Real Mind



「ですから掛け算というのは……」
教壇で熱心に授業を進める担任教師、小林澄子に気付かれないよう灰原哀は教科書とノートの間に挟んであった本をそっと取り出した。
日頃から授業中は専ら専門書を読んで過ごしている哀だが、ゴールデンウィーク直前のその日はいつもと様子が違っていた。阿笠を介し偶然手に入れたその本はAPTX4869の解毒剤の開発に取り組んでいる彼女にとって非常に興味深いもので、昨日手にしてからというものの寝る間も惜しんで読み耽っていたのである。前の席に座る少女がプリントを回して来なかったらおそらく掃除の時間になるまで全く気付かずにいただろう。
慌てて本を閉じると既に授業は終了し、帰りの会の時間になっている。
「……それじゃあ今配ったプリントは必ずお家の方に渡して下さいね。もしお家の方がこの予定表の日では都合が悪いという事でしたら早目に先生に言って下さい」
予定表という言葉にプリントに目を落とすと『家庭訪問の日程について』とある。
「家庭訪問…?」



「ねえ、工藤君、家庭訪問って何?」
帰り道。少年探偵団の三人と別れ、コナンと二人だけになると哀はその話題を切り出した。
「アメリカでも家庭訪問員が訪ねて来ただろ?あれと似たようなもんさ」
相変らずサッカーボールを器用にリフティングしつつコナンはきちんと会話について来る。
「バカね。組織が関わっているような場所へ一般人がのこのこ訪ねて来るはずないでしょ?」
哀の指摘にコナンは思わず苦笑すると「家庭訪問ってのはな、日本の小学校じゃ当たり前のように行われている年中行事の一つさ」と解説を始めた。
「担任の教師が生徒の自宅を一軒一軒回って保護者と色々話すんだ。学校での子供の様子や授業中の態度を伝えたり、逆に保護者から家庭での子供の様子や学校に対する要望を尋ねたり……ま、一言で言えば保護者との情報交換ってところだな」
「……随分面倒くさい行事があるのね」
「しっかし家庭訪問かぁ……おめえには博士がいるからいいけど、オレは蘭に対応してもらうしかねえだろうな。幼馴染が保護者なんて……洒落にもならねえぜ」
「……」
ふいに哀が足を止めると思い詰めたような表情で俯いてしまう。その姿にコナンはリフティングを止め「あ、別におめえを責めるつもりで言った訳じゃ……」と、慌てて彼女の方に振り返った。が、哀にその言葉は全く届いていないようで、突然キッとした表情でコナンを見据えると「……工藤君、家庭訪問の事、博士には絶対言わないでくれる?」と、命令するような口調で呟いた。
「博士に言うなって……どういう事だよ?」
「別に意味なんかないわ。とにかく博士には黙ってて頂戴」
それだけ言うと哀は話を打ち切るように一人さっさと歩き出してしまう。その剣幕に圧倒され、しばしその場に立ち尽くしていたコナンだったが、黙って肩をすくめると彼女の一歩後ろを歩いていった。



5月3日、午後2時30分。2年B組の担任、小林澄子が阿笠邸にやって来たのは真面目な彼女らしく予定表に書かれていた時刻ぴったりだった。玄関を開けた途端、いかにも教師ですといった感じの地味なスーツに思わず苦笑する。
「こんにちは、灰原さん」
「どうも……」
「随分変わったお屋敷ね。知り合いの方にデザイナーでもいらっしゃるの?」
「さあ…単に博士の趣味なんじゃないかしら?」
「博士…?ああ、そういえば灰原さんは遠縁の方と一緒に住んでるんだったわね」
「ええ。『博士』と書いて『ひろし』と読むの。だから皆そう呼んでいるわ」
「そうなの。それでその阿笠さんは?」
「いないわよ」
「え…?」
「ちょっと知り合いのところへ出掛けててね……」
「で、でも灰原さん、阿笠さんと二人暮らしだったはずじゃ……あ、そっか。誰か他の親戚の方が代わりにみえてるのね?」
「バカね。そんな人間いる訳ないじゃない」
「それじゃあ……」
「ええ、私一人よ」
「……」
思わぬ展開に呆然と言葉を失う澄子に哀は「……ごめんなさい、実は博士に家庭訪問の事を言うのコロッと忘れちゃって」と肩をすくめた。
「あ…そ、そうだったの……それじゃあ仕方ないわね。明日にでも出直して……」
「無理よ」
「え…?」
「博士、今、パリへ行ってるの。帰国予定も未定だし、出直してもらっても会えるかどうか保障出来ないわ」
「じゃ、じゃあ灰原さん、いまこのお屋敷に一人で……?」
「ええ、家事は一通り出来るし不自由はないから」
「……」
「家庭訪問の事なんだけど小林先生としては学校に報告する書類さえ出来ればそれでいいんでしょ?私の方で適当に答えるからとりあえず上がって頂戴」
有無を言わさない哀の口調に澄子は「あ、はい……」と頷くと玄関に足を踏み入れた。



