い・け・な・い・ルージュマジック



「それにしても……無邪気なのかマセてるのか分からないわね」
東都環状線米花駅前で歩美、元太、光彦と別れるや否や呆れたように呟く哀にコナンは「何の事だ?」と怪訝な表情を浮かべた。
「あの子達よ。目の前のキスシーンに驚いてたかと思ったら相変わらずあどけない発言するし……」
「そういやあ……」
哀の説明にコナンはようやく警察病院で見た高木刑事と佐藤刑事の口付けを思い出した。さすがの三人組も驚いたように茫然とした様子だったが、その一瞬後には『これで温泉に連れてってくれる』と本気で喜んでいたのだからおめでたいとしか言いようがない。
そんなコナンの反応をどう思ったのか、哀が「さすがに誰かさんは余裕の表情だったけど」と皮肉な視線を向ける。
「バーロー、ガキの頃から父さんと母さんが目の前で散々イチャついてたんだ。今更……」
「そういえばあの明るいお母さんの影響だったわね。男の子のくせに変な事を知ってるのは」
「変な事…?」
「前に殺人事件が起きた現場で言ってたじゃない?『女性が口紅を直すのは食事かキスをした後ぐらい』って」
からかう様な哀の指摘に思わず顔を赤らめるコナンだったが、これでは未経験だと白状しているようなものだと気付き、「……悪かったな」と拗ねたように頬を膨らます。
「ま、元の身体に戻ったらラブコメ展開も程々にする事ね。彼女がいつまでも大人しく待っていてくれると思ったら大間違いなんだから」
「……そういうオメ―こそどうなんだよ?」
「どうって…?」
「アメリカ留学してたくらいだし……キスくらい経験あるんだろ?」
反撃とばかりに会話の主導権を握ろうとしたコナンだったが、哀の方が一枚上手だった。
「気になる?」
「そ、そういう訳じゃ……」
引きつったような笑顔を浮かべるコナンに哀は「女性に正面からそんな質問をするのは失礼だと思うけど?探偵さん」と、呆れたように肩をすくめると一人さっさと歩いて行ってしまった。



探偵事務所の一階上に位置する毛利家の玄関を開けるや否や美味しそうな匂いがコナンの鼻をくすぐった。
「ただいまー」
「あ、コナン君、お帰り」
ちょうど夕飯の準備を済ませたばかりなのだろう。蘭が菜箸を手に笑顔で玄関まで出迎えにやって来る。
「この匂い……今日の夕飯はハンバーグ?」
「残念でした。今日、スーパーでお肉のセールやっててね。ちょっと奮発してステーキにしちゃった」
「……」
嬉しそうに話す蘭の唇に目が止まり、コナンの心臓がドキッとはねる。
「あれ?コナン君、顔赤いよ?熱でもあるんじゃ……」
手のひらを額に当てようとする仕草に蘭の顔が接近する。胸の高鳴りを抑え切れず、コナンは「そ、そんなんじゃないよ。ボク、着替えて来るね」と叫ぶと、慌てて小五郎の寝部屋へ駆け込んだ。
(ったく。灰原が妙な話題持ち出すから……)
こんな事なら高木刑事と佐藤刑事に変な気を遣わなければ良かった……『後悔先に立たず』とはよく言ったものだとコナンは乾いた笑いを浮かべた。



「ご馳走様。やはり哀君の手料理は美味いのう」
「久しぶりに肉料理だったからって……お世辞を言ったところで明日はまた魚だからね」
「お世辞などではないぞ。わしは心の底から……」
「はいはい」
阿笠の言葉を遮るように哀は「ご馳走様でした」と手を合わせるとダイニングテーブルを離れ、後片付けを始めた。その様子に阿笠が黙って肩をすくめると自分の食器をシンクへ運んで来る。
同居して数ヶ月、この家の家主はいつの間にか哀が一人になりたいと思っている時を察してくれるようになった。下手な事を言って心配させたくないと思う心に偽りはないが、同時に何も言わない阿笠の優しさに甘えているのも事実で、哀は思わずそんな自分に苦笑する。
片付けを終え、二人分のコーヒーを淹れるとそのうちの一つをリビングにいる阿笠の元へ運ぶ。
「それじゃ博士、私、地下にいるから」
「風邪をひかんように気を付けるんじゃぞ」
「大丈夫よ。心配しないで」
精一杯の感謝の気持ちを笑顔で表すと自分の分のコーヒーを手に階下の研究室へ向かう。ドアの鍵をかけ、部屋の片隅からカセットデッキを運んで来ると哀は椅子に腰かけ、ヘッドフォンを装着した。
<15歳になった志保へ……志保はもうファーストキスは経験しましたか?お母さんのファーストキスはね……>
母、エレーナの穏やかな声に哀の脳裏に3年前の出来事が蘇る。



