その花の色がごとく



目覚まし時計の音で目を覚ますと伊達メガネが半分外れていた。どうやらまた推理小説を読んでいてそのまま眠ってしまったらしい。
コナンは苦笑すると朝の静寂に不釣り合いなけたたましい音を止め、ベッドから起き上がった。部屋を出て階段を上がると「おはよう」と哀が声を掛けて来る。
「おはよう……あれ?博士は?」
「空港へフサエさんを迎えに行ったわよ。昨日夕食の時言ってたでしょ?」
「ああ、そういえば……」
「どうせ探偵左文字シリーズの新刊の事で頭が一杯だったんでしょうけど」
聡明な同居人には自分の行動パターンなどすっかり読まれているらしく、クスッと笑うと珈琲を差し出してくる。コナンは慌てて「それにしても……毎日毎日よく降るな」と、話題を逸らすように窓の外へ目を向けた。
「梅雨の季節だから仕方ないわ」
「そりゃ……」
「大体、雨が降らなかったらお米も野菜も育たないのよ?」
「へえ……」
「な、何よ?」
「『こう雨ばっかりじゃ洗濯物も乾かないしね』って昨日歩美と話してたのは誰だったっけ?」
「あれは……吉田さんが『明日体育あるから雨止まないかな』って言うからそう言っただけの話で……それに……」
「ん?」
「雨は……嫌いじゃないし……」
ポツリと呟き、窓の外に視線を送ると哀はそのまま黙り込んでしまった。
おそらく彼女にとって雨の記憶と言えば阿笠に拾われた日の出来事なのだろう。『灰原哀』の誕生日と言っても過言ではないあの日、コナン自身は居合わせなかったものの、当時の哀にとって阿笠の優しさが身に染みた事は簡単に想像出来る。
相変らず自分の気持ちを表現する事が不器用な哀にコナンはフッと微笑むと「……そっか」と呟いた。



「……どうやら明日も雨のようじゃのう」
テレビから流れる天気予報に阿笠が溜息をつく。今回のフサエの来日は元々はプライベート目的だったのだが、当代きっての人気デザイナーをマスコミ各社が放っておくはずはなく、完全フリーになるのは明日一日だけになってしまったらしい。阿笠の話ではどうやら今日も空港から仕事先へ直接向かったようだ。
「ま、この季節じゃな」
「せっかくじゃからドライブでも思っとったんじゃが……」
いつも愛車に乗せる人間が自分や哀、探偵団というのが気の毒だとは思うものの、天気ばかりはコナンにもどうしようもない。
「ドライブってフサエさんの希望なのか?」
「そういう訳ではないが……たまには都心を離れて日本情緒溢れる場所でのんびりしたいと言っておったからのう」
「日本情緒溢れる場所ねえ……天気も悪いみてえだし日帰り温泉とか行って来たらどうだ?」
「そ、そんな恥ずかしい事……わ、わしには……!」
いい年して顔を真っ赤にする阿笠にコナンは思わず吹き出してしまった。
「誰も混浴なんて言ってねえだろ?」
「……」
冷静な突っ込みに阿笠の顔は益々赤くなってしまう。
「天気さえよければ東京近郊の寺を巡るのも悪くないと思うんじゃが……」
「正確に言うとお寺じゃないみたいだけど……ここなんか逆に雨が似合う場所じゃないかしら?」
コナンと阿笠の会話に哀が口を挟むと読んでいたファッション誌を差し出した。



総門で拝観料を払い境内へ足を踏み入れると早速この名所で一番絵になる風景が飛び込んで来た。山門へと続く石段の両側には青磁色の紫陽花が咲き乱れている。途中歩いて来た道にも咲いてはいたものの、別名「あじさい寺」と呼ばれるだけの事はあり、その光景は圧巻だった。
「朝一番を狙って来た甲斐があったのう」
平日でしかも天気のせいか予想したほどの混雑もなく、どうやらゆっくり境内を散策出来そうだ。
「明月院……噂には聞いてたけど本当に素晴らしいわね」
フサエが嬉しそうに呟くと歴史が書かれた立て札に見入る。
「やっぱり……英語の方が読みやすいですか?」
哀の言葉にコナンと阿笠はフサエの視線が向かって左側の注釈に注がれている事に気付いた。
「そうね、私が日本にいたのは本当に短い期間だったし、仕事も英語が中心だから……そういえば哀ちゃんも結構長い間アメリカに留学してたのよね?」
「はい、そのせいか私も難しい文章はついつい英語を読んでしまう癖が抜けなくて……」
「日本語独特の美しさってあるものね。お互いこれから頑張りましょう」
穏やかなフサエの微笑みに哀も笑顔になった。



