Precious Place



その日はコナンが3時限目の終わりで警視庁の高木美和子警部に呼び出された事もあり、哀は一人、梅雨の雨が激しく降る中、家路を急いでいた。
「哀ーッ!」
元気な声に振り向くと、歩美が雨で濡れたアスファルトをパシャパシャと音をたてて走って来る。
「一緒に帰ろ!」
「あら?テニス部は?」
「さすがにここまで雨がひどいとコートは使えないもん。屋内練習をしようにも体育館は一杯みたいだし……」
あまり残念でもなさそうな言い方に哀は思わず苦笑すると、「練習嫌いな歩美にとってはラッキーだったわね」と肩をすくめた。
「そりゃ……確かに練習はあんまり好きじゃないけど……」
遠慮ない指摘に歩美はプウッと頬を膨らませると、「私としては久しぶりに哀と一緒に帰れるのが嬉しいんだけどなー」と、さもこちらの方が重要だと言いたげに独りごちた。
「はいはい、そういう事にしておいてあげるわよ」
「あー!信じてないでしょ?」
「さあ、どうかしら?」
クスッと笑う哀にますます口を尖らせた歩美だったが、「……あれ?今日、サッカー部は?」と首を傾げる。
「雨だから休みって訳じゃないよね?あ、ひょっとしてコナン君が休みだから哀もさぼっちゃったとか?」
「残念でした。さすがにここ連日の雨で風邪をひく部員が続出してね。先生とも相談して今日は休みにしたの。夏の大会前に体調を崩されるのも困るし……」
「あー、ウチと違って土砂降りでもずーっと練習してたもんねぇ」
歩美は納得したように呟くと、「それにしても……もう7月の中旬だっていうのに、一体いつになったら梅雨明けするんだろうね?」と、うっとうしいと言いたげに上空を見上げた。その瞬間、「あ、その傘…!」と哀の傘に目を止める。
「昨日、修理から戻って来たの」
「随分大切に使ってるよね。確か小学校4年生くらいから使ってない?」
「そうね、それくらいからかしら?」
「へぇ……」
「何?」
「記憶力のいい哀にしては珍しい反応だなーと思って」
「この傘を貰ったのがそれより2年くらい前の話なの。でもさすがにその当時は身体に対して傘が大きすぎてね……だからいつ頃から使い出したかはっきり覚えてなくて……」
「でも……4年生からだとしてももう5年だよね?」
「今時、修理してまで同じ傘を5年も使う人はいないかもしれないけど、この傘には特別な想いがあるから……」
感慨深げに呟く哀に歩美がにんまり笑うと、「分かった…!コナン君からのプレゼントなんでしょ?」と叫んだ。
「歩美、あなた、あの彼がこんな洒落たプレゼントを寄越すと思う?」
「じゃあ博士?フサエさん?」
黙って首を横に振る哀に歩美は「えーっ!じゃあ一体誰からのプレゼントなの?」と、興味津々な様子だ。
「……あなたも会った事がある人よ」
哀は穏やかに微笑むと、自分の頭上に青空を広げるその傘を見上げた。