(随分遅くなっちゃった…!)
組織の命令で訪れていた製薬会社のビルを飛び出すと、志保は待ち合わせ場所の公園へと駆け出した。その日は偶然にも姉、明美もこの付近で用事があるという事で、久し振りにランチでも一緒に食べようという話になったのである。
目的の公園へと辿り着き、公園内を一周するが姉の姿は見当たらない。
(30分も遅刻したんじゃ無理ないわよね……)
ハアと溜息をつき、振り返った志保の目に見覚えのある服が飛び込んで来た。以前、「志保が褒めてくれるなんて珍しいわね」と姉が嬉しそうに話していた服だけに見間違えるはずはない。
「もう、お姉ちゃんったら。こんな所にいたんじゃ……」
木陰に一歩足を踏み入れた瞬間、言葉を失う。明美はライと呼ばれる組織の男の腕の中にいた。互いに愛おしそうに見つめ合っていた二人の唇が静かに重なる。
(……!)
留学先のアメリカで同級生達が気軽にキスを交わしているのを見かけた事は何度もあったが、目の前で姉が、しかも組織の人間と口付けを交わす姿に志保は思わずその場を立ち去った。



その夜。組織内の施設に戻り、一人研究室で仕事を片付けていた志保の耳に携帯の着信音が響いた。想像通りメールの主は明美だった。
<今日は久し振りに志保と美味しいランチを食べられると思っていたのに残念。ま、志保が夜中まで無茶して身体を壊す事を考えたらランチを一回パスされたくらいで文句言っちゃいけないよね。またの機会を楽しみにしてるから。それじゃ、またね>
どうやら明美は『仕事で急に行けなくなった』という自分のメールに全く不審を抱いていないようで、志保はホッと息をついた。同時に理由はどうあれ、人の好い姉に嘘をついてしまった事に胸が痛む。
(それにしてもお姉ちゃんの相手があの男だったなんて……)
姉の口から好きな人がいる事は聞いていたが、まさか組織の人間だとは思わなかった。しかも今度ジンと組んで仕事をする事になった程組織でも頭角を現してる人物である。そんな危険な男を姉の傍に置いておいて果たして大丈夫なのだろうか……?
答えの出ない問いに苛々して手元のコーヒーカップに手を伸ばしたその時、ドアが開く音が聞こえたかと思うと黒ずくめの衣装に身を包んだ長い銀髪の男が姿を現した。
「ジン……」
「シェリー、お前、今日の昼間監視の目を抜けて出掛けたそうじゃねえか」
「……お昼休みの時間くらい私の勝手でしょ?」
ジンを無視するように椅子から立ち上がると志保は帰り支度を始めた。姉の事が気になって仕方ない上、この男の邪魔が入っては仕事にならない。続きは明日に回す事に決め、パソコンをシャットダウンしたその時、凄い力で腕を引っ張られる。
「……!?」
次の瞬間、志保の唇を冷たい唇が塞いだ。
「ヤッ…!!」
反射的に自分を突き飛ばす志保をジンは面白そうに見つめている。
「まさか初めてだったとか言うんじゃねえよな?」
「……」
「せっかくの機会だ。この先も教えてやってもいいんだぜ?」
全身を舐めるように見つめるジンのいやらしい視線に耐え切れず、志保は白衣のまま研究室を飛び出した。



