信じる力



「ミラノコレクションの準備で忙しくなる前に一度ゆっくり会いたい」と、阿笠博士にフサエ・木之下・キャンベルが連絡して来たのは、11月も終わりを告げようとするある日の出来事だった。久しぶりの再会に心が弾んだ阿笠だったが、フサエのマネージャーに連れられ、辿り着いた場所が完成したばかりの米花インペリアルホテル最上階にある東京でも一、二を争う高級フレンチレストランだっただけに、店に一歩足を踏み入れた瞬間からその独特の雰囲気にすっかり圧倒されてしまった。
ワインで乾杯し、前菜に舌鼓を打ったあたりまでは何とかフサエとの会話についていく事も出来たが、本格的なフルコースを前に頭の中が段々真っ白になって行ってしまう。
「……阿笠君?」
フサエが心配そうな表情で阿笠の顔を覗き込んで来たのはギャルソンがメインディッシュを運んで来た時の事だった。
「な、何じゃ?フサエさん」
「デザイナー仲間が是非って言うものだから予約を入れたお店なんだけど……ひょっとしてお口に合わなかったかしら?」
「え?あ……」
どうやらいつの間にか会話を途切れさせてしまっていたらしい自分を反省し、「いや、そうではなくて……その……どうもこういう店には昔から縁がなくてのう」と、正直に打ち明ける。そんな阿笠にフサエは「そんなに硬直しないで。それじゃ美味しい料理も満足に楽しめなくてよ」と苦笑すると、通りかかったギャルソンに箸を一膳持って来るよう頼んでくれた。
「すまんのう、気を遣わせてしまって……」
「食事は美味しく頂くのが一番ですわ」
テーブルの上のキャンドルが照らし出す艶やかなフサエの微笑みに阿笠は思わず頬を赤らめると、「それにしても……相変らずお美しい。そのドレス、とても良くお似合いですぞ」と、年甲斐もなく欲望に支配されそうになる自分を隠すように呟いた。
「あら、阿笠君だって素敵よ。そのスーツ、哀ちゃんが選んでくれたんでしょう?」
「どうやらフサエさんにディナーへ誘われた事を聞きつけたようでの、強制的にダイエットさせられたんじゃ。まあ、そのお陰で今、この服が着られておるんじゃが……」
事実、哀が購入して来た当日はウエストもヒップもパンパンで、コナンから「博士、本当にそのスーツ着られるようになるのかよ?」と散々からかわれたものである。
「哀君と言えば……フサエさんにはまだ話しておらんかったの」
「何かありましたの?」
「今更といった感じではある話なんじゃが……どうやら新一のヤツに想いを告げられたようなんじゃ」
「まあ、そうでしたの」
「あの二人も色々あったが……やっと納まるところに納まったという感じかのう」
そんな言葉とともにウイスキーのグラスに手を伸ばしたその時、「……な〜にが『納まるところに納まった』よぉ〜」という女の声が聞こえたかと思うと、目の前からグラスが忽然と消え去った。拉致されたグラスの方向に振り返った瞬間、さすがの阿笠も驚きのあまり言葉を失う。
「君は…!?」
「お知り合いですの?」
「ま、まあ……知り合いと言えば知り合いなんじゃが……」
女の名前は宮本由美。警視庁交通課の女性警察官にして、事件と言えばコナンを引っ張り回す佐藤美和子警部補の親友だった。
「阿笠博士〜、随分綺麗な人とご一緒だけど……ひょっとして恋人とか?」
「こ、恋人と言うかその……」
まさか籍こそ入っていないものの妻のような存在だとも言えず、まごまごする阿笠を尻目に由美は「いいわよね〜、愛されてるって実感出来る人は……」と、独り言のように呟くとグラスに残っていたウイスキーを一気に飲み干してしまった。その様子に嫌でも既に泥酔している事を思い知らされる。
「これ、由美君、止めなさい!飲みすぎじゃ!」
「いいじゃないお酒くらい!飲まなきゃやってらんないわよ…!」
有無を言わせないかのような口調でギャルソンに「もう一杯ちょうだい!」とグラスを突き付ける由美の迫力に、阿笠とフサエのそれまでの甘いムードはすっかり消え去ってしまった。