「なあ博士」
本堂からの眺めをゆっくり楽しむ哀とフサエに先行して枯山水庭園へやって来るとコナンは阿笠の方に振り返った。
「一体何が目的なんだ?」
「目的じゃと?」
「バーロー、学校さぼらせてまでオレと灰原を今日のデートに同行させたんだ。何か目的があるに決まってるじゃねえか」
「……やっぱり君にはバレておったか」
コナンの突っ込みに苦笑する阿笠だったが、一転して真面目な表情になると「哀君には内緒じゃが……これはフサエさんの希望なんじゃ」と呟いた。
「フサエさんの?」
「フサエさん自身、競争が激しいファッション業界でずっと一人で頑張ってきた事もあってせめて日本でわしと過ごす時ぐらい心安らぐ時間を過ごしたいと言っておるんじゃ。そのためには君や哀君とも親しくなった方がいいじゃろう?」
「まあ……分からなくもねえけどな」
コナンの両親、優作と有希子は元来脳天気な事もあってあまり経験はないようだが、作家や俳優、デザイナーといった才能の世界は浮き沈みが激しく、そのプレッシャーは半端ではないと聞く。
「それに……わしも哀君がフサエさんに心を開けるようになってくれればいいと思うしのう」
「え?」
「テープで声が聴けるとはいえ哀君は母親のぬくもりというものを知らんじゃろう?わしには父親代わりは出来ても母親代わりは無理じゃ。この先成長していって女親でなければ相談しづらい事も出てくるじゃろうし……外国暮らしの経験があって動物好きなフサエさんなら哀君も話が合うじゃろうて」
まるで実の父親のごとく哀を想う阿笠にコナンは言葉を失った。
「……新一君?」
「もし……オレがアイツをそういう対象として見ていると言ったら……博士は許してくれるか?」
「なんじゃ、急に改まって。許すも許さないも君が哀君を大切に想ってくれると言うならわしは大歓迎じゃぞ」
「蘭との事を知ってても……か?」
「蘭君との事?」
「確かに……元の身体に戻らなかったって事も大きいとは思う。けど、オレが蘭からアイツに心変わりしたのは紛れもない事実だ。ずっと一人の女性を大切に想って来た博士がそんなオレとアイツが付き合う事に不安とか抱かないのか?」
コナンの真剣な表情に一瞬面食らったような顔をした阿笠だったが、「……紫陽花の花言葉は『移り気』じゃったかのう」と呟くと庭園の向こうに見える青磁色の花の群れを穏やかな表情で見つめた。
「君に隠しても仕方ないから白状するが……わしだってフサエさんと会わなかった40年間、ずっと彼女を想っておった訳ではないぞ。今、こうしてフサエさんと過ごしておるのはあくまで結果論じゃ。おそらくフサエさんも同じじゃろう。あんな美人を周りの男が放っておくはずがないじゃろうし……」
「それは……」
「土壌の酸度で色が変わるあの花と同じように人の心も出会いによって変化するものじゃ。わしとフサエさんはたまたま巡り巡ってお互い初恋に戻っただけの話であって……むしろ奇特なパターンじゃろうて」
「……」
「第一、わしがフサエさんの名前すら覚えておらんかった事は君も知っておるじゃろう?」
「ハハ……」
少年探偵団の三人を巻き込んでフサエが10年毎に阿笠を待っていた場所を解いたのも今ではいい思い出だ。
「心配せんでも哀君は利口な子じゃ。人の心が一番厄介なものである事は分かっておるじゃろう」
「……」
『時と人の心は経てば経つほど離れて行くって言うし……』かつて哀が言っていた台詞がコナンの頭に鮮明に蘇った時だった。
「……男二人、何をコソコソ話しているのかしら?」
ふいに背後からかけられた声に振り向くと、いつの間にか哀とフサエが立っていた。
「べ、別に大した事じゃ……昼飯どこで食おうかって話してただけさ。それより……おめえにしては珍しい物買ったな」
コナンの目は哀の手に握られた袋を捉えていた。
「い、いいじゃない」
照れたように傘で顔を隠す哀に思わず苦笑する。今日ここへ来る事を提案した彼女がそのお守りの意味を知らぬ訳はあるまい。結ばれた縁が切れてしまわないよう願うという事、それは人の心の移ろいやすさを知っているからこそだろう。
(見えない未来に怖気づいてばかりいても仕方ねえよな)
今の気持ちに素直に生きる事も悪い事ではないだろう。雨に濡れ、美しさを増す紫陽花に励まされるようにコナンは哀の手を取った。
「……工藤君?」
「せっかくのデートなのにおめえがフサエさんを独占してたら博士が可哀想だろ?」
悪戯っ子のように笑うコナンに哀もその意図を察したようで「……そうね」と微笑む。
「じゃ博士、オレ達はオレ達で勝手に散策すっから」
「一時間後、入口で待ってるわ」
「お、おい……」
慌てて顔を赤くする阿笠に「じゃあな」とだけ言うとコナンは哀とともに静かな雨音と青と緑が支配する境内を歩き出した。



あとがき



「朔に舞う」管理人、瑠璃蝶々様とサイト開設2周年記念に「梅雨」のお題で競作させて頂いた作品です。梅雨→紫陽花→明月院という発想、相変らず単純だよなあ。でも、明月院は大好きなスポットなので個人的には書けて満足w (もっとも私が行った時は緑一色だったけどさ@爆)「紫陽花」がキーになっている作品ではありますが、実は「紫陽花」という単語をなるべく使わないように書いてみました。気付いて頂けたでしょうか?
ちなみに「雨が降らなかったらお米も野菜も育たないのよ?」って台詞、どこかで聞いた事がある方もみえるかもしれません@笑