キッチンで紅茶とレモンパイを用意しリビングへ入って行くと、澄子は落ち着かない様子で部屋の中を見回していた。
「外観も変わってるけど中も変わってるでしょ?」
「え?あ…そうね」
テーブルに二人分のティーカップとレモンパイの小皿をセットすると澄子が慌てたように「あ、そんなに気を遣わなくていいから……」と、慌てて拒否のジェスチャーをする。
「別に気なんか遣ってないわ。紅茶は私も飲みたいから淹れただけだし、ケーキは作り置きだしね」
「その……灰原さんの好意は嬉しいんだけど……」
「あら、教育委員会の通達でも気にしてるの?」
哀の口から出た子供らしからぬ指摘に澄子が「え、ええ、まあ……」と言葉を飲み込む。正直な担任教師に哀は思わず苦笑すると「ここまで用意したのに断るのはかえって失礼だと思うけど?」と、助け舟を出すように呟いた。
「そ、そうかしら…?」
「少なくとも私はそう思うわね」
「……それじゃあせっかくだから頂く事にするわ」
やっと笑顔を見せ、ティーカップを手に取る澄子に哀はクスッと笑うと「それで?どんな事に答えればいいのかしら?」と、担任教師を見据えた。
「そう言われても……家庭訪問っていうのは本来灰原さんの保護者の方とお話しするものだから……」
「らしいわね。でも保護者にどうしても会えない場合だってあるでしょう?」
「そんな事…今まで経験ないし……」
初めて出くわした事態に澄子はどうしていいか分からない様子だったが、さすがに手ぶらで帰る訳にもいかないと判断したのだろう。心を落ち着かせるように紅茶を一口飲むと「灰原さん、先生に何か相談したい事ってない?」と哀を見た。
「別に何もないわ」
「勉強の事じゃなくてもいいのよ?例えばお友達の事や身体の事でも……」
「江戸川君に色々振り回されて閉口する事はしょっちゅうだけど私は彼に文句言える立場じゃないし。身体の方もお陰様で今のところ異常は現れてないしね」
「『今のところ』って……どこか具合でも悪いの?」
「具合が悪いとかそういう単純な問題じゃないから。普通の治療で治せるものじゃないし、先生に相談しても仕方ないわ」
「そんな……私で何か力になれる事はない?」
「残念だけど何もないわね」
「……」
きっぱり断言する哀に澄子はその先の言葉を失ってしまう。その様子に哀はやれやれと心の中で溜息をつくと「……他には?」と、会話の先を促した。
「え?あ……そ、そうね。灰原さん、家で何か習い事はやっているのかしら?」
「何もやってないけど?」
「習ってみたいと思ってる事はない?例えばピアノとかスイミングとか……」
「別に興味ないし……」
「最近は学習塾や英会話を習ってる子も多いんだけどそういうのはどう?」
「塾に行くほどのレベルの内容を勉強している訳でもないし、英語は普通に話せるから今更って感じね」
「そ、そう……」
「それにさっきも言ったでしょう?私はこの家の居候。衣食住を保障してもらっているだけで充分だって」
「……」
突き放すような哀の態度に澄子が反応出来ずにいたその時、ふいにリビングのドアが開くと「……どうやら約束の時間にすっかり遅れてしまったようじゃのう」という台詞とともに阿笠が現れた。後ろにはフサエの姿もある。
「博士、どうして…!?」
驚きのあまり絶句する哀を無視するように阿笠は澄子の前へ進み出ると「お待たせして申し訳ありませんでしたな。哀君の遠縁で阿笠と申します。いつも哀君がお世話になっておりまして……」と頭を下げた。
「い、いえ、私の方こそ灰原さんには色々フォローしてもらう事が多くて……あ、はじめまして。私、担任の小林澄子と申します」
「哀君からあなたの事は色々聞いておりますぞ。何でも江戸川乱歩の大ファンだとか……」
「え、ええ。それもあって少年探偵団の顧問を……」
思わぬ展開にあっけにとられる哀にフサエが「……哀ちゃん、阿笠君と私にもあなたの美味しい紅茶とレモンパイを頂けるかしら?」と微笑む。その言葉に哀は心ここにあらずといった表情で黙って頷くとリビングを後にした。