「……それじゃあクールキッド、明日はよろしくね」
「ああ。先生こそ灰原の事、よろしく頼んだぜ」
組織のボスの居場所を突き止め、いよいよ最終決戦に臨もうという前夜。コナンと哀はFBIのジョディ・スターリングと行動を共にしていた。正確に言えば二人だけで乗り込もうとしていたところをジョディに見付かり、半ば強引にFBIが仮設したバラック小屋に連れて来られたといったところではあるが。
「確かにあなた達は今まで二人だけでたくさんの修羅場を乗り越えて来たかもしれないわ。でも、ここは本当に彼らの最後の拠点なの。どんな罠が待ち構えていてもおかしくない事くらい想像つくでしょう?私達と行動を共にする方があなた達にとっても得策だと思うけど?」
「そんな事はオレ達だって充分分かってるさ。だけど……」
「……いざとなればハードディスクを丸々破壊すれば事が足りる私達とは利害が一致しないから手を組めない、そう言いたいのね?」
「……」
「それだけじゃないわ」
すっかり口を噤んでしまったコナンに代わり会話を引き継いだのは哀だった。
「あなた達を信用していない訳じゃないけど、APTX4869の存在を知る人間をこれ以上増やしたくないの。だから……」
「……二人だけで組織本部に乗り込み、データを見付け次第その場で破壊するつもりだったのね?」
「ええ。工藤君の身体を元に戻すためバックアップは取るけど、それも解毒剤が完成したら綺麗さっぱり消すつもりよ」
きっぱりと言い切る哀にジョディはしばし黙っていたが、「だったら……交換条件っていうのはどう?」と微笑んだ。
「交換条件?」
「あなた達が組織壊滅に力を貸してくれるというなら私がアイ、あなたが守りたいと思っているものを守るわ」
「どういう意味…?」
「FBIの中であの薬の真の意味を知る人間はクリス・ヴィンヤードの正体を知る人間……つまり私とシュウ、そしてボスの三人だけなの」
「だから…?」
「あの二人に関しては私が責任を持って説得するわ。そしてあなたの最大の望み……あの薬の存在の隠蔽にも協力する。これならどう?」
ジョディの口から出た思わぬ提案にさすがの哀も一瞬言葉を失った。
「あなた……そんな事をしたら自分がどうなるか分かってるの?下手をすればFBIをクビになるだけじゃ済まないわよ?」
「ええ、そうね。でも、私、少しでも組織の情報が欲しいのよ。今まで私を守ってくれた仲間を守るために……父のような犠牲者を一人でも少なくするためにも、ね」
「犠牲者……」
その瞬間、哀の脳裏に姉、明美の姿が過ぎった。たとえ犯罪に手を染めたとは言え、自分を組織から抜けさせるために命を落とした姉は犠牲者以外の何者でもないだろう。
「……分かったわ」
「灰原!?」
「工藤君、ジョディ先生が仲間を想う気持ちと私が姉を想う気持ちは同じなの。だから……」
「おめえがそれでいいって言うんならオレは何も言うつもりねえけどよ……」
言葉を飲み込むコナンに哀は穏やかに微笑むと、「一つだけ確認しておくけど……」と、ジョディの方に振り返った。
「何かしら?」
「私が信用するのはあなたであってFBIじゃないわ。それだけは忘れないで頂戴」
「それで充分よ」
ジョディはフッと微笑むと、「明日は早いわ。今日はもう寝ましょう」と、二人を仮眠室へと促した。



夜10時。作戦会議が終わり、捜査員達が三々五々散っていく中、ジョディは上司であるジェイムスに「ボス、明日の事でちょっとお願いが……」と切り出した。
「何だね?急に改まって」
「組織本部に潜入後、私とアイだけ別行動を取らせて頂けませんか?」
「別行動?」
合点がいかないと言いたげなジェイムスに「……あの薬のデータを探すつもりなんですよ」と赤井が口を挟む。
「薬のデータ?そんな物はホストコンピューターを押収した後でゆっくり調べれば……」
「アイは研究所内でデータを発見し、その場で完全に破壊したいと言っています。その条件を飲まなければ我々と手を組まないとも……」
「……それはつまり私と赤井君にあの薬の存在を隠蔽しろという事かな?」
「無理を言っている事は充分承知しています。しかし……」
「確かに……あの薬の真の意味を知るには人類はまだ若すぎるからな」
「シュウ……」
ジョディと赤井のやりとりにジェイムスは黙って肩をすくめると、「データの件は了承した。しかしいくら何でも君達二人だけで行動するというのは……」と、渋い表情を隠せない様子で呟いた。
「組織壊滅のためにあの子達……特にアイが持つ組織の情報は必要不可欠です。そのアイが私と二人だけで行動するならと条件を出している以上、それを飲まない訳にはいきません。勿論、彼女の事は私が命に代えても守ります。ボス、許可して下さい。お願いします…!」
真剣な口調で訴えるジョディにジェイムスは「……頑固なところは相変らずだな」と苦笑すると、「君の好きにしたまえ。ただし、無駄死にだけは許さないぞ」と言い残し、部屋を去って行った。
「ありがとうございます……!」
ジェイムスの後ろ姿に思わず頭を下げたその時、後ろからポンッと肩を叩かれる。
「……お前がボスにあそこまで食い下がれるようになったとはな」
からかうような赤井の口調にジョディはフッと苦笑すると、「ようやく……ここまで来たって感じね」と、独り言のように呟いた。
「ああ」
「クールキッドの事、よろしくね。あの子、放っておくと無茶ばかりするから……」
「こっちの事は心配するな。それよりお前の方こそ気をつけろよ。あの少女は薬のデータを消すためなら自分の命も省みないだろうからな」
まるで灰原哀という少女をずっと見守ってきたかのような赤井の台詞にジョディは「……そういえばシュウ、あなた、前にあの娘と顔を合わせる訳にはいかないって言ってたけど……あれってどういう事?」と眉をしかめた。日頃から他人とあまり関わりを持とうとしない赤井があの少女の事をここまで気に掛けるのも不思議な話だ。
が、そんなジョディの問いを無視するように赤井は「……ま、俺のプライベートな事だ。気にするな」とだけ答えると、ふいにジャケットのポケットから何やら小さな布袋を取り出し、彼女に向かって放り投げて来た。
「お守りだ。持って行け」
布袋の紐を解くと使用済みの弾丸が出て来る。
「シュウ、これ…!」
「ああ、あの恋仇に撃たれた時、俺の身体から摘出された弾丸だ。いつかお返ししてやるつもりでずっと持っていたんだが……」
「今回、あなたにはあのシルバーブレット君が同行するからこれは必要ないって事?」
「ま、そんなところだな」
赤井はフッと笑みを零すと、「じゃあな」と部屋から出て行った。



