『余の辞書に不可能の文字はない』――かのナポレオン・ボナパルトが日常よく口にしたというこの台詞を目の前の女性に当てはめるとすればさしずめ『彼女の辞書にスケジュールの文字はない』といったところだろうか……?
「哀ちゃん、久し振りv元気にしてた?」
玄関を開けるや否やとびっきりの笑顔を向けるコナンの母、工藤有希子の姿に灰原哀は驚いたように目を瞬かせた。
「ちょっと家の鍵を忘れちゃって……新ちゃんが来るまでここで待たせてもらってもいいかしら?」
「それは構いませんけど……」
「あ、私の事は一切お構いなく。突然アポなしで押し掛けた身分で贅沢言うつもりはな……あ、でもせっかくだから哀ちゃん特製の美味しい珈琲は飲みたいなv」
かつて世界中の男性を虜にしたという愛くるしい笑顔でおねだりして来る有希子に哀は「リビングで待っていて頂けますか?」とだけ言い残すとキッチンへ向かった。



ヒロインにはならない



珈琲とクッキーを載せたトレーを手にリビングへ入って行くと、中央のソファに陣取り手荷物の整理をしている有希子の姿があった。
「ありあわせで申し訳ありませんが……」
「美味しそうなクッキーね!哀ちゃんの手作り?」
「吉田さんに『クッキーの作り方教えて!』と頼まれて……博士が食べてもいいように砂糖を控えめにしてあるのでお口に合うかどうか分かりませんけど」
「歩美ちゃんのお付き合いかぁ……そういえば新ちゃんが言ってたわ。『さすがの灰原も歩美には弱い』って」
余計な事を……と顔をしかめる哀だったが、有希子の口から出たコナンの名前に「そういえば昨日、工藤君と携帯で話してませんでしたっけ?」と首を傾げた。
「確か彼、『ロスの母さんからだ』って言ってたような……」
「実はその直後に優作と大喧嘩してね、ロスの家を飛び出して来ちゃったの。だから新ちゃんも私が帰国してる事は知らなくて……今、事情をメールしたからそのうち来てくれると思うわ」
「『そのうち』って……彼、今朝博士と車で出掛けましたよ?」
「えっ!?」
「どうせ事件絡みだと思いますけど。探偵事務所に『ちょっと遅くなる』と連絡してましたし、ガソリンの残量を気にしてましたから少々遠方へ出掛けているかと……」
「ええ〜、それじゃいつ帰って来るか分からないじゃない!もう!父子揃って勝手なんだから……!」
この台詞を聞けば件の探偵は非常に不服だろう。不機嫌そうな表情のコナンを想像し、哀はクスッと微笑むと「幸いこの家には泊まって頂くスペースもありますし。大したおもてなしは出来ませんけど工藤君達が戻るまでゆっくり寛いで下さい」と珈琲カップを差し出した。