「……で?酔い潰れた彼女をこの家まで連れて来たって訳?」
ベッドの上で気持ち良さそうに眠り込む由美に薄手の毛布を掛けると哀は呆れたように阿笠の方へ振り返った。
「仕方ないじゃろ?あのまま放っておく訳にもいかんかったし……」
「本当、お人好しなんだから……」
哀はやれやれと言いたげに大きな溜息をつくと「由美さんの事は私に任せて早くフサエさんの元に戻りなさいよ」と、命令するように呟いた。
「しかし……」
「心配いらないわ。鎮静剤入りの睡眠薬を打ったからそう簡単に目は覚まさないと思うし」
「……」
「……博士?」
「あの泥酔の様子から察するによっぽど嫌な事があったんじゃろう。店の人間にきちんと家まで送り届けると言った以上わしにも責任が……」
「気持ちは分かるけどしばらくこの状態なのよ。それなのにわざわざ傍についているつもり?」
「それはそうじゃが……哀君に丸投げする訳には……」
「いくらフサエさんでもせっかく二人きりのディナーを楽しんでいたのに自分を放り出して若い女を自宅に連れ帰った挙句、全く戻って来る様子がないなんてあんまりいい気しないんじゃないかしら?」
とどめを刺すような哀の台詞に阿笠は「……やれやれ、哀君には敵わんのう」と苦笑いを浮かべた。
「心配しなくても面倒な事は工藤君に任せるから大丈夫よ」
「……って、何でそこでいきなりオレの名前が出るんだよ!?」
それまで黙って阿笠と哀の会話に耳を傾けていたコナンは突然の指名に思わず抗議の声を上げた。
「あら、いつも警視庁の方々に色々お世話になっているんだからこれくらいしても罰は当たらないんじゃない?」
「……って、世話してるのオレの方だろーが!」
「そうかしら?あなただって何かって言うと高木刑事や千葉刑事を顎でこき使ってるじゃない」
「それはあくまで事件を解決するためであってだな、別にオレは……」
コナンの反論は「……それじゃあ悪いが二人とも由美さんをお願い出来るかのう」という阿笠の言葉に遮られた。
「……」
その子供のような笑顔にコナンはその先の言葉を飲み込む事しか出来なかった。



「……ったく、博士のヤツ、お人好しにも程があるぜ」
阿笠が乗ったタクシーが視界から消えるとコナンの口から思わず愚痴がこぼれた。
「そんなの今に始まった話じゃないでしょう?それに……」
「あん?」
「博士がああいう人じゃなかったら私は今、ここにいなかっただろうし……」
「……」
確かに阿笠の存在がなかったら哀の運命は大きく変わっていたはずで、コナンは小さく肩をすくめると「……で?どうすんだ?」と話を変えるように呟いた。
「どうするって?」
「由美さんの事に決まってんだろ?あの様子じゃ相当厄介な問題を抱えてそうだぜ?」
「確かに……いつも明るい彼女らしくないわね」
「だからってオレ達が下手に首突っ込む訳にもいかねえし……夜が明けたら佐藤刑事にでも連絡した方がいいんじゃねえか?」
「バカね、ひょっとしたらその佐藤刑事と何かあったのかもしれないじゃない」
「だったらどうすればいいんだよ?」
「あなた探偵でしょ?それくらい自分で考えたら?」
「何でここで探偵が関係あるんだ!」と言い返したいのはやまやまだが、口で勝てる相手ではない。コナンはハァと大きな溜息をつくと、「とりあえずしばらく意識は戻らねえんだろ?オレ達もそろそろ寝ようぜ」という捨て台詞とともに自室へと引き上げて行った。



