)の無地なすっきりしたものだった。フサエは綺麗な黄色地に、白い花びらに紫のグラデーションが入ったトルコキキョウがデザインされた浴衣を優美に着こなしている。
「では、行こうかのう」
阿笠の音頭で、一行は米花神社へと足を向けた。



祭りの人出は盛況で、ちょっとでも足を止めようものなら逸れてしまいそうな勢いだった。それに加え、元太と歩美は次々屋台に首を突っ込んでいく。元太はたこ焼き、トウモロコシ、リンゴ飴に綿菓子と、相変わらず食べ物に惹かれて行ってしまうし、歩美は水風船の獲得に失敗したかと思うと、懲りずに金魚すくいへと移動してしまう。
唯一、コナン達とともに行動していた光彦も、射的の景品になっているぬいぐるみを欲しそうに眺める歩美の様子に、そっちへ向かってしまった。
「……ったく、うろちょろしやがって」
「仕方ないじゃない、子供なんだから」
渋い顔のコナンに哀はクスッと微笑んだ。
「あーっ、ダメです!」
弾を撃ち尽くした光彦が悔しそうに叫ぶ。
「光彦、おまえ下手だな」
「そんな事言うなら元太君やってみて下さいよ」
「オ、オレはこういうの苦手だから……」
尻込みする元太にコナンは苦笑すると、「ちょっと貸してみろよ」と光彦から射的銃を受け取った。狙いを定め、引き金を弾くと見事に命中する。
「わあっ、コナン君凄い!」
「まあな、銃はハワイで親父に……」
思わず出そうになった台詞を慌てて飲み込む。
「え?」
「アハハ……な、何でもねえよ」
笑って誤魔化すコナンの様子に、哀は思わず苦笑した。
「あ、みんな、そろそろだよ!」
歩美の台詞と同時にドンッという大きな音が聞こえたかと思うと、美しい花火が夜空を彩り始めた。



午後9時。探偵団の三人は自宅へ帰り、阿笠はフサエを米花グランドホテルまで送って行った。
「たまには童心に帰ってはしゃぐのも悪くねーな」
「そうね」
一足先に阿笠邸へ戻って来たコナンと哀は小学生の仮面を捨て、リビングでくつろいでいた。
「……しかし、その浴衣、博士のおめえへの気持ちが溢れてるよな」
アイスコーヒーを一口飲むと、コナンは呟いた。
「花言葉は『思慕、いつも愛して』……『撫でたくなる子供みたいに可愛い』から『撫子』だからな。孤独を抱えるおめえを娘のように可愛がっている博士らしい選択だと思うぜ?」
「……男の子のくせに本当、よく知ってるわね」
「花がダイイング・メッセージって事もあるからな」
いかにも彼らしい回答に「なるほど」と哀は肩をすくめた。
「でも、残念ながら今回はあなたの深読みね。これを選んだのは博士じゃなくてフサエさんだから」
「『組織の事が落ち着いたら哀君を養女にしたい』って……本気だったんだな」
「えっ?」
突然、話題の矛先が変わったうえ、予想もしなかった『養女』という言葉に、哀は驚きを隠せなかった。
「工藤君、それ、どういう事?」
「この前、博士が言ってたのさ。冗談だと思ってたんだが……けどよ、その柄を選んだのがフサエさんなら、フサエさんは博士がおめえを実の娘のように思ってる、って気付いてるって事だろ?離れて暮らすフサエさんにまで感づかれているって事はそれだけ博士が本気だって証拠じゃねえか?」
「……」
(これ以上……博士に迷惑かけたくないのに……今でさえ博士の好意に甘えきっているのに……私……)
哀は思わず自らが着ている浴衣の撫子に目を落とした。



それから約30分後、阿笠が帰宅し、コナンは探偵事務所へ帰る事にした。
「あ、そうだ」
玄関まで見送りにきた哀に振り向くと、たとう紙に包まれた浴衣をひょいと持ち上げる。
「この浴衣、サンキュ。おめえの手作りだろ?」
「ど、どうして……!?」
「バーロー、オレは探偵だぜ?博士の浴衣とオレの浴衣じゃ、縫い目が微妙に違うからな。おめえの浴衣と博士の浴衣はどうやら同じ手による物みてえだし……となれば答えは簡単だ」
「は、博士が痩せて布が余ったのよ。だから……」
「へえ、おめえの食事療法、効果出てるんだ」
コナンがニヤッと笑ってみせる。
「一方的に世話になってるだけじゃねえと思うぜ?お目付け役がいねえと、食いたいもの食っちまうからな、博士は」
「工藤君……」
「博士との事は組織を潰した後、ゆっくり考えればいいさ。ただ……博士を悲しませるような結論は出すんじゃねえぞ」
「……」
「それに今のおめえは一人じゃねえだろ?」
『いつも愛して』と思っているだけではない。今の自分には『いつも愛したい』と思う仲間がいる。
(そして……誰よりあなたがいるわね)
片思いとは充分承知しているが、想える相手がいる事は幸せだった。もし、自分で浴衣を選ぶ機会があったら今度はオシロイバナの模様にしよう……そんな事を考え、哀はクスッと笑った。
「……何だ?」
「別に。それより、いい加減帰らないと、小学生が一人でうろつく時間じゃなくなるんじゃなくて?」
「やべっ!また蘭のヤツに怒鳴られる!じゃな!」
コナンが慌てて飛び出して行く。
哀は玄関に鍵をかけると、リビングへ戻って行った。
「……相変わらずせわしないヤツじゃのう」
「そうね……ねえ、博士」
「何じゃ?」
「あ、その……ごめんなさい、何でもないわ。じゃ、お風呂入って寝るから」
「おやすみ、哀君」
「おやすみなさい」
『いつか撫子から一歩成長した私を見てもらうから』……口には出せなかったが、それが阿笠への本当の恩返しかもしれない。その日が遠い未来ではない事を、哀は願わずにいられなかった。



あとがき



森絢女様と競作させて頂いたお題「撫子の浴衣」です。最初は単純に浴衣ものが書きたいと思っていたのですが、モデルにした浴衣の画像を絢女さんに見て頂いたところ、「灰原に撫子の浴衣かあ……意味深だなあ」と言われてしまい、「じゃあ、『撫子の浴衣』で競作しませんか?」と、非常に無謀なお誘いをしてしまったという@自爆
そんな訳で話の重点が「哀がコナンに浴衣を手作りする」から「撫子の浴衣」にコロッと変わってしまった、という経緯があったりします。悪いねえ、コナン君^^;)
森様作品はウチの宝物コーナーにありますので、是非。