FBIに捜査官として入局したあの日以来、いくつもの死線をかいくぐって来た。それなのに今、目を閉じてじっとしている事さえ苦痛に感じるのは、長年追い続けて来た組織の心臓部を前に気分が高揚しているせいだろうか?
暗闇の中、ジョディは小さく頭を振ると簡易ベッドから起き上がった。枕元の灯りを点けるとポケットからロケットを取り出す。中にはめ込まれているのはたった一枚手元に残った家族写真だった。
「パパ、ママ、いよいよ最終決戦です。どうか私を守って……」
家族の遺影にこんな風に語りかけるのはいつ以来の事だろう?らしくなく感傷的になっている自分に苦笑したその時、ユラッと動く影にジョディは「誰…!?」と枕の下に忍ばせた拳銃に手を掛けた。
「……今からそんなに緊張してたら身体がもたないと思うけど?」
冷静な声にその方向を見ると、いつの間にか隣の仮眠室で眠っているはずの哀が立っている。
「アイ……眠れないの?」
「元々そんなにぐっすり眠れる性質じゃないから……」
哀はそんな事はどうでもいいと言いたげにさっさとジョディの向かいのベッドに腰を下ろすと、「あなたにお願いがあるの」と、有無を言わせない口調で話を切り出した。
「お願い?」
「もし……この最終決戦で生き延びる事が出来たら……私をFBIに入れてもらえないかしら?」
「え…!?」
「元々APTX4869の解毒剤が完成して工藤君の身体が安定したら日本を離れるつもりだったの。でも、こんな身体のままじゃ雇ってくれる所なんてないでしょ?その点、FBIなら事情も分かってくれているし……」
哀は言葉を切ると、「決して損になる人材じゃないと思うけど?」と皮肉な笑みを浮かべた。そんな哀の態度にジョディは自分の直感を確信する。
「……アイ、あなた、解毒剤が完成しても自分は元の身体に戻らないつもりね?」
「え…?」
「さっきあなたは『工藤君の身体を元に戻すため』と言ったわ。そして今、『こんな身体のままじゃ雇ってくれる所なんてない』とも……それってつまり自分は元の身体に戻るつもりはないって事でしょう?」
問い詰めるようなジョディの口調に哀は素直に「ええ」と頷いた。
「工藤君にはまだ言ってないけどそのつもりよ。元の身体に戻って罪を償う方が私にとっては楽なんでしょうけど、そんな事をしたらあの薬の存在が公になってしまう……私の命に代えてもそれだけは絶対に出来ないわ」
きっぱりと言い切る哀にジョディはフッと息をつくと、「……アイ、あなた、また一人で何もかも背負うつもり?」と、問いただすように呟いた。
「『一人で』って……APTX4869を開発したのは私なのよ?その私以外、誰がこの罪を背負う必要があるって言うの?」
「あら、あの薬の存在を隠蔽する事に協力した私達三人、そしてあの薬の真の意味を誰よりも知るクールキッドもすでに立派な共犯者だと思うけど?」
「それは……」
言葉を失う哀にジョディはフッと息をつくと、「……残念だけど、答えはノーよ」と、彼女の希望を突き放すように断言した。
「どうして…!?」
「私がFBIに入局したのは勿論、父の敵討ちの意味もあるけど、それとは別に父が亡くなって以来、私をずっと守ってくれた仲間に恩返しがしたかったからなの。アイ、あなたもまず組織を裏切ったあなたを匿ってくれたアガサ、そしてずっと守ってくれたクールキッドにその恩を返すべきじゃなくて?」
「それは……」
「それに以前、私に『逃げたくない』って啖呵を切った以上、その約束もきちんと果たしてくれないと」
「え…?」
「私には今のあなたがランの元へ戻るクールキッドを見るのが嫌であの街から逃げ出そうとしているようにしか見えないけど?」
「そんな事……」
否定の言葉はそのまま飲み込まれ、代わりにその気持ちを代弁するように哀の頬がカッと赤く染まる。そんな哀にジョディは穏やかに微笑むと、「確かに……この先、クールキッドとランが仲良くする光景を間近で見る事はあなたにとって辛い事でしょう。でも、あの街はせっかく出来たあなたの居場所じゃなくて?」と、彼女の肩を優しく抱きしめた。
「居場所って……工藤君が元の身体に戻ったら私の居場所なんて……」
「……アイ、あなたにいい物をあげるわ」
ふいにジョディが右手をベッドの片隅に伸ばすと大きな傘を哀に差し出して来る。どう見ても男物にしか見えない紺一色の無地な傘に哀はジョディの意図が読めず、思わず首を傾げた。
「広げてご覧なさい」
「……」
促されるまま傘を広げると表面からは想像も出来なかった青空が現れる。
「この傘ね、昔、ベルモットに放火され、何もかも失って泣いてばかりいた時ジェイムスに貰ったの。『青空がないなら自分で作ればいい』って……当時は意味がよく分からなかったんだけど、居場所がないと思ったら自分で作ればいいって言いたかったのね、きっと」
「……」
「あなたにもきっとあなただけのPrecious Placeが出来るわ。だから逃げずに頑張ってご覧なさい」
ジョディの穏やかな口調に哀は黙って頷くと、その傘を受け取った。