目を開いた由美の目に映ったのは見慣れない天井だった。
(あれ?私……ここは一体……?)
ホテルの一室という感じではないし、何より驚いたのは自分がいつの間にかダボダボのパジャマに着替えさせられている事だ。やけっぱちで米花インペリアルホテルの最上階の高級レストランへ入ったところまでは覚えているが、その後、果たして何があったというのだろう……?
戸惑いのあまり身動き出来ずにいると、ふいに部屋のドアが開き一人の少女が顔を見せた。
「気が付いた?」
「あなた…阿笠博士の家に住んでいる……」
「灰原哀よ。博士があなたを保護して来たの。もっともその博士は今留守だけど」
「じゃあここは……?」
「ええ。酔い潰れちゃってどうしようもなかったからってタクシーで連れて来たの。次に会った時、お礼くらい言っておいた方がいいんじゃない?恋人とのデートを中断してあなたを保護してくれたんだから。あ、ちなみに今、あなたが着ているパジャマは博士の物だけど、着替えは私がさせてもらったから安心していいわよ」
小学生の少女に成人女性が諭されるという情けない構図に由美としては苦笑するしかない。そんな由美の心境に気付いているのかいないのか、哀は「あなたの服はそこのハンガーに掛けてあるから」とだけ言うと、さっさと部屋を出て行こうとする。
「あ……」
「何?」
「その……聞かないの?私があそこまで泥酔してた理由」
「私、好奇心旺盛な名探偵さんと違って他人の事に興味ないから。もっとも、その名探偵さんは『事件だ』ってさっき佐藤刑事に連れて行かれたけどね」
「……」
「まだ四時よ。もう少し眠るといいわ」
それだけ言って再び部屋を後にしようとした哀は「……信じられる訳ないじゃない」と独り言のように呟く由美に思わず彼女の方に振り返った。初めて見るその神妙な表情にさすがに放っておく訳にはいかないと判断し、「信じられないって何が?」と話の先を促す。
「実は……チュウ吉に言われたの。『八冠は逃しちゃったけど僕と結婚してくれませんか』って……よりによって王将戦で負けた次の日に……!」
「でも彼、確か……」
「あなたも覚えてるでしょ!?八冠達成するまで待ってて欲しいって言ってたのはチュウ吉なのよ!それなのに……『僕もそろそろ納まるところに納まらないと』ってヘラヘラ笑ってんじゃないっつーの!!」
怒りのあまり早口で捲し立てる由美に哀は「年齢的にもいいんじゃないの?どうせ彼以外の人と結婚する気ないんでしょうし」と、何か問題でも?と言わんばかりな視線を投げた。
「それは……」
「事ある毎に『早く結婚して専業主婦になりたい』って愚痴ってるって佐藤刑事が笑ってたわよ?良かったじゃない」
「良くないわよ!アイツ、本当に強情で一度決めた事は絶対曲げなくて……そんなチュウ吉が妥協するなんて……アイツにとって私との結婚なんてその程度の事だったって訳!?」
どう見ても由美にゾッコンな羽田を思うと滑稽でしかないが、大真面目に憤慨する由美に哀は「なるほど?自分が大切にされてないんじゃないかって疑心暗鬼に陥ってるのね」と肩をすくめた。
「私はチュウ吉を信じて八冠王になるのを待ってたのよ!なのによりによってこんなタイミングでプロポーズして来るなんて……アイツ、私の事信用してないんだわ!そう思うと口惜しくて口惜しくて……!」
羽田の前で散々『元カレ』発言していた事を思うと自業自得のような気もするが、火に油を注ぐのも愚かな選択だ。さて、どうしたものかと思案したその時、「太閤名人は由美さんを信用してるからプロポーズしたんだと思うよ」という声が聞こえた。振り向くといつの間にかコナンがリビングのドアにもたれ掛って苦笑いと共にこちらを見つめている。
「あら、珍しいわね。名探偵さんが事件を放り出して人生相談に出向いてくれたの?」
「バーロー、オレはカウンセラーじゃねえっつーの。謎は解けたから後は佐藤刑事に任せていいと判断しただけの話さ」
「それにしても早かったじゃない」
「ああ、居合わせた太閤名人が知恵を貸してくれたからな」
「チュウ吉が!?どうして!?」
「事件現場が太閤名人の住むマンション近くだったんだ。小腹が空いたからってコンビニにおにぎりを買いに行く途中だって笑ってたよ」
「こんな時間におにぎり……ったく、アイツ、また夕飯きちんと採らなかったの!?」
「太閤名人言ってたよ。由美さんが傍にいてくれると自分をきちんと管理してくれるから助かるって」
「それは……でも別に彼女でいても出来る事じゃない。自分を曲げてまで結婚しなくても……!」
「ねえ、由美さん。あのスリのおじいさん、まだアパートの管理人やってるんだよね?」
「え、ええ。あの年齢で転職なんて無理でしょ。前科者じゃ就職も色々大変だろうし……ってそんな事今はどうでも……!」
「太閤名人、さすがに落ち込んだみたいだよ。八冠に王手がかかってたから余計にね。さすがに一人になりたくなかったみたいで王将戦があった日の夜、由美さんのアパートへ立ち寄ったんだって。でも由美さん留守だったみたいで……」
「ああ、あの日は杯戸町で大規模な検問を敷く事になったって応援に駆り出されて……」
「仕方なく帰ろうとした時、管理人さんに呼び止められたんだって。『せっかくじゃからわしの相手をしてくれんか』って誘われて……久し振りに朝まで将棋を指したって笑ってたよ」
「アイツ、私にはそんな話一言も……」
「結果は太閤名人の全勝だったらしいんだけど、朝になって帰ろうとした時おじいさんに言われたんだって。『お前さんの将棋は優し過ぎる。さっさとあのねねと結婚して北の政所になってもらえ』って」
「え……?」
「なるほど?太閤名人が信念を曲げたのはあのおじいさんのアドバイスだったって訳ね」
「ああ。太閤名人も『棋士としての自分を中学生の頃から見ていた人の言う事は説得力あるな』って言ってたぜ」
「……人の結婚を邪魔した奴が今度はけしかけるなんて。本当、男って勝手なんだから!」
羽田がプロポーズした理由に納得出来たのだろう、口調とはうらはらに由美はホッとしたような表情を浮かべた。その様子に哀がポケットから一錠の錠剤を取り出し、彼女に差し出す。
「博士が開発した薬。二日酔いによく効くらしいわ。液キャべの成分を参考にしたって言うからまんざらでもないんじゃない?これを飲んでもう少し眠った方がいいわ」
「液キャべかあ、あれ、よく効くのよね〜」
「……どうやらあなたも始終お世話になっているようね」
「あ……」
由美は自嘲するように頭を掻くと「……ありがとう、お言葉に甘えてもう少し寝かせてもらう事にするわ」と、晴れやかな笑顔を見せた。