有希子の期待も虚しくそれから三時間が経過してもコナン達が帰って来る気配は全く感じられなかった。どうやら行き先は携帯の電波が届かない所のようで、度々コールしても虚しいコンピューター音声が返って来るばかりのようだ。
「新ちゃんったら……一体どこの山奥へ出掛けたのよ!」
盛大な愚痴と共にプウッと頬を膨らませる有希子に哀はクスッと笑うと読みかけの雑誌に視線を戻した。
訪問された時は根っからの社交家である有希子の事、口では『一切お構いなく』と言っているものの、コナンの近況や彼を取り囲む人間の事など色々尋ねられると思っていた。が、珈琲を出した直後に少々会話を交わしただけで有希子が哀に話題を振って来る事はなかった。逆に「私はここのソファで一眠りさせて頂くから哀ちゃんは哀ちゃんで自分の過ごしたいように過ごしてねv」とまるでいないように扱って欲しいと言わんばかりの態度に哀としては少々戸惑っていた。
(解毒剤の進捗状況とか私に聞きたい事もあるはずなのに……)
そんな思いに我知らずしげしげと見つめてしまっていたようで「どうしたの?」と極上の笑顔を返される。
「え?あ……」
「思いがけず私が静かにしてるからおかしいと思ってるんでしょ〜」
「べ、別にそういう訳では……」
「気にしないで。昔、付き合い始めた頃、優作にも言われた事あるから」
「え?」
「まあねぇ〜、マスメディアを通じてしか私を知らない人にはいつも賑やかな女だと思われてても仕方ないし?実際私自身、自分は社交的でどこまでもポジティブな人間だと思ってるから周囲の人達がそう思うのは当然よね。でも、TPOって言葉あるでしょ?場の雰囲気を読むと言うか……十代の頃に芸能活動を始めた事もあってそういうものが自然と身についたの。いい物を作るために監督や演出家が真剣に議論してる横でニコニコ笑ってても何の役にも立たないでしょ?」
有希子の言う事はもっともで哀は黙って頷くしかなかった。そして同時にコナンの父、工藤優作が人生の伴侶にこの女性を選んだ理由が分かったような気がした。おそらく彼の執筆中、有希子は別室で過ごすか傍にいても黙って本や雑誌を読んだりネットサーフィンでもしているのだろう。女優時代はひたすら台本と睨めっこする時間だったのかもしれない。
「もっとも……私が割とすんなり自分を変える事が出来たのは女優という仕事のお陰だった部分も大きいんだけどね。女優って色々なタイプの女性を演じるじゃない?そのせいで自分のダメなところや自分に足りないものを嫌でも気付かされたの。そういう意味でも本当、当時の事務所の社長とマネージャーには感謝してるわ。私が女優として、人間として成長するために役を選んでくれたのは彼らだったから。ブレイクのきっかになった坂本乙女役もマネージャーが必死に取って来てくれた役だったのよ?『女優になったからには演技力で勝負する作品に出ない事には意味がないぞ!』ってお尻を叩かれて……今となってはいい思い出だけど当時は本気で事務所を変わろうと思った事だってあったんだから」
若かりし日の自分に有希子はフッと苦笑すると「でもね、そんな私でも絶対やらないと心に決めていた役はあったのよ?」と悪戯っ子のような視線を哀に投げた。
「やらないと決めていた役……ですか?」
「何だと思う?」
「そうですね、凄くネガティブな性格のヒロインとか……?」
「ん〜、ちょっと掠ってるけどハズレかな?結果としてそういう役も回って来なかったけど。正解は恋愛小説のヒロイン。どんなにオファーされても断ったわ」
「あまりそういう印象はありませんけど……」
「代表作になった『あぶない婦警物語』とか確かに恋愛要素もあったけどあれはあくまでラブコメでしょ?実は私、純粋な恋愛小説を原作にした映画やドラマは勿論、恋愛をメインテーマにしたオリジナル作品も出演した事がないの。リアルでもありがちな女同士のドロドロを演じても面白くなかったからっていうのもあるけど……もう一つ大きな理由があってね」
「もう一つ……?」
「だって恋愛小説のヒロインって基本可哀想な女性じゃない?読んでる方にはその方が面白いからなんだろうけど私はそういう役は演じたくなかったの。報われないと分かっていても諦めない、どんな手段を使っても奪ってやる、そういう気構えがある女性の方が私は好きだから。恋愛ものでもそういう肉食系女子の役なら喜んで引き受けたんだけど……何故かそっちは声が掛からなかったのよね〜」