歩美と別れ、夕飯の食材の買出しを終えた哀が阿笠邸に戻ると玄関にはすでにコナンの靴があった。リビングへ入って行くと阿笠がソファに座り、何やら分厚い本に読み耽っている。
「ただいま、博士」
「お帰り、哀君」
「珍しいじゃない?博士が熱心に本を読むなんて」
「わしだって一応科学者じゃよ?科学者たるもの日頃から努力を怠っては……」
「騙されるなよ、灰原」
ふいに阿笠の台詞を遮るようにコナンが姿を見せると、「一週間後、またパリに行く事になったんだってさ」と、悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「なるほど?フサエさんと行くレストランを探してたって訳ね」
「そういう事」
「まったく……君達には敵わんのう」
照れ笑いを浮かべる阿笠に哀は思わずクスッと微笑んだ。
「それで?いいレストランはあったの?」
「それがこのガイドブックに紹介されておる店は行った事がある所ばかりでのう……」
「だったらネットで検索してみればいいじゃねえか。どうせフサエさんに教えてもらって色んなサイトをブックマークしてんだろ?」
「それもそうじゃな。せっかくなら行った事のない店にフサエさんを招待したいしの」
阿笠はパッと顔を輝かせるとさっさとソファから立ち上がり、リビングから出て行ってしまう。次第に小さくなる鼻歌にコナンと哀は思わず顔を見合わせ、どちらからともなく苦笑した。
「……ったく。博士ももう少し自分の年を考えて欲しいよな」
「仕方ないじゃない?東京とパリの遠距離恋愛なんだもの。それより……事件は解決したの?」
「ああ。最初から容疑者は限定されてたし、トリックも大した事なかったからな。午後2時半にはここへ戻ってたぜ」
「普通そういう場合、学校へ戻って来るんじゃない?」
「まあそうなんだけどよ、あの時間に戻っても残る授業は音楽だけだったし、今朝おめえが大内先生と話してる様子から今日は部活も休みになるって想像ついたしさ」
悪びれもなく言うコナンに哀は黙って肩をすくめるとその横に腰を下ろした。
「……あ、そうだ、ジョディ先生からおめえに荷物が届いてるぜ」
「え…?」
そう言ってコナンが差し出したのは妙に細いダンボール箱だった。どうやら軽い物が一つ入っているだけのようで、箱を動かす度に中身がガサガサ移動する音が聞こえる。
「この前、蘭さんの結婚式の時の写真を送ったからそのお礼かしら?」
「かもな」
「開けてみろよ」というコナンの言葉にダンボールを開けると、ビニールパッチでしっかり梱包された美しい柄物の傘が現れた。
「おめえには丁度いいプレゼントだな」
「え…?」
「だってよぉ、あの一見男物みたいな傘、もう5年も使ってるだろ?」
「え、ええ。でも……」
「あの傘は私にとって特別だから……」そう言おうとした哀の目に一枚のカードが飛び込んで来た。
「『The brolly is now unnecessary for you, isn't it?(あの傘は今のあなたには必要ないでしょう?)』……確かにそうね」
「どういう意味だ?」
「あなた、これくらいの英語も訳せないの?」
「だからそういう意味じゃなくて……」
不満そうに眉をしかめるコナンに哀は黙って微笑むと新しく贈られた傘を頭上に広げた。



あとがき



サイト3周年記念企画クイズに参加して下さった「犬テレビ」管理人、大熊猫様のリクで「哀ちゃんとジョディ先生」です。せっかくなので大熊猫様の素敵イラストと勝手にコラボさせて頂きました。(おまけに堂々と横に飾ってるし@爆)
プロットは宇多田ヒカルさんの曲「Colors」から。『青い空が〜』という歌詞を聞く度、青空を作るこの傘を思い浮かべていたので、今回形にする事が出来て自己満足しています。
それにしてもコナンよりFBIの面々(ジェイムスや赤井)が出張ってますね。アハハ@←笑って誤魔化す