それから何日経っただろうか?
学校からの帰り道、近所のスーパーでコナンとともに夕飯の買い出しを終え、阿笠邸へ帰ろうとした哀は、ふいに背後から聞こえた小さなクラクションに後ろを振り返った。
「あら、学校帰りに二人仲良くお買い物?」
からかうような台詞とともに由美がパトカーの助手席から顔を覗かせる。
「ええ、今日はお米の特売日だから江戸川君に付き合ってもらったの」
「……って、オレは荷物持ちかよ!」
哀はコナンの抗議を完全に無視すると「その様子だと何かいい事があったみたいね」と、パトカーの傍へ歩み寄った。
「式はまだ先だけどチュウ吉と正式に婚約したの。しっかり指輪もゲットしたわ。散々待たされた分豪華なの買ってもらったのよv」
「へえ、良かったじゃない」
「阿笠博士にも一度きちんとお礼しないとね。今度ディナーでもどう?」
「そこまで丁寧にする必要ないと思うけど……」
「遠慮しないで。チュウ吉の奢りだから豪華に行きましょv」
朗らかに笑う由美は数日前愚痴っていた彼女とは別人のようで、哀は「……ったく。大人は世話がかかるわね」と苦笑いを浮かべた。
「博士には伝えておくわ。ただしあんまり高カロリーな物は食べさせないでね」
「私もドレス着るだめにダイエットしてるからその点は大丈夫よ。それじゃ、また連絡するわ」
由美がウインクした次の瞬間、パトカーが軽やかに発進する。巻き起こった小さなつむじ風に哀の赤みがかった髪がフワッとたなびいたその時、「なあ」とコナンが口を開いた。
「婚約した後で心配するのも何だけどよ……由美さん、どの程度知ってるんだ?」
「知ってるって?」
「その……赤井さんの事とかその他諸々……」
「さあ」
「さあって……」
「大丈夫よ。彼女、逞しいから」
「……」
「何よ?」
コナンはさりげなく哀の正面からの視線を逸らすと「『彼女』じゃなくて『女は』の間違いじゃねーの?」心の中で一人ごちた。



あとがき



原作に合わせる気は更々ないのですが(←)、チュウ吉と由美タンは面白いので白鳥×由美で書いていた『欲張りな選択』と合わせてリライトしました。こちらは随分差し替えが遅くなってしまい申し訳ありません(リライトによりテーマが少し変わってしまったのでタイトルも『信じること。』から変更しました)
変更によって由美さんの説得役が灰原さんから江戸川へ交代してしまったのですが、男性心理を説明するなら女性より男性が説明した方が説得力あるかな、と。実は江戸川君の告白にも裏で背中を押してくれた人がおり、今回書こうかなとも思ったのですが、話の中心はあくまで由美さんなので見送りました。別の作品で書く機会があれば書こうかなと思っています。