人気絶頂だった頃の有希子を思えば当然そうなってしまうだろうが、そんな簡単な答えに当の本人が全く気付いていない事に哀がクスッと笑ったその時、「だから哀ちゃんも恋愛小説のヒロインにはならないでくれる?」と真剣な瞳で見つめられた。
「え…?」
「我が息子ながら本当、そっち方面は鈍チンなのよね〜。よく探偵なんて務まってると逆に感心しちゃう」
具体的な指摘こそしないものの、有希子が自分のコナンに対する複雑な感情に気付いている事は明らかで、哀は「どうして……敵に塩を送るような事をおっしゃるんですか?」と独り言のように呟いた。
「工藤君には幼い頃から心に決めた彼女がいるのに……」
「哀ちゃんの事だからどうせ『私が入る隙間はない、そもそも私には彼に恋する資格なんてない』そう思ってるんでしょ?」
「……」
「確かに新ちゃんと蘭ちゃんの絆は強いものだわ。でもだからといって遠慮する必要はないんじゃないかしら?たまたま巡り合った順番が蘭ちゃんの方が早かったっていうだけの話だし?組織にいた事を気に病むのは分からなくもないけどそれも所詮過去の話じゃない。今現在、新ちゃんが哀ちゃんを信頼してるのは誰の目から見ても明らかだわ。それは哀ちゃんだって気付いてるでしょ?」
「それは……あくまで対組織の戦友みたいなもので……」
「新ちゃんにとって哀ちゃんは戦友かもしれないけど哀ちゃんにとって新ちゃんはそれだけの存在じゃないんでしょ?だったら黙ってちゃダメ。人を好きになるってとっても素敵な事よ。せっかく好きになったんですもの、『どうせ報われないなら……』って自分の胸の内だけに秘めておくなんて勿体ないわ」
「……」
「先の事なんて誰にも分からないんだもの。でも一つだけハッキリしてる。『動かなかったら負け』……違う?」
「……」
すっかり押し黙ってしまった哀に有希子が「それにね」と構わず言葉を続ける。
「私、人間って出会う人の数が多ければ多いほど成長する生き物だと思うの。それは恋愛も同じなんじゃないかな?決して蘭ちゃんに不満がある訳じゃないのよ?でも母親としては新ちゃんにもっとたくさんの女性を知った上で自分にとっての『たった一人』を見付けて欲しいの。私自身、たくさんの男性を見た上で優作を選んだし、優作もそうだったはずだから」
「……そのたくさんの男から選んだはずの父さんと始終喧嘩してるのはどこの誰だよ?」
ふいに聞こえた低い声に顔を上げるとコナンが心底呆れたような視線を母親に送っていた。
「新ちゃんったら……女同士の秘密の会話を盗み聞きするなんて趣味が悪いわよ?」
「バーロー、たくさんの男云々の下りしか聞いてねーよ。それともオレに聞かれたらマズイ事でも話してたのか?」
「さあ、どうかしら?」
曖昧な答えを返す母にこれ以上詮索しても無駄だと悟ったのだろう。コナンは「世話かけちまったな、灰原」と呟くと有希子が持って来たキャスターを持ち上げ、さっさと阿笠邸から出て行ってしまった。
「それじゃあ……」
「逃げてばっかじゃ勝てない……」
「え…?」
「以前、吉田さんに言われたんです。『動かなかったら負け』……意味は同じですね」
「そうね」
「人間の感情ほど移ろいやすくて厄介なものはないって理解してたはずなのに……ここ最近、自分でも薄々気付いてはいたんですけど、私、『あの二人は特別だ』って自分に言い聞かせる事で逃げてたんですね。自分の本当の気持ちから……」
己に言い聞かせるように呟く哀に有希子が彼女の肩をポンッと叩いた。
「彼に自分の気持ちを伝えられるかどうかまでは分かりませんけど……もう悲劇のヒロイン気取りは止めます。自分にだけは嘘をつきたくないので」
「応援してるわ♪」
鮮やかにウインクを決め、リビングを出て行く有希子の後ろ姿を哀は晴れやかな表情で見送った。



あとがき



灰原テキストではありがちな「彼には蘭さんがいる……」という哀ちゃん自己完結パターン、実は嫌いだったりします。ぶっちゃけ書きやすいとは思うのですが、悲劇のヒロイン状態でいて欲しくないんですよね。ただ彼女の立場を思うと誰かに背中を押してもらわないと踏ん切りがつかないとは思うのです。こういう時有希子ママは最強ですね♪
「恋愛小説のヒロインは可哀想な方が読者には面白い」という歌詞から思い付いた小ネタ、有希子ママの言葉に説得力を持たせなくちゃいけない事もあって思った以上の難産になってしまいました@爆