「すみません、長い事お邪魔してしまって……」
そんな台詞とともに澄子が阿笠邸の玄関に降り立ったのはそれから約30分後の事だった。
「いやいや、哀君の学校での様子を色々伺う事が出来て助かりましたぞ。何せわしらに心配をかけまいと日頃からあまり色々話さん子じゃからのう」
「そうおっしゃて頂くとお会いした甲斐がありましたわ」
「先生、これからも哀ちゃんの事よろしくお願いしますね。私、母親代わりと言っても普段海外で生活していますでしょ?あまりたいした事もしてあげられなくて……」
「い、いえ、こちらこそ……」
深々と頭を下げるフサエに澄子が慌てて頭を下げると「それでは、私はこれで失礼します」と、阿笠邸を後にする。
玄関のドアが閉まった瞬間、哀はフッと息をつくと「……犯人は工藤君?」と阿笠を睨んだ。
「何の事じゃ?」
「とぼけないで。今日の家庭訪問の事、工藤君から聞いたんでしょう?」
「それはまあそうなんじゃが……」
苦笑する阿笠に哀は「……本当、おしゃべりなんだから」と溜息をついた。
「ところで哀君、どうして家庭訪問の事をわしに黙っておったんじゃ?」
「それは……」
「わしがゴールデンウィークはパリへ行くと言っておったからかの?」
哀は黙って阿笠から視線を逸らすと「……ごめんなさい」とポツリと呟いた。
「ただでさえ迷惑を掛けっぱなしなのに私の事で博士の予定を狂わせたくなかったの。でも、今思えば正直に話して『留守でも構わない』ってはっきり言うべきだったわね。まさかわざわざ帰国するとは夢にも思わなかったから……」
沈んだ口調で呟く哀の肩を阿笠がポンッと叩くと「確かに……外国から帰国したのは事実だがパリからではなくロスからなんだがね」と、悪戯っ子のように微笑む。
「え…?」
次の瞬間、阿笠の姿をしていた人物がその本来の姿を現した。
「工藤君のお父さん…!」
「久しぶりだね」
「じゃ、じゃあこのフサエさんは……」
「わ・た・しw」
有希子がフサエの変装を解くとニッコリ笑う。そして更に「オレもいるぜ」という台詞とともに優作の背後からコナンが姿を見せた。
「前に博士がゴールデンウィークはフサエさんに会いに行くって言ってたのを思い出してさ。それでおめえがオレに口止めした理由が分かったんだ。家庭訪問の事を話せば博士の事だから予定を取り止めると言いかねないし、かと言っておめえ相手じゃ小林先生が辛いだろ?で、オレの父さんと母さんに博士とフサエさんに変装してもらうのが一番手っ取り早いんじゃねえかと思ったんだ」
「博士の声を演じていたのはあなただったのね?」
「ああ。元女優の母さんはともかく父さんは演技はさっぱりだからな」
「それにしても観察力の鋭い哀ちゃんが全く気付かないなんて……私もまだまだ女優としてやっていけるわねv」
有希子がすっかりご機嫌な様子でウフッと微笑むと「それはそうと、哀ちゃん、お菓子作り上手ね〜。さっきのレモンパイ、もう一切れ頂けないかしら?今度はコーヒーでv」とウインクを投げる。
「あ……」
この夫婦相手に文句を言ったところで馬の耳に念仏だろう。哀は黙って肩をすくめるとリビングを後にした。
「……本当、お節介な人達なんだから」
キッチンで一人になった途端、思わず憎まれ口を叩く。が、その言葉とは裏腹に胸に熱いものが込み上げて来る自分を自覚し哀は思わず苦笑した。