ガシャッという音に我に返るとカセットデッキは両面の再生を終えて停止していた。果てしなく長い間、過去へ引き戻されていた気がする。哀は溜息を落とすとデッキからテープを取り出し、ケースへと収納した。
普通の女性として生活していた姉と違い、常に組織の監視下で英才教育を受けて来た志保は異性や恋愛といったものに関心を抱いた事はほとんどなかった。それでも姉に借りた小説や休日に一人で観た映画の影響か、心のどこかで素敵な経験にほのかな憧れを抱いていたのだろう。
「私だって……ファーストキスは好きな人としたかったわよ……」
忘れたくても忘れられない苦い思い出とコナンに言われた言葉を反芻し、哀は唇を噛むと机に突っ伏した。



それから約30分後。リビングでテレビを見ていた阿笠の耳に玄関のドアが開く音が聞こえた。呼び鈴も鳴らさずに図々しく入って来る人物は確かめるまでもない、コナンである。
「博士、いるかー?」
「何じゃ、こんな夜更けに」
「その……悪ぃんだけどさ、今夜ここに泊めてくれねーか?」
「別に構わんが……蘭君と喧嘩でもしたのか?」
「そういう訳じゃねーんだけど……」
まさか蘭に話し掛けて来られる度、彼女の唇が気になって仕方がないとは言えず、コナンは曖昧な笑みを浮かべた。
「あれ、灰原は?」
「哀君なら地下じゃが……それより新一君、今日歩美君達と出掛けた時、何かあったんじゃなかろうな?」
「へ…?」
「ここのところ夕食後はリビングでテレビを見たりネットサーフィンを楽しんでおる哀君が今夜はさっさと地下に閉じ籠ってしまってのう」
どうやら阿笠は哀の機嫌が悪いのは自分のせいだと思っているようで、コナンは思わず眉をしかめた。
「あのなぁ……アイツの虫の居所が悪いからって勝手にオレのせいにすんなよな。大体、文句言ってやりたいのはこっちの方なんだからよ」
「文句…?」
思わぬ反論に目をしばたたかせる阿笠を無視するとコナンは地下へと降りて行った。研究室のドアをノックするが中から返事はない。
「まさか寝ちまったんじゃねーだろーな?」
ドアには鍵が掛けられており、コナンは胸ポケットから安全ピンを取り出すとピンの部分を器用にねじ曲げた。鍵穴と格闘する事数分、カチッという音とともにロックが解除される。
「おい、灰ば……」
ドアを開けたコナンの目に机に突っ伏し、静かに寝息を立てている哀の姿が映る。
「……ったく」
叩き起こすのは気が引けるが、このままでは風邪を引いてしまうと判断したコナンが哀の傍まで行き、身体を揺すったその時だった。
「工藤君…ダメ……」
(……!?)
突然自分の名前を悩ましい声で呼ばれ、コナンの視線は哀の唇に釘付けになってしまった。顔面がゆでだこのように真っ赤に染まり、心臓が激しく脈打つ。
(蘭はともかくなんで灰原の唇にも興奮しちまうんだよ…!?)
「ん……」
ピクリと動く哀の眉にコナンは転がるように部屋から飛び出した。



「あら…?」
リビングへやって来た哀はそこに居るものとばかり思っていた人物の姿が見えない事に首を傾げた。
「工藤君、来てたんじゃないの?」
「新一君ならついさっき泊めてくれと押し掛けて来たんじゃが……どういう訳か『やっぱり自分の家で寝る』と言って出て行ってしまったんじゃ」
「彼の事だからどーせ読みたい推理小説でもあったんでしょ」
窓から見える工藤邸に視線を投げると、「……残念だわ。一言文句言ってやりたかったのに」と肩をすくめる。
「はて?新一君も君に文句があるような事を言っておったが……」
「どんな文句か知らないけど倍にして返してあげるわよ。人の純情な思い出をとんでもない内容に塗り替えるなんて……本当、探偵って人種は夢の中までデリカシーがないんだから…!」
怒りが収まらない様子でそう言うと哀は再び地下へと降りて行った。

















































































果たして哀嬢の初々しい思い出はどんな形に塗り替えられてしまったのでしょうか…?
オチは桜雪様のコミックスでお楽しみ下さい!