哀の姿がリビングから消えるや否やコナンは「……それで?」と有希子を半目で睨んだ。
「なあに?」
「わざわざ灰原をこの部屋から追い出して何の話だよ?」
「さっすが新ちゃん、やっぱり気付いてたのねv」
「あったりめえだろ?この前国際電話で『やけ食いしたら3キロも太っちゃった〜!』って喚いてた母さんがケーキを二切れも食うなんてありえねえからな」
「失礼ね、2キロよ!」
「2キロでも3キロでもどっちでもいいだろ?」
つまらない事に拘る母にコナンは思わず溜息をつくと「で?何だよ、一体」と話の先を促した。
「新ちゃんに聞きたい事があって」
「聞きたい事?」
「どうして今回、優作と私を帰国させてまでこんな計画を実行したのかその理由を教えてくれない?」
「んな事電話で話しただろ?灰原が博士に気を遣って家庭訪問の事を黙ってるからって。さっきも言ったけどアイツ相手じゃ小林先生が可哀想だしな。それに……」
「それに?」
「……いくら中身はガキじゃねえとは言えアイツに保護者のいない家庭訪問なんて経験させたくなかったんだ」
コナンの答えに有希子が「フーン……」と意味深に目を細める。
「……な、何だよ?」
「それじゃあ聞くけどどうして新ちゃんは哀ちゃんにそんな経験をさせたくないと思ったの?」
「それは……アイツ、普段突っ張ってばかりいるけどよ、本当は結構寂しがりやなんだ。だから……」
「寂しい思いをさせたくなかったって訳ね。でもどうして?」
「どうしてって……」
言葉に詰まるコナンに有希子がハァと溜息をつくと「……この鈍さ、一体誰に似たのかしら?」と優作を見る。優作は苦笑すると「慌てる事はないだろう」と穏やかに微笑んだ。
「人が一番分からないのは案外自分自身の事かもしれないからな」
「確かにそうかもしれないけど……でも、自分の本当の心が分かるのは自分だけでしょう?」
「勿論さ。だから後は新一が気付くか気付かないか……だな」
「……?」
目の前で交わされる両親の会話の意味が分からずコナンが首を傾げたその時、哀がコーヒーとケーキを載せたトレーを手にリビングへ戻って来た。
「お口に合うかどうか分かりませんが先ほどケーキだったので今度はクッキーにしました」
「わぁ、哀ちゃん気が利く〜v」
テーブルにコーヒーカップを並べ大皿に盛ったクッキーを真ん中に置いた後、ふいに哀がコナンに「はい」とレモンパイを切り分けた小皿を差し出して来る。
「え…?」
「あなたさっき食べ損なったでしょ?普段、蘭さんに正体がばれないようレモンパイに興味ない振りをしているからこっちの方が嬉しいんじゃなくて?」
哀らしい不器用な優しさにコナンは思わず苦笑すると「サンキュ」と小皿を受け取った。その様子に優作と有希子が顔を見合わせにんまり笑う。
「……何だよ?」
「新ちゃんったら。哀ちゃんには色々見透かされてるのねv」
「……どうやらお前もまだまだのようだな」
両親の遠慮ない指摘に「うっせーな……」と顔をしかめるとコナンはレモンパイを口に運んだ。



あとがき



サイト3周年記念企画クイズに参加してくれた相方のリクで「小林先生の家庭訪問」です。正直、小林先生についてはどちらかと言うとクソ真面目で乱歩マニアという事しか把握していないのでどこまで「らしく」書けているか甚だ疑問なんですが@滝汗
単に博士と話すだけではつまらないと思い(←とことんアマノジャク)こんな話が出来上がりました。ただ、そのせいで話の軸がお題の家庭訪問からすっかりずれてしまっていますね@爆
最後に最近の家庭訪問事情を教えて下さったkouma様、森絢